[CML 025026] 戦争はいつの間にかやってきた 沖縄戦「集団自決」68年生き延びて語る
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2013年 6月 21日 (金) 13:26:12 JST
新聞記事
朝日新聞・名古屋・朝刊 2013.6.21
(東京本社版は 別記事)
沖縄戦「集団自決」68年生き延びて語る
戦争はいつの間にかやってきた
すり込まれた国家への忠誠心
太平洋戦争末期の沖縄戦で、米軍が最初に上陸した慶良間諸島では、
国家への忠誠心をすり込まれた住民が家族同士で殺し合う「集団自決」が起きた。
住民たちは「よりよい日本人」をめざす道に追い込まれていた。
沖縄は23日、沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎える。
さびた鉄のような血のにおいが充満した雑木林。
死体が折り重なっている。
そこにひとり取り残され、殺されるのを待っている。
沖縄県、・渡嘉敷島に住む小嶺正雄さん(83)は、今もこんな悪夢にうなされる。
1945年3月28日の日中だった。
当時15歳。
たくさんの島民が、日本軍の陣地に近い山の中に集められた。
軍の命令で前夜、どしゃぶりの中を移動してきた。
その日の朝、島に米軍が上陸していた。
事前に各世帯に手投げ弾が配られていた。
米軍の銃弾が頭上を飛び交う中、村長が声を張り上げた。
「天皇陛下、バンザーイ!」。
直後、家族や親類ごとにつくつた輪のあちこちから、バーンと爆発音が
鳴りだした。
ちぎれた腕や足が飛んできた。
内臓が飛び出した人がいた。
小嶺さんも手投げ弾を爆発させようとしたが、雨で湿ったのか、不発だった。
死にきれなかった人たちが、ナタやノコギリで家族を斬り殺していた。
「人間じゃない」。
恐怖の絶頂だった。
「急に死にたくないという思いがわき起こった。逃げたいと」
直前まで「皇国臣民として立派に死んでみせる」と覚悟を決めていた。
だが、転がる死体を見て、思いは吹き飛んだ。
沖縄戦で米軍が最初に上陸した慶良間諸島では、45年3月26~28日に
「集団自決」が起こり、渡嘉敷、座間味、慶留間の3島で約600人が死んだ。
日中戦争が始まった37年ごろから、小嶺さんが通った尋常小学校では毎朝、
東京の皇居に向かって敬礼させられた。
修身の授業では、日清戦争で敵に撃たれても突撃ラッパを離さずに死んだ
兵隊の話に感動した。
歴史では明治からの勝ち戦を教えられ、体育では竹やり訓練。
海軍に入る夢を抱いた。
44年には島に日本軍が駐留し始め、将校らから「生きて虜囚の辱めを受けず」
と教え込まれた。
沖縄では当時、独自の文化を捨てて阜く本土に同化しようという政策が、
県当局の指導で進められていた。
阿嘉島の垣花武一さん(83)は学校で、友達を「ヤー(おまえ)」と呼んだら、
方言を使った罰として杉板の「方言札」を首にぶら下げられた。
屈辱だった。
日本兵からは「ろくに日本語もしゃべれない」と馬鹿にされた。
「差別を見返してやろう、よりよい日本人になろうという意識が私たちを
徹底した皇国臣民にした」。
垣花さんは「集団自決」の背景に、すり込まれた国家への忠誠心があったと
思っている。
今年4月28日。
テレビは「主権回復の日」式典の様子を映していた。
「天皇陛下、万歳!」。
天皇皇后両陛下の退席にあわせ、安倍晋三首相らが両手を挙げて万歳三唱
していた。小嶺さんは、「集団自決」のときに村長が同じ言葉を発したのを
思い出した。
日中戦争が始まる37年まで、小嶺さんは家族のカツオ漁を手伝い、のどかな
空気が島を包んでいた。
戦争が始まると、身内にも召集令状が届き、教師は「お国のために死のう」
と書い出
した。
戦争はいつの間にかやってきて、皆を一つの方向に向かわせる。
気づいたときは後戻りできない。
今の時代に、「えたいの知れない気持ち悪さ」を感じている。
台頭する改憲論などが心配だ。
「平和なうちに、戦争につながりそうなものは止めなければならんのです」
今、子どもたちに体験を語っている。
それが生きのびた自分の務めだと思っている。(斎藤徹
■沖縄戦の「集団自決」
太平洋戦争末期、1945年の沖縄戦で、米軍との地上戦が行われた慶良間諸島や
沖縄本島で起きた住民の集団死。
住民が持久戦の足手まといになると考えた日本軍は、「生きて虜囚の辱めを
受けず」という戦陣訓を広め、手投げ弾を配布。
沖縄全域で少なくとも1千人近くが「集団自決」に追い込まれた。
座間味島の海上挺身隊戦隊長だった男性らは2005年、住民に「自決」を命じた
と大江健三郎さんの著作「沖縄ノート」で書かれ名誉を傷つけられたとして、
大江さんと発行元の岩波書店を訴える裁判を起こした。
最高裁は11年に原告の上告を退け、軍の関与を認めた大阪高裁判決が確定
している。
■沖縄への差別と同化政策
1879 琉球王国廃止 沖縄県に
1890 天皇崇敬を目的に、伝統進行を廃止 神道の布教教化
1895 皇民化教育の本格化
1899 沖縄の習慣を「本土」式に改める 風俗改良運動始まる
1903 内国勧業博覧会(大阪)で、「琉球人の展示」
1907 学校で「方言札」の罰を導入
1930年代 恐慌で本土への出稼ぎ急増 沖縄差別
1940 国家意識高揚を目的に 沖縄方言の「撲滅」めざす「標準語励行運動」
1942 改姓改名手続き簡略化 申請者急増
1945 沖縄戦。米軍と接触した住民がスパイ容疑で日本軍に虐殺される事件
相次ぐ
1952 サンフランシスコ講和条約発効。米軍統治下に。
1972 「本土復帰」
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