[CML 024975] 改めて「原発反対に日の丸は必要なのか?」論争について 補記:「原発反対に日の丸は必要なのか?」論争余話

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2013年 6月 18日 (火) 20:20:06 JST


■改めて「原発反対に日の丸は必要なのか?」論争について 補記:「原発反対に日の丸は必要なのか?」論争余話
(弊ブログ 2013.06.18)
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-597.html

あるメーリングリストに首都圏脱原発連合の野間易通氏を批判する崔勝久さん(「原発体制を問うキリスト者ネットワーク」共同代表)
の「原発反対に日の丸は必要なのか?」(OCHLOS 2013年6月14日)という論攷を紹介したところ、北神戸九条の会代表世話人の
大西誠司さんから「日本政府に抗議するための署名サイトで、世界の人から一目で日本を表す事が分かる日章旗をイラストに使う
事がそのような批判の仕方をされる。くだらない」(要旨)、という反批判がありました。
http://www.oklos-che.com/2013/06/blog-post_14.html
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-596.html

しかし、上記の論攷で崔さんが応援団を買って出た「反原発運動で使われる『国民』は日本人を意味するのでしょうか?」OCHLOS
2013年5月25日)というもともとの論攷の筆者の朴鐘碩さん(在日2世・日立現役非正規社員)は、その論攷のはじめに野間氏が擁
護する「日本は原子力輸出政策を凍結せよ 日印間原子力民間交渉の即時停止を求める声明」が「勿論、原発を世界に売り込む
日本を批判していることは、理解します」と述べたうえで、上記の声明文に日本の国旗の「日の丸」を登場させることへの違和感を
表明していました。つまり、朴さんは、「日本政府に抗議するための署名サイト」上の「日の丸」のイラストであることを十分に理解し
たうえで、それでもなおかつ上述の違和感を表明しているのですから、その朴さんなり、応援団の崔さんなりへの反批判はそのこと
を十分にわきまえたうえでの反批判でなければ反批判の体をなさないでしょう。

それを「日本政府に抗議するための署名サイトで、世界の人から一目で日本を表す事が分かる日章旗をイラストに使う事がそのよ
うな批判の仕方をされる。くだらない」と鸚鵡返しのような批判をする。これでは問われていることへの反論になりえないことはいうま
でもありません。
http://www.oklos-che.com/2013/05/blog-post_25.html

反批判をする前に一呼吸して批判者がここで問いを立てるべきは、被批判者はその「日の丸」のイラストが「原発を世界に売り込む
日本を批判」するために用いられていることを理解している。にも関わらず、被批判者は、それでもなお違和感を表明する。それは
なぜか、という反問、あるいは省察でしょう。その反問、あるいは省察なしに反批判は成立しません。被批判者が十分に理解してい
ることを反批判のために繰り返しても、それは同語反復でしかなく、そうしたトートロジーを反批判とはいわないからです。

大西誠司さんの再反論には残念ながらそうした反問、あるいは省察の跡を見ることはできません。すなわち、大西さんの論は反論
になっていない、ということです。

さらに上記に関連して、ここで特に附言しておかなければならないと思うことがあります。それは「反批判」(その批判が「反批判」の
名に値しないことはすでに述べました)をするに当たって、自身の誤読にすぎない「読み」を被批判者がそう言っているかのように措
定して論を作り、その自作の論にすぎない論によって被批判者がまるで人ニ非ラズノ人であるかのように論難していることです。曰く、
「自分の地元の先輩たちが苦労して作り上げた運動を偽物扱いされたようで、非常に腹立たしい」(大西氏)。「(野間氏を)わざわざ
『野間何某』と繰り返しているあたりが、論者のコンプレックスを表して」いる(KEN-NYE氏)。「必死で『自分を上に見せたい」魂胆がミ
エミエ」(同左)。

そうした論難が当たらないことについては下記補記の「『原発反対に日の丸は必要なのか?』問題余話」で私の反論をご紹介してお
きたいと思いますが、その前に、大西氏、KEN-NYE氏の論の被批判当事者にあたる崔勝久さんが左記のおふたりを含む「オクロス」
(自身のブログ)上の議論についての感想を述べており、その中でもうひとりの被批判当事者の朴鐘碩さんのこの問題についてのあ
らたな論である「国民国家を支える国旗・国歌を拒否し、植民地主義を克服する反・脱原発運動を目指して」(2013年06月16日)とい
う論も紹介されていますので、その崔勝久さんの2013年6月18日付けのブログ記事から先にご紹介しておきます。

■国民国家を支える国旗・国歌を拒否し、植民地主義を克服する反・脱原発運動を目指して―朴鐘碩(オクロス 崔 勝久 2013年
6月18日)
http://www.oklos-che.com/2013/06/blog-post_18.html

補記:

また、私の「『原発反対に日の丸は必要なのか?』論争余話」の論は以下のとおりです。 



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1通目:「脱原発運動」が分裂することについての危惧について

Mさん

「脱原発運動」が分裂することについてのご懸念の気持ちはよく理解できますが、「推進派の思う壺」という論理で喧嘩両成敗論的
にコトを決着させようとするかのようなご姿勢はいかがなものでしょう?

