[CML 025027] 終わらなかった沖縄戦 6・23から23年後、青年は命を絶った
BARA
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2013年 6月 21日 (金) 13:34:56 JST
新聞記事
朝日新聞・東京・朝刊2013.6.21
終わらなかった沖縄戦 6・23から23年後、青年は命を絶った
http://digital.asahi.com/articles/TKY201306200761.html?ref=pcviewer
本土復帰前の沖縄から文学を志して上京した青年が45年前の「8・15」に自ら命を絶った。
青年は幼少期に不発弾で両目を負傷し、視力を失っていた。
不発弾処理は今も続く。
沖縄戦で日本軍の組織的抵抗が終わった「6・23」の後も、終わらなかった戦争をたどった。
■不発弾で失明、文学の道半ば
1968年8月15日夕、東京都豊島区。
沖縄県具志頭村(現・八重瀬町)出身の真喜屋実蔵さんが陸橋から飛び降り自殺した。
早大第二文学部に進んで5年目。
29歳だった。
兄にあてた遺書に、不孝をわびる短い言葉がつづられていた。
敗戦の23年後、沖縄が日本に返還される4年前の話だ。
在学中、真喜屋さんは多くの詩や短歌を残していた。
台湾に疎開し、敗戦後、沖縄に引き揚げてきたが、「沖縄戦線」と題した詩には、人から聞いた
地上戦をつづっていた。
《火を吐く銃飛び散る弾丸/血と肉片うめきと叫び/るいるいたる死者の残骸》
描かれた情景は、米軍占領下の沖縄で、真喜屋さんと収容所暮らしをともにした那覇市繁多川の
波平元維さん(74)の体験そのものだった
米軍が沖縄本島中部から攻め入り、南部の洋上から艦砲射撃が続くなかを逃げ惑った。
1945年6月ごろ、当時6歳だった。「歩かないと捨てられる」。目の前で人が砲弾に倒れるのを
見ても、何も感じなかった。
自宅から十数キロ離れた南部のガマ(自然壕〈ごう〉)に隠れていたところを米兵に見つかり、
捕虜になった。
テントのような小屋に、5~6家族が身を寄せ合う収容所生活。同学年の真喜屋さんは父が戦死し、
母と兄、妹の
4人家族だった。
47年のある日、兄とおもちゃ代わりにいじっていた不発弾が暴発して、両目と右手を大けがした。
波平さんは収容所が大騒ぎになったのを覚えている。
収容所とはいえ、波平さんは当時の暮らしに、「もう爆弾の下を逃げ回らなくていいんだ」と安堵を
感じていた。
一方、真喜屋さんの苦難はここから始まったと思う。
「あのときから、真喜屋さんは隠れるように暮らし、近所ではほとんど見かけなくなった」
激しい地上戦で焼けた那覇市内の盲学校が再建されたのは、戦後6年経った51年だった。
真喜屋さんは、12歳で1年生として入学し、初めて点字を学ぶ機会を得た。
「みんなで草刈りをすると、遺骨がいっぱい見つかり、集めて毎週供養をしていた」。
同級生だった群馬県みなかみ町、大森達太郎さん(72)は振り返る。点字器は3人に1台。
豚を飼い、食料を補った。
多くの同級生がマッサージで生計を立てるため、本土へ渡った。
一方、真喜屋さんは右手の大けがでマッサージができず、「文学で身を立てる」と語っていた。
25歳で早大に合格。地元紙も大きく報じた。地域の人たちはカンパを集め、門出を祝った。
だが、東京での生活は順調ではなかった。
《まず石ありめしいなるわれ白杖(はくじょう)に命をかけて横断し道行く》
沖縄出身というだけで差別され、外を歩くと「目が見えないくせにブラブラ歩いて」という人もいた。
進学のため、上京していた大森さんと食事をすると、「本を朗読してくれる人が少ない」「お金がない」と
悩みを漏らした。
大森さんはマッサージ師の職を求めて群馬県の温泉街に移り住んだ後、真喜屋さんの悲報を聞いた。
留年で琉球政府などの奨学金が打ち切られ、精神的に追い詰められていたという。
「頼る人もなく、孤独に落ちていったのではないでしょうか」
埼玉県出身で、大学の同級生だった塩谷治さん(69)は、真喜屋さんとの出会いが縁で点字を学び、
卒業後は
視覚障害者教育の道へ。
全国盲ろう者協会の事務局長も務めた。
この春、真喜屋さんが残した詩や短歌を約90ページの作品集「春想(しゅんそう)」にまとめ、出版した。
《不発弾かつもてあそび傷つきし事件/跡(あと)を絶たず朝な夕なに胸を傷めき》
真喜屋さんの死を「戦争犠牲者の沖縄青年が抗議の死」と報じた全国紙もあったが、塩谷さんの知る
真喜屋さんはどこか達観したようで、戦争への怒りを口にすることもなかった。
終戦記念日の自死に、戦争が影を落としていたのか、塩谷さんにはわからない。
「ただ、戦争の不条理さと向き合い続けた人生だったことには違いない」。
そう心を整理している。(仲村和代)
◆6・23「慰霊の日」(キーワード)
<沖縄戦と不発弾> 沖縄戦は1945年3月26日、米軍の慶良間(けらま)諸島上陸に始まった。
沖縄本島が主戦場になり、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったのは同年6月23日。
戦後、沖縄県はこの日を「慰霊の日」に定めた。
空襲や艦砲射撃を無差別に加え、おびただしい数の砲弾を撃ち込んだ米軍の物量作戦は
「鉄の暴風」と呼ばれ、
軍民20万人超の死者を出した。
県の推計では、日米両軍が使った砲弾は約20万トン。
このうち、約1万トンが不発弾になり、約2100トンが処理されないまま地中に眠っている。
2012年度は748件、計23・7トンの不発弾が処理された。
事故も起きており、1974年には那覇市の工事現場で旧日本軍の地雷が爆発し、38人が死傷。
2009年にも糸満市で不発弾が暴発し、負傷者が出た。
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