[CML 027579] 辺見庸の反省 ――いっとき「ブログの記述を自粛し、最長でも1日5行までに制限する」のだそうな

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2013年 11月 11日 (月) 17:58:44 JST


辺見庸が彼の日記によく出てくるコビト(もしかしたらコビトはコイビトの隠喩なのかもしれません。もちろん、虚構上の)のクララに叱られ
たと言います。

      「こんなことあまり言いたくはないんだけど、あなたの書くことが最近、なんて言うか、すこし品位にかけてきてるとおもうの・・・」。

      「品位とはなにか、なんてあたしにはよくわからないけど・・・」「あれを読んだら女性差別的とかんじるひともいるんじゃないかし
      ら。不快におもったひとはすくなくないはずよ」

      「ひとの身体的なケッカン・・・じゃないわよね、そう、特徴を執拗かつ露骨にあげつらうって、どうかしらね、いけないことじゃない
      かしら。口にせよ耳にせよ××××(4字伏せ字)にせよ」。

      「『いかに現在の世論が反対しようと、差別は社会的領域の構成要因なのであり、それは平等が政治的領域の構成要因であ
      るのと同様である』って、もちろん、だれが、どんな女性が書いたか、あなた、知ってるわよね?」

      「重要なことは・・・。『あらゆるひとびとが社会のなかでじぶんがなんであるか――自分がだれであるかとは性質の異なるものと
      して――自分の役割と自分の職分とはなんであるかという問いに答えなければならない』ということなのよ。でしょ?」

      「(〈社会の共同性〉をそもそも根本から否定するかのようなわたしの表現は)まるで全世界からの『追放』をじぶんから願いでて
      いるかのようだわ」

と。

辺見は次のように自省します。

      「なにを言われているか、わたしはわかっている。」

      「わたしはギクリとしつつ、「『世界』という名の口実」という言葉を深いあきらめのなかでおもいだしていた。コビトに裏切られた、
      という感情もしょうじきなくはなかった。」

しかし、辺見はついにはコビトに降参して次のような誓約文を書かされることになります。

      ^貮不適切な表現を伏せ字とする

      ¬斉から当分のあいだブログの記述を自粛し、最長でも1日5行までに制限する

      コンプライアンスを遵守し、ひととしての品位をたもつ
                                                                             
                                                                             
                辺見庸「不稽日録」(2013/11/10)
                                                                             
                                                                          http://yo-hemmi.net/article/379448340.html

私もここ最近の辺見の「日録」には少し卑猥なコトバ遣いがすぎるな、とは思っていました。「チンカス」や「マンカス」、「おサネ」「糞」「馬
の×××(3字伏せ字)でも楽々スッポリおさめられそうな、おばさんの口」などなど。 


しかし、私は、辺見はわざと自分を壊して(悪ぶって)いるのだな、と思っています。 
 辺見は自分をまかり間違っても「道徳的」な人間など
と「誤解」されるのは大嫌いなのです。自分の話を「教訓」のように熱心にメモしている人など見たらおそらく反吐を催してしまうでしょう。だ
から、自分をわざと壊している。壊そうとしている。端的に言って、辺見流の「衒い」と「韜晦」の為せる業だな、というのが私の解釈です。

辺見はそういう人だというのが私の辺見文学の理解です。というよりも、辺見は自分で自分のことをそう言っています。

      「なりすまし、というのがいるらしい。わたしの文章を解体・分離し、毎日、それらの断片をわたしの写真とともにせっせせっせと
      ばらまいているのだという。ご苦労なことだ。サイバースペースではIDも著作権も肖像権もあったものではないから、とくにおどろ
      きはしない。(略)ただ、ふとおもふ。危険だな。なりすましにはどうやら誤解があるようだ。「わたし」がごくおとなしく、フツウに正
      気で、平和的で、非倒錯的で、いわゆる正義の味方だ・・・という平板な誤解。残念だ。」(「不稽日録」 2013/08/14)

      「それより、わたしがとても憎んでバカだとおもっているのは、ほかでもない、じぶんです。(略)殺したいほどの敵など、わたしじ
      しんをのぞけば、どこにもいません。(略)わたしはわたしが明白な「正義」の側に立ち、正義面またはそれに似た顔つきをする
      ときに、心底軽蔑し、殺意をおぼえます。わたしは、まだ見たことはありませんが、救いのない「悪」にこそ惹かれているのです。」
      (同上 2013/08/28)

      「私の顕著な特徴はですね、「善」よりも「悪」に魅力を感じるという、類いまれといいますか、自分でもどうにもならない性癖があ
      ります。何が善で何が悪か、語れば尽きませんが、ゲーテの『ファウスト』でいえば、メフィストフェレスのほうが魅力があるという
      意味合いで、私は「悪」に対してとても興味と親近感を持っているということであります。それが私の自己紹介のようなものになる
      かもしれません。」(2013年8月31日講演)
      http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-689.html

辺見には次のような述懐もあります。

      「ひとというのは、ある宿命をみずからに仮構することによって、大半の可能性を流産させながら着実に老いてゆく。「自己にとっ
      ての自己」ではなく「他者に見られるがままの自己」を演じる(選ぶ)ことにより、(左右の)権力側の人間かよく服従する者になっ
      ていく。(略)フュール-ジッヒ。向自とはあくまでも、己にとっての己を、どこまでも見すえることである。集団にとっての自己、組織
      にとっての自己、大衆にとっての自己、市民社会にとっての自己、読者にとっての自己ではない。徹して己にとっての己である。
      (略)わたしたちはほとんど対自せず、己にとっての己をつきつめないで、そして、まさにそうしてこそ、抗わぬ良民を装うことがで
      きる。「自己にとっての自己」ではなく「他者に見られるがままの自己」を演じること。わたしではなく、わたしたちとして、日一日、
      刻一刻と老いおとろえてゆく。わたしはエベレスト*から、ちかくの計画緑地にむかった。むっとする草いきれ。下草がのび放題で、
      栄養をうばわれた樹々が、病んでいるのだろうか、みな黒く骨ばって、醜く老いさらばえていた。そこを〈魔女の森〉と命名すること
      にした。ルリマツリがフェンスからはみでて咲いていた。(「不稽日録」 2013/07/24)

      *引用者注:辺見の「私事片々」の2013年7月16日付けの記に「アパートから200メートルも離れていないカフェまでよろよろ歩き、
      コーヒーを飲んで、またよろよろ帰ってくる(略)。帰途、「エベレスト」にのぼるのを忘れない。ハナミズキのある角の広場の土盛り
      は高さ1メートルもないのだけれど、わたしにとっては断崖絶壁なので、エベレストと名づけた」とあります。


東本高志@大分
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http://mizukith.blog91.fc2.com/ 



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