[CML 024644] 元慰安婦 金福童さんの「年齢詐称」「行動説明不能」疑惑の検証

泥憲和 n.doro at himesou.jp
2013年 6月 1日 (土) 16:18:08 JST


【金福童さんは「第15師団」ではなく「第18師団」の慰安婦だったという仮説】

 来日した元慰安婦・金福童さんの証言を嘘だと攻撃する議論がかまびすしい。

  年齢が証言と合わないとか、
 彼女がついて行ったという日本軍第15師団は、
 彼女が慰安婦をさせられたという場所に行っていないとか。

 たしかに、第15師団は金福童さんの証言するマレーシアにもシンガポールにも行っていません。
 ここに矛盾があることは、否定できません。
 ここに記すのは、彼女がいたのは本人の証言する「第15師団」ではなく「第18師団」の慰安所ではないかという仮説です。

 証言
「14歳のとき、慰安所に連れて行かれた。」
「初めは広東に行った。」
「陸軍第15師団の本部について、台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、シンガポール、バンコクと連れ回されました。」
「8年間、慰安婦にさせられました。」

■金福童さんの行動年表(仮説)

1926年
 金福童さん生誕(第10陸軍病院作成の名簿にもとづく)。
 数え年1歳

○証言
「14歳のとき、慰安所に連れて行かれた。」
「初めは広東に行った。」

 広東が占領されたのは1938年だから、彼女が慰安婦にされたのはそれ以後です。

1938年
 日本軍、広東作戦開始。
 参加部隊は「第18師団」、第104師団。
 広東を占領し、日本軍の大部隊が駐留した。

1939年(金福童さん、数え年14歳)
 広東の慰安所に入れられた。
 証言と矛盾しません。 

○証言「陸軍第15師団の本部について、‖耋僉↓広東、9畊繊↓ぅ泪譟璽轡◆↓ゥ好泪肇蕁↓Εぅ鵐疋優轡◆↓Д献礇錙↓┘轡鵐ポール、バンコクと連れ回されました。」

 台湾→広東の順番になっている点から上るままに、順不同で並べたと思われます。
 またゥ好泪肇蕕鉢Д献礇錣蓮↓Εぅ鵐疋優轡△瞭發亡泙泙譴訝楼萍召任后
 インドネシアとキΔ禄妬しています。

 以下、上記地名が出て来るときに丸数字を振ります。

1941年11月
 大本営がマレーシア攻略を含む南方作戦の作戦準備下令。
 マレー作戦に動員されたのは「第18師団」、近衛師団、第5師団。
 第18師団、渡航準備のため、広東から9畊舛魴侏海靴騰‖耋僂飽榮亜
 証言にある第15師団はマレー作戦に参加していません。

1941年12月
 マレー作戦開始。
 第18師団がバンコク進駐。

1941年12月
 第25軍(第18師団、近衛師団、第5師団、第56師団)が編成され、マレー侵攻開始。

1942年2月
 ぅ泪譟璽轡∩完茲鮴衫里靴拭
 シンガポール作戦開始。同、占領。
 第18師団は┘轡鵐ポールに駐留。
 
1943年5月
 第18師団の所属する第25軍司令部がゥ好泪肇蘚腓離屮ッティンギに移駐(Εぅ鵐疋優轡)。
http://s.webry.info/sp/nemuihito.at.webry.info/200805/article_26.html

1944年3月 第7方面軍を編成。
 隷下兵団は第16軍(ジャワ軍政)、第25軍(スマトラ軍政)、第29軍。

1945 9月
 Д献礇錣頬槁瑤あった上記第7方面隊第16軍に所属する第10陸軍病院の名簿に「傭人 金福童 19歳」との記録。
 この年は満19歳にあたる。
(「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」)

 その経緯は不明ながら、金福童さんはいつの間にか第25軍第18師団の下から、第16軍の下に移っていました。
 このことは公文書に明らかです。

○証言「8年間、慰安婦をさせられた。」

1946年〜1948
 インドネシアから邦人が全員引揚げるのに、1948年まで足かけ3年かかっている。
 数え年21〜23歳にあたる。
 帰国が1946年なら1939年から足かけ8年。
 帰国が1947年なら満8年にあたる。

 「1947年に日本軍は存在していない」などと下らない批判をする評論家もいますが、捕虜収容所で日本軍の階級秩序が機能していたことを無視しています。

 こうして年表をつくってみると、金福童さんはどうやら第15師団ではなくて第18師団に随行していたように見えます。
 「第15師団」という証言が第18師団の記憶違いだと仮定すると、年齢にも経歴にも、まったく矛盾しません。
 すべての地名が部隊行動と符号します。 



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