[CML 025083] 沖縄も兵士も、捨て石だった 慰霊の日、県外から祈る

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2013年 6月 24日 (月) 11:12:09 JST


新聞記事
朝日新聞・朝刊 2013.6.23
沖縄も兵士も、捨て石だった 慰霊の日、県外から祈る
http://digital.asahi.com/articles/SEB201306220119.html

遺族らが高齢化し、「無縁化」が懸念される沖縄戦の慰霊碑。
死んだ戦友の碑を自ら建て、23日の「慰霊の日」などにあわせて20年以上、毎年訪れてきた
元日本兵の男性も、今年初めて断念した。
「戦友の命と引きかえに生かされた身。現地で弔えないのは残念で仕方ない」。
遠く海を隔てた自宅から、手をあわせる。

 22日昼、糸満市摩文仁の平和祈念公園の一角。
旧日本陸軍第62師団の「第十三大隊慰霊碑」の前には、供物もなく、セミ時雨が降り注ぐ
ばかりだった。

 三重県桑名市の近藤一さん(93)が1991年、遺族らに呼びかけて建てた。
だが、近年は訪れる戦友や遺族はほとんどいなくなった。
近藤さんも今年は足の痛みがひかず、かなわなかった。
「本当に心残り。死ぬ前に必ず、もう一度沖縄に行く」

 初めて沖縄の地を踏んだのは44年8月。
3年8カ月間いた中国戦線から転戦した。
船の甲板から眺めた沖縄のしたたるような緑に「ここは天国だ」と思った。
しかし8カ月後、「この世の地獄」を見る。

 45年4月に米軍が沖縄本島に上陸した後、所属した13大隊はたえず激戦地に置かれた。
いまの宜野湾市の嘉数では、右の鎖骨を撃ち抜かれた。
右腕を三角巾でつった状態で、首里の前線に戻された。

 戦友たちは米軍戦車の火炎放射で火だるまになった。
若い兵士は戦車を爆破するため、爆弾を抱えて穴に潜んだ。
「生還率はほぼゼロだった」。
約1200人いた大隊で、生き残ったのはわずか92人だった。

 82年、元兵士に呼びかけて沖縄戦を語る会をつくった。
本土決戦を引き延ばすため、持久戦を強いられた沖縄。
「兵隊は国から捨てられ、虫けら以下の死を与えられた」と、各地で怒りを込めて訴えてきた。

■住民の苦労知り、語り部に

 語り部を始めた動機には、沖縄の人たちが日本兵に抱く「負のイメージ」をぬぐいたい、との
思いも強くあった。
軍命による集団自決、壕の追い出し、方言で話した者の処刑……。
「13大隊では聞いたことがない。
前線の兵隊は沖縄を守るため、必死で戦った」

 ただ、そうした軍の行いは否定しきれない事実だと次第にわかってきた。
「スパイの疑いをかけられた母親が殺された」という話も地元の男性から直接聞いた。 

「全容を知るにつけ、沖縄の人は兵士以上に苦労したと思うようになった。
戦友のために沖縄に通い始めたが、最近は住民と戦友への思いが半々になった」と語る。 


 平和祈念公園の「平和の礎」には、命を落とした沖縄の住民、日本兵、米兵らの名がひとしく
刻まれている。

 「沖縄も、末端の兵士も、国の捨て石になったんです」

 今年の慰霊の日は、自宅で祈りを捧げる。
大隊の慰霊碑には、交流を続けてきた沖縄の元女子学徒隊員に頼み、花束を手向けてもらう
ことにしている。


 〈沖縄戦の日本軍〉
1945年3~6月の沖縄戦で沖縄守備にあたった第32軍は、戦闘を長びかせることで米軍の
本土上陸を遅らせる作戦をとった。
沖縄本島と離島を合わせた兵員は約11万人。
米軍は約55万人と圧倒的な差があった。
戦死者は米軍が約1万2500人で、日本軍は約9万4千人(うち沖縄県民の軍人軍属は約2万8千人)
に上った。
45年6月23日に日本軍の組織的戦闘は終結した。 



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