[CML 028492] 「宗教国家」日本 作家・星野智幸

BARA harumi-s at mars.dti.ne.jp
2013年 12月 26日 (木) 13:26:46 JST


2013.12.25
朝日新聞・朝刊
http://digital.asahi.com/articles/DA2S10897209.html?ref=pcviewer

今年の年頭に私がまず購入した本は、ネルソン・マンデラの自伝や評伝だった。
昨年末の総選挙で自民党が圧勝し、安倍政権が誕生した時点で、これからの
長く息苦しい時代を覚悟し、そのような境遇下で平常心を保ちながら生き延び、
時代を取り戻したマンデラの生き方に学びたいと思ったのである。

 だが、人種差別政策のもとで27年間も収監されていたマンデラに学ばねば
ならないと感じるほど、日本社会の今後を暗く感じるのは、政権だけのせいでは
ない。

 それは数年前から始まっていた。

 年賀状のやり取りぐらいで長らく会うことのなかった、子ども時代や社会人
時代の旧友たちと久しぶりに会うということが、そのころ続いていた。
20年ぶり30年ぶりともなると、白髪は交じり、ふくよかになり、互いに外見は
すっかりおじさんおばさんなのだが、話せば性格も声もたたずまいも昔のままである。 


 「変わらないなあ」と笑い合っていたら、落とし穴があった。
話題が例えば韓国のことに及ぶと、それまでとうってかわって態度が硬く
なったのである。
侮蔑的な口調で、嫌悪を表明する。
日本に対する態度を批判しながら次第に激高し、中国についてもなじり始め、
日本はもっと国防に力を入れるべきだと言い、特攻隊や戦没者への感謝を
口にする。
スポーツでの「日本人」の活躍を、涙を流さんばかりに礼賛する。

 そこには私の見知らぬ友人がいた。
二重の意味で、友人がそのようなことを口にしていることに驚いた。
若い時分にはナショナリスト的な考えなどまったく持っていなかったどころか、
そもそも政治に関心がなかった。
政治的な話題を取り憑かれたように語る姿は、見慣れぬものだった。
それ以外は、以前の友人と何も変わらないのに。

 そして、このような友人は一人二人ではなかったのである。
男女を問わず、同様の体験が短い期間に何度も連続したことに、私は打ち
のめされた。

 共通するのは、若いころはどの友人も政治に無関心で、リベラルでも
保守的でもなかったことだ。
友人だけではない。
私が若かった1980年代は、誰も政治の話などしなかった。
政治や社会のことを話題にするような人間は、冷たい目で見られ、「ネクラ」
として退けられた。
新聞を読むのが好きだった私は、それなりに政治に関心を持っていたけれど、
話のできる相手はいなかった。
選挙に行くのも、友人の中で私だけだった。

 学生時代から社会人にかけての二十歳前後には、そんな自分は少数派
だと自覚していた。
恥ずかしい話だが、大学入学時には高野悦子「二十歳の原点」を読んで、
自分もこんな学生運動をするんだろうか、と時代錯誤に想像し、実際に声を
かけてきたセクトの人と話してみたこともある。
しかし、その会話に惹かれるところは何もなく、自分の思い描いていた学生
運動のイメージは幻想であることを知った。

 また、一人暮らしのアパートに、夜中、宗教セクトが訪問勧誘に来ることも
多かった。
その中にはオウム真理教もあったかもしれない。
若い女性が、「人生について語り合いませんかー」と明るく呼びかけてくる
のである。
「この世の中に違和感を覚えませんか」、「自分が生きる意味や目的を考えたり
することはありませんか」と。

 一度だけ、長々とインターホン越しに話してみた。
やはり、失望に終わった。

 政治セクトにも宗教セクトにも共通する特徴は、ものの言い方がきわめて
独善的なことである。
社会への批判については共感する部分があったとしても、自分たちの言い分を
主張するときの、世を軽蔑し自分たちを優越視する態度は、とても受け入れられる
ものではなかった。
自分たちの正義を疑いもせず、絶対視し、批判者は敵だと見なす攻撃性を隠さない。

 かれらが口にした言葉は、教条的に教え込まれた言葉で、公式のマニュアルに
従った物言いだった。
信奉しているイデオロギーや教義を、まるで自分の言葉であるかのように述べて
いたが、実際には外から与えられた言葉に合わせて自分を作り替えただけだ。
わかりやすく言えば、一種の洗脳状態にあったのである。
もちろん、かれらからすれば、私のほうこそが社会の通念に洗脳された状態に
ある、と見えただろう。

 久しぶりに再会した友人たちが政治や国防を語るのを聞きながら、私の中に、
セクトの人たちと話したときの感触がよみがえってきた。
どこかダブるのだ。
友人たちはあの時代、宗教や政治のセクトを白い目で見る側にいた。
自分がそれに引き寄せられる可能性など微塵もない、と信じて疑わなかった。
そんなかれらが今、まるでセクトの人間のように語る。
主張の内容こそ異なれど、価値観を共有しない他者(中国や韓国)を軽蔑し、
自分たち(日本人)を優越視し、自分たちの考えを絶対化して信奉する姿は、
そっくりである。

