[CML 024021] 非武装・不戦エッセイ その3 井上澄夫

井上澄夫 s-inoue at js4.so-net.ne.jp
2013年 5月 3日 (金) 12:30:11 JST


非武装・不戦エッセイ その3

                               井上澄夫

「国」から降りること

 ここでいう「国(くに)」は国家のことだ。自分が住む地域、郷土、ふるさとをクニというが、これは「邦」であって、本来国家とは関係ない。奈良という地名は朝鮮語のナラ、国に由来する。奈良はもともと小さな一つのクニだったが、その長を天皇として近隣地域への武力支配を広げることで次第に「国」になっていった。

 国家は支配を広げ強化するためにクニに執拗にまつわりつくが、「オラガサト」や「オラホ」は国家があるから存在するのではない。もともと国家にかかわりなくクニは自生して存在したのだ。郷土の地域に自然に育ったのである。いわば自然薯(じねんじょ)である。

 世のことについてまともにものを考えようとすれば、まず「国」から降りたほうがいい。「国」を前提にすると、どうしても支配のための行政機構、つまり政治権力の磁場に引き寄せられ、発想が著しく縛られる。自由な思考が制約される。

 政権にありついた多くの政治家が「わが国としては」「ニッポンコクとしては」「わが政府は」などと語りだすが、「わが国」でも「ニッポンコク」でも「政府」でもない〈私〉はそんな主語で語る必要もなければそうする理由もない。〈私〉は〈私〉である。

 あれやこれやのいかにも「国」を背負っているかのような発言は眉にツバをつけて聞くほうがいい。いつか保守派の評論家が『国を憂えてどこが悪い』という本を書いた。別に悪くはないよといいたいが、問題は著者のいう「国」とは何かだろう。著者の鮮明な定義を聞きたいものだがすでに故人のようだ。

 アベ・シンゾー首相にとって「わが国」は彼の政権のことである。したがって彼のいう「国益」は「安倍自民党政権にとっての利益」である。「国益」という表現にある「国」に庶民の一人、一般市民である自分が含まれると誤解する人もいるが、それこそペテンのプロたる執権者の思う壺である。

 あるとき、立ち呑み屋で一杯やりながらその店に備え付けの巨大画面のテレビを見ていたら、すぐ隣で呑んでいた、いかにも仕事帰りとおぼしき作業服の初老の男がテレビに向かって「うそだ!」と叫んだ。余りに大声でせっぱ詰まった語調だったので、店のざわめきが一瞬止まったほどだった。
 それは政党のCMでナレーションは「○○党はあなたのことを考えています」と言ったのだ。叫んだ男に文句を言う者はいず、むしろ静かな共感の空気が広がり、すぐにもとの喧騒が戻ったが、その男はまったく正しいことを言ったのだ。

 「国」から降りてものを見、感じたい。そうすれば刷り込まれた偏見や幻想から解放され、自由にものを考えることができる。地球上の一点に生きている〈私〉が人工の造り物にすぎない「国」なんぞに縛られて生きるのはつまらない。近代国民国家なるものは人工的な被造物であり、自然薯ではない。日本の各地に生きていた人民、住民を国民(帝国臣民)に仕立て上げるのに使われた政治手法はまず徴兵制と義務教育だった。税制と戸籍制度、制限選挙制度もあずかって力になった。それで○○藩○○村の誰べえが大日本帝国に組み込まれていったのだ。

 「わが国」を背負って意気込むヤカラの言動に左右されず、いっさい協力しない。しかしこちらに害を及ぼすなら反撃する。必要なら「国」を覆す。植木枝盛の東洋大日本国国憲按にこうあるが、それが自由人としての一市民であることだ。
 【第72条 政府恣ニ国憲ニ背キ擅ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得】

 〈私〉はそもそも「ニッポンジン」として生まれたのではない。親が役場に出生届を出したことで日本国籍を得させられたにすぎない。幼児期に自分の意思にかかわりなく洗礼を受けさせられたのと変わらない。

 「国」から降りてものを考えることは、国籍にも国境にも領土にも縛られず生きることだ。
 
 アンタ、ナニジンかね。ハハハ、チキュウジンだよ。ウチュウジンかな?



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