[CML 025574] 証言・日本軍占領下のジャワ島で「ユダヤ人として抑留された」 

BARA harumi-s at mars.dti.ne.jp
2013年 7月 25日 (木) 12:51:20 JST


新聞記事
朝日新聞・WEB
2013.7.24

(世界発2013)「ユダヤ人として抑留された」 日本軍占領下のジャワ島
http://digital.asahi.com/articles/SEB201307230065.html?ref=comkiji_redirect

出張先で知り合ったオランダ人女性からメールが届いた。
「インドネシアにいた子どもの頃、ユダヤ人ばかりの抑留所に入れられていた」。
第2次世界大戦時、日本軍による占領下のインドネシアにオランダ人らの民間人抑留所が
あったことは知られている。
だがユダヤ人ばかりの抑留所があったとは初めて聞いた。取材を始めた。

 ■証言 1日の食事、お玉2杯分

 女性はオランダ・アムステルダムに住む元高校教師のアネルッツ・ベルトハイムさん(78)。
自宅を訪ねると、母親の当時の日記を手に語り始めた。

 生まれたのは、オランダが植民地支配をしていたインドネシアのバタビア(現在のジャカルタ)。
父は法律学校長でユダヤ人、母は非ユダヤ系だった。

 1942年3月、日本がインドネシアを占領すると父は抑留所へ。ベルトハイムさんたちは
自宅での生活を許されたが、44年1月になると母と姉、弟と一緒にジャカルタの婦女子抑留所
に入った。9歳だった。

 「ユダヤ人の血が一滴でも流れる者は名乗り出よ」。
抑留所で日本人からそう告げられたのは44年9月。
母は日記に「私は非ユダヤ系だが、子どもたちと離れないために、ユダヤ人リストに名前を
書いた」と記した。
同年12月、ジャカルタからジャワ西部タンゲランの抑留所に移送された。
抑留所にいた人たちの3分の2がユダヤ人。
残りが結社フリーメーソンの会員や旧支配層だった。

 部屋の窓には鉄格子があり、幅約50センチの板がベッド代わりに並べられていた。 

ベルトハイムさんは「待遇は以前より明らかに悪くなった」と語る。

 お玉1杯の食事は1日3回から2回に減った。
女性は月経が止まり、子どもたちも成長が止まった。
日常的に懲罰があり、日本兵への頭の下げ方が足りないと殴られ、抑留所内の全員が
連帯責任で炎天下に何時間も立たされた。
ベルトハイムさんは、隠して持ち込んだ紙切れと色鉛筆で所内の生活をスケッチした。 


 45年3月、別の抑留所に移送された。
終戦から2日後の8月17日、食事がお玉2杯に増えた。
夜になると外からインドネシア人のお祝いの声が聞こえた。

 ベルトハイムさんは「日本人を恨んでいるわけではない。
ただ、起きたことが日本はもちろん、オランダでもあまり知られていないのが残念だ」と話す。


 ■史料 オランダに名簿や日記

 「ユダヤ人の抑留所」を裏付ける史料を捜した。

 オランダの戦争資料研究所に、複数の抑留者の日記が保管されていた。
43年からユダヤ人の隔離や抑留が始まったこと、ジャワ島西部チマヒの男性民間人向け
抑留所に造られたユダヤ人棟が「テルアビブ」と呼ばれ、ユダヤ人やフリーメーソン会員には
赤いバッジが着けられていたことなどが書かれていた。
日本の憲兵に「ユダヤ人捜しに協力してほしい」と誘われたが断ったという記述もあった。

 占領下インドネシアの抑留所政策に詳しい内海愛子・大阪経法大アジア太平洋研究
センター所長を訪ねた。
内海所長がオランダの国立公文書館でコピーした史料の中に、「猶太(ユダヤ)人並猶太系
抑留者名簿」があった。

 日本の国立公文書館には、BC級裁判で戦犯とされたジャワ憲兵隊元特高課長の供述 

調書の和訳文があった。
この元特高課長は、部下が一般市民を拷問しているのを知りながら黙認した罪に問われ、 

死刑判決を受けていた。
その尋問の中で、オランダ側検事が「43年にジャワ島ですべてのユダヤ人とフリーメーソン
会員が不当に検挙された」と質問し、元特高課長は「軍司令官の命令があり、ユダヤ人らを
一般住民から隔離した」と答えていた。

 戦後、法務省職員が釈放された戦犯を訪ねた聞き取り調査記録も国立公文書館にあった。
元戦犯の1人は特高課長について「ユダヤ問題の研究者として、ユダヤ系を弾圧し反感を
買っていた」と語っていた。

 朝日新聞が戦時中、ジャワ島で発行していたジャワ新聞をめくった。《ユダヤ人とフリー
メーソンが世界支配を企てている》。
特高課長はこうした論文を何度も寄稿し、インタビューに答えていた。


 ■研究者 なぜ隔離、解明これから

 内海所長は、これらの史料から「占領下のインドネシアに、ユダヤ人のための特別な抑留
施設があったのは間違いないだろう」と話す。
だが、何のために隔離したのかは不明だ。
「日本国内でも当時、ユダヤ人の迫害事件が起きていた。占領地で差別がより強く出た 

可能性がある」と言う。

 上海でも43年にユダヤ人の居住指定地域が設置されたが、無国籍で難民となっていた
ユダヤ人が多かった。
指定地域外への出入りもできた。
戦前日本のユダヤ人政策に詳しい丸山直起・明治学院大名誉教授は、インドネシアでは米英
などの「敵国」以外の国やエジプトなど中東から来たユダヤ人も集められ、抑留されていた点が
上海と異なると指摘。
「日本のユダヤ人政策が一枚岩ではないことを示している」

 現代史家の秦郁彦氏は、戦中の日本でユダヤ人やフリーメーソンが世界支配をたくらんで
いるとする「ユダヤ陰謀論」が流行していたとし、「上海以外で、ユダヤ人に何をしたかは明らか
ではなく、興味深い」と話す。
だが、信仰する宗教ごとに抑留した可能性もあり、「今の史料だけで隔離がユダヤ人への
迫害だとは言い切れない」と語った。

 オランダでは70年代から抑留者の日記が出版されるなどしてきたが、注目はされなかった。
オランダ国立戦争追悼委員会のエスター・キャプテン氏は「ナチスのホロコーストの陰に隠れ、
ほとんど顧みられてこなかった」。
05年にシンポジウムが開かれ、ようやく研究が始まったという。
来年にはアムステルダムのユダヤ歴史博物館がインドネシアのユダヤ人について特別展を
開く計画だ。

 だが、オランダには日本語がわかる研究者が少なく、抑留者の日記の分析などが中心だ。
取材した国内外の研究者は、元特高課長に関心を示した。
なぜユダヤ陰謀論を広めたのか。
ユダヤ人隔離の軍命令は本当にあったのか。研究と解明はこれからだ。(岡田玄)


 ◆キーワード

 <日本のインドネシア占領>
 オランダ領だったインドネシアを、日本軍が1942年3月に占領、軍政を敷いた。 

占領の主な狙いは、石油資源と防衛線の構築だった。
45年8月の日本降伏直後、スカルノらがインドネシアの独立を宣言した。 



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