近代以降、西洋においても日本においても、相争う両者の理非を明らかにすることもなく双方を処罰しようとする「喧嘩両成敗」論
的な考え方はまったく不条理なものであるという認識では一致しています。いわゆる近代法の精神といわれるものです。

運動の成功にとって「統一」はもちろん必須の課題というべきものですが、理非曲直を明らかにした上での「統一」でなければその
成功も覚束ないでしょう。日本では明治初期の自由民権運動各派による統一運動、西欧では1930年代以降の反ファシズム統一
戦線などの運動の経験がそのことをよく教えてくれているように私は思います。

私たちは、この問題についての理非曲直を、また、先便でお伝えした崔勝久さんの「原発体制は植民地主義であり、それは国家と
資本が作り出したグローバリズムだということです」。従って「植民地主義を進め原発輸出によってその地の人への加害者になろう
とする日本のシンボルの日の丸を掲げることは、明らかに原発体制を根底的に批判していくことと矛盾します」という問題提起をい
ま一度よく考え抜く必要があるのではないでしょうか?

私はそう思います。

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2通目:大西氏とKEN-NYE氏への私の反論

大西さん ケニーさん

ケニーさん wrote:
> そもそも、「野間氏」とするのでも「野間」と呼び捨てでもなく、わざわざ「野間何某」と繰り返しているあたりが、論者のコンプ
> レックスを表しています。必死で「自分を上に見せたい」魂胆がミエミエ・・・

崔勝久さんはご自身の自己紹介によれば以下のような方です。すでに廃刊になっていますが「思想の科学」誌に執筆したもう40年
ほど前の文章です。若書きの文章ですが、彼の真摯さがよくわかります。
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_14.htm

だから、崔さんは、決して「必死で『自分を上に見せたい』魂胆がミエミエ」の人だとは私は思いません。

また、崔さんが野間氏を「わざわざ『野間何某』と繰り返している」のは「論者のコンプレックスを表して」いるのではなく、「論者の怒
り」の表現としてのそれであるだろうと私は思います。

大西さん wrote:
> 私の地元やその周辺地域では複数の原発建設計画を全て撤回させましたが、その反対運動で漁師さんたちが漁船のデ
> モで掲げたのは大漁旗と共に日の丸です。そうした人をも巻き込んだ運動だったから、そんな違いを乗り越えてきた運動
> だったからこそ撤回させられたのです。

漁師さんたちが掲げた「日の丸」は国家の表象としての「日の丸」ではなく、おそらく大漁旗の一種として掲げられたハレの日の表
象としての「日の丸」だったのでしょうね。ウィキペディアの『旭日旗』の頁にも「旭日(東本注:日の丸)の意匠はハレの祝辞に掲げ
られていたことにちなみ、現代においても(略)漁船の大漁旗としても好んで使われる」という説明があります。おそらくそういうこと
なのでしょう。

漁師さんたちが掲げた「日の丸」を、国家を表象するものだからケシカランなどと非難するつもりはおそらく崔さんにも朴さんにもさ
らさらないでしょう。崔さんも朴さんも漁師さんたちの闘いを非難するどころかおそらく称揚するはずです。ここでの「日の丸」はあく
までもハレの日を飾る大漁旗の一種としての「日の丸」にすぎないでしょう。ちなみに正月に各家庭の門口などに掲げる「日の丸」
もハレの日を飾るもので、ふつうの場合、特段に「国家」を意識したものではないでしょう。

「日の丸」が問題になるのは国家の表象としての「日の丸」であるときです。この場合は意識的であれ、無意識的であれ問題にな
ります。たとえばくだんの「日本は原子力輸出政策を凍結せよ」という署名運動の掲示板に掲載された柔道着姿に「日の丸」を掲
げた図柄。
http://www.dianuke.org/stop-india-japan-nuclear-agreement-an-international-appeal/

大西さんは「日本政府に抗議するための署名サイトで、世界の人から一目で日本を表す事が分かる日章旗をイラストに使う事」
のなにが悪いか、といわんばかりですが、「日本政府に抗議するための署名サイト」であっても、同署名サイトの対象者はインド
人を含む全世界の人々です。そういうサイトで外国人から見て日本という国家のシンボルそのものに映る「日の丸」をイコンに用
いることは「日本という国にはいろんな人が住んでいるにもかかわらず、日本人のものだということを前提にしている」(崔さん)か
らできることで、グローバリズムという観点から見て在日朝鮮人や在日中国人、在日外国人の存在を無視していることに等しい。
それでは他の国の人々の存在を無視しているという点で「一国平和主義」の弊を超えることはできない。