 違う点があるとすれば、かつてのセクトは少数派であり、社会から敬遠されて
いたが、今、旧友たちのような主張をする人はどこにでも普通にいるマジョリ
ティーであり、共感されることのほうが多いことだろう。
だから、自分たちを異端だとは感じないし、「普通の人が当たり前のことを言って
いるだけだ」という気分を失うこともない。
だが、この世界観を共有しない外側の人から見れば、このマジョリティーは
「日本人」を信奉する緩い宗教集団だと映りかねない。

それにしても、不思議に思う。
あれほど政治や社会を熱く語ることを毛嫌いし、冷淡だった人たちが、今にして
なぜ、こうもナショナリズムに入れ込んでしまうのか。

 さまざまな理由が複合する中で、私が強く感じるのは、みんな、絶対に
傷つかないアイデンティティーを渇望しているんだな、ということである。

 ナショナリズムは、それを信奉する人に一つのアイデンティティーを与えて
くれる。
「日本人である」というアイデンティティーである。
このアイデンティティーの素晴らしいところは、決して傷つかないこと。
日本社会の中で生きている限り、日本人だという理由でバッシングを受けることはない。 

そういう理由で批判をしてくるのは、近隣の外国であり、それに対しては
「日本人」同士でまとまって反論することができる。
だから、自分一人だけが傷つくことはない。

 「自分は日本人なんだ、日本人はまじめで粘り強く頭がよく、規律正しく
団結力があって、サムライ的な腹をくくれる強さがあって、苦境を乗り越える力を
持っている、そんな日本人の一員なのだ」。
そう考えれば、自分が個人として抱いている劣等感も消え、強い存在になった
かのように感じられる。
生まれたときから「日本人」である以上、これは最初から自分に備わっている
性質で消えることはなく、しかも仲間がたくさんいて、この感覚をわかり合える。
いつでもどこでも孤立することなく「日本人」同士でつながっていられて、居場所を
失うこともない。

 そのような魔法のアイデンティティーを、ナショナリズムという信仰は用意して
くれるのである。
信じさえすれば、「日本人」でいられる。
信仰を得た者はもはや、個人である以前に「日本人」なのだ。

 今や同調圧力は、職場や学校の小さな集団で「同じであれ」と要求するだけでなく、 

もっと巨大な単位で、「日本人であれ」と要求してくる。
「愛国心」という名の同調圧力である。「日本人」を信仰するためには、個人である
ことを捨てなければならない。
我を張って個人であることにこだわり続けた結果、はみ出し孤立し攻撃のターゲットに 

なり自我を破壊されるぐらいなら、自分であることをやめて「日本人」に加わり、
その中に溶け込んで安心を得たほうが、どれほど楽なことか。

 自分を捨ててでも「もう傷つきたくない」と思うほど、この社会の人たちはいっぱい 

いっぱいなのだと思う。
長年の経済的な停滞と労働環境の悪化、それに伴う人間関係の破壊、いつか人生を
転落するんじゃないかという恒常的な不安などがつのっていたところに、大震災と
原発事故が起こった。
その巨大な喪失感は何年たっても埋められず、希望を抱ける要素は何もなく、心は
不安定で、感情の揺れを抑えられない。
多くの人が、自覚のあるなしにかかわらず、そんな存在の危機にある。
私自身も涙もろく怒りっぽくなった。

 限界ギリギリで持ちこたえていることに疲れきり、もう落ち着きたい、安心したい、 

穏やかでいたいと、安定を求める気持ちが高まるのは、当然だろう。
これ以上悲観的なニュースや将来像は見たくないと心身が悲鳴を上げ、現実から
目をそらす。
そうして無関心が広がっていく。

 「日本人」信仰は、そんな瀬戸際の人たちに、安らぎをもたらしてくれるのである。 

安倍政権を支えているのも、安定を切望するこのメンタリティーだろう。

 もちろん、このように有権者が自ら主体を放棄した社会では、民主主義を維持
するのは難しい。
民主主義は、自分のことは自分で決定するという権利と責任を、原則とした制度
だから。
だが、進んで「日本人」信仰を求め、緩やかに洗脳されているこの社会は、その
権利と責任の孤独に耐えられなくなりつつある。
自由を失うという代償を払ってでも、信仰と洗脳がもたらす安心に浸っていたいのだ。 

それがたんなる依存症の中毒状態であることは、言うまでもない。
みんなでいっせいに依存状態に陥っているために、自覚できないだけである。

 この状態を変えようとするなら、強権的な政権を批判するだけでは不十分だ。
それをどこかで求め受け入れてしまう、この社会一人ひとりのメンタリティーを
転換する必要がある。
難しくはない。
まず、自分の中にある依存性を各々が見つめればよいだけだから。

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 ほしのともゆき
 65年生まれ。新聞記者を経て、97年「最後の吐息」でデビュー。
ホームレスの人たちの自立を支援する「路上文学賞」主催。
著書に「無間道」「俺俺」(大江健三郎賞)など。 



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