日本の原子力弱者としての途上国諸国への原発輸出は、「その地の人への加害者」になるということ、そういう意味であらたな
植民地主義といえるものだ。「日の丸」が日本を表象する(ここでは「在日」の存在は無視されている)という視点では、このあら
たな植民地主義の思想(「原発輸出」の思想)に対抗しうる有効な思想(「原発輸出」に反対する思想)は構築できないだ
ろう。なぜならば、そこ(途上国諸国)はさまざまな人種の人々が住んでいる坩堝であるという当然の視点、グローバリズムの視
点が獲得されていないのだから、というのが崔さんの云わんとしている論旨であろうと私は思うのですが。

そうした論旨が「くだらない」ことでしょうか? 私はそうは思いません。

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3通目:崔さんの文章を「確実に下品で下劣な文章」という大西氏への反論

大西さん

私が先便でご紹介した「思想の科学」誌(1976年3月号)に掲載された崔勝久さんの40年ほど前の文章

http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_14.htm

を「確実に下品で下劣な文章でありました」とまで貶めるのは穏当な表現とはいえないように思います。

筆者注:大西氏が崔氏の文章を「下品で下劣な文章」と言ったのは「思想の科学」誌に掲載された文章のことではなく、初出の
「原発反対に日の丸は必要なのか?」という文章のことです、という反論があったことを注しておきます。しかし、本質的な問題
ではありませんので同反論をそのまま掲載します。

ある文章の評価は人によって異なりますから、「確実に下品で下劣な文章でありました」というあなたの評価を一概に否定する
ことはできませんし、また、仮に否定しても水掛け論に陥りやすいので否定しようとも思いません。

だから崔さんの文章の評価を離れてあなたに次のように問うてみます。

崔さんの若き日の文章が掲載されたのは「思想の科学」という雑誌です。そして、その「思想の科学」という雑誌は1946年に
鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧、鶴見和子という錚々たる7人の同人によって創刊された雑
誌です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6

崔さんの文章が掲載された1976年当時の雑誌編集者は誰だったのかは私は知りませんが、「『思想の科学』ダイジェスト
(1946~1996)」という本の附録として鶴見俊輔さんが「思想の科学60年を振り返って」という文章を寄稿されているところ
から判断すると1976年当時も鶴見俊輔さんは「思想の科学」の編集に何らかの形で関わっていただろうとみなせます。
http://www.shisounokagaku.co.jp/

そうした確かな目を持つ(と、私は思いますが)編集者がその雑誌の一篇として選んだ文章を「確実に下品で下劣な文章であ
りました」などというのはその雑誌の編集者諸氏をも愚弄することになりはしませんか、と。

なお、「日の丸」を含む国旗が否応なくその時代の政権や国家そのもののシンボルとして作用することについては本論争の
最初の紹介者のおひとりの岩下雅裕さん(立川 自衛隊監視テント村)が下記の自身のブログ記事で難しい文章ではありま
すが論理的に分析されています。

■「『国民運動としての反原発運動』に、”まともな批判”を試みる」(Gさんの政経問答ブログ 2013年6月6日)
http://yo3only.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-cff8.html

すでにご紹介しているものですがいま一度ご参照ください。

その岩下さんの文章のうちとりわけ「国家―国民関係は、ブルジョアジーを支配階級として組織し、後には福祉と排外主義
のイデオロギーによる労働者の『国民的統合』を試みるなかで形成されてきた」云々という部分は読者の社会学的、歴史
学的知識を前提に書かれていますのでやや理解が難しかろうと思いますが、「自由・平等・博愛」という有名なフランス革命
時のスローガンは普遍的な精神から生み出されたものではなく、その時代のブルジョアジーの利益を表現したものにすぎ
ないという鵜飼哲さん(一橋大学教授・フランス文学)の「『博愛』(Fraternite)について」という論攷における分析を参照され
れば、この問題は決して岩下さんの説はひとりよがりの説ではないということが学術的な問題としてご理解いただけるので
はないでしょうか。下記に附記しておきます。
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10832/1/ronso1110300540.pdf

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4通目:ケニー氏の「40年も前の文章を」云々という論への反論

ケニーさん、追記です。

ケニーさん wrote:
> 40年も前の文章を引っ張り出して「真摯さがよくわかる」とか、話にならないですよ。40年あったら人間どれだけ変化す
> ると思ってるんです?

たしかにご指摘の点は一面の事実ですが、「三つ子の魂百まで」ともいいますね。

若い頃の心性(理想や鬱屈や優しさの感情など)は案外変わらないものです。これはもう耳順の齢を優にすぎた私の感慨
のようなものでもあり、実感でもあります。

ある歳をすぎると人は「死ぬときは故郷で死にたい」と思うことが多くなります。ことに故郷を離れて長年異土(他国)の地で
暮らしているような者ども(私もそうです)にとっては、この感情は抜き差しならないほどの強い感情になりがちです。

それはどうしてでしょう?

40年という年月は人を変えもするし、逆にあっという間の年月であったりもします。私の場合は気がついたら耳順の齢を
超えていた。不覚の至り(不覚のまま(変わらないまま)に生きてきた)というところでした。
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東本高志@大分
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http://mizukith.blog91.fc2.com 



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