[CML 028256] 私の辛淑玉さん評価と上野千鶴子さん評価 ――「のりこえねっと」の評価とも関連して

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2013年 12月 13日 (金) 20:16:15 JST


あるメーリングリストで実業家(人材育成コンサルタント会社代表)で「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」
(のりこえねっと)共同代表である辛淑玉さんの評価をめぐって若干の議論がありました。その議論自体は辛氏を必要以上に誉
めそやす者と必要以上に貶す者とのぶつかりあいのようなもので、取り上げるほどのものではないのですが、私がここで問題に
したいのは、いわゆる「リベラル・左派」と呼ばれる人々の間では、メディアというすでにコマーシャル化して久しい独自のフレーム
によって形成された情報によって「辛淑玉」というひとつの理想化された物語を創りあげ、その結果としての過剰な辛淑玉評価が
幅を利かせてはいないかという疑念です。そこには実像の辛淑玉さんという人はいません。それは、リベラル・左派にとっても、辛
淑玉さん自身にとっても不幸なことのように思います。そういう意味で、以下は、この際、私から見た辛淑玉論を少し述べておくこ
とも無駄なことではないだろうと思って、上記の議論に乗っかかる形で私の辛淑玉さん評価をコメントの範囲内で述べたものです。

その私の辛淑玉さん評価は、主として彼女の「ミサンドリー(男性嫌悪)」思想と女性優位思想に焦点を当てて私の少なくない違
和感と異議を述べたものでした。かつて私は、辛さんとともに「のりこえねっと」の共同代表をつとめている上野千鶴子氏(東大名
誉教授・ジェンダー学)のフェミニズム思想についても「男よ率直に弱さを認めよう」という新聞に掲載された彼女の論評に則して
若干の私なりの異議を述べたことがあります。今回の私の辛淑玉さん評価ともつながっていると思いますので、あわせて掲載さ
せていただこうと思います。

1.私の辛淑玉さん評価

辛淑玉さんは数年前に大分に来られたとき一度だけ講演を聴きに行ったことがありますが、講演の端々に垣間見えるその彼女
の自信過剰のしぐさ(といっても、具体的なしぐさという意味ではありません)に少なくなく辟易した覚えがあります。

wikipediaの『辛淑玉』の頁を見ると、鄭大均という辛淑玉さんとは同胞の首都大学東京の教授(私は鄭大均という人物について
まったく知るところはありません。ただ、彼の辛淑玉評は、私が辛淑玉さんから受けた「感じ」をより適切に表現しえているように
思いますので引用させていただいています)が「辛淑玉に関して言えばその歯に衣着せぬ語り口はいいのだが、思いつきやデタ
ラメが多すぎるのではないか。」「在日コリアンの被害者性という現実的であるかもしれないが非現実的であるかもしれない状況
に、自己を憑依してものを語る傾向がある。」「辛淑玉の一見奔放な語り口が、驚くほど古風な被害者的立場や対抗主義的立場
との見事な整合性を維持している。」と批判していますが、たった一度講演を聴いただけのことですが、私もそういう感じを受けま
した(辛さんとは一時同じメーリングリストにも所属おり、彼女の著作も相応に読んでいましたので彼女の発言の傾向はそれなり
に知ってはいましたが)。当たっているところが多いのではないか、と思いました。

今年の秋にある人が辛淑玉さんの『〈男文化〉よ、さらば―― 植民地,戦争,原発を語る』(富山妙子さんとの共著、岩波書店)と
いう新刊本をご紹介してくれたことがありますが、その人の紹介された辛淑玉さんの文章への私のコメントを見ていただければ
わかると思うのですが、辛さんの主張は根拠のない「ミサンドリー(男性嫌悪)」思想とやはりいわれのない女性優位思想が強く、
すなわち「知性」的とはいえず、主観が克ちすぎているように見えます。創価学会問題は措いておいても(辛さんには創価学会シ
ンパではないかという批判が一方で根強くあります。ただ、私は、この批判には留保をつけておきたいと思います)、私は、辛淑
玉さんの「思想」を評価しえません。

ちなみに私の辛淑玉さんの文章へのコメントは要約以下のようなものでした。

ある人は辛淑玉さんの新・共著『〈男文化〉よ、さらば―― 植民地,戦争,原発を語る』(岩波書店)の「はじめ」に書かれている以
下の文章を引用して「いつもは引用ごとにコメントを挟むのだが、付け加える言葉がないほど真相を抉っている」と称賛している
のですが、私はそうは思いません。

私ならば辛淑玉さんの文章には次のようなコメントを差し挟むでしょう(カッコ内は私のコメント)。

>「男」という存在は,どうしてこんなに進歩がないのだろうか。

(私は「女」もそれほど進歩しているとは思いません。)

>「女」は、奴隷状態から着実に這い上がってきた。

(「着実」に? そうでしょうか?)

>しかし男は、暴力、支配、金と力を決して手離そうとしない。

(女も「金と力を決して手離そうとしない」存在だと私は思います。だとすれば、それは、女も「暴力、支配」を「手離そうとしない」
という謂いでしょう。)

> 考古学者によると、余剰の富が生まれてから人殺しが始まったというが、弥生時代から始まった人殺しを、今も懲りずに
> けているのだ。

(弥生時代から古墳時代にかけての姫、卑弥呼は、「魏志倭人伝」によると、邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑
わしていた(事鬼道、能惑衆)といいます。この「鬼道で衆を惑わしていた」ことの中には「人殺し」は含まれていないのでしょう
か? 疑問です。)

2.私の上野千鶴子さん評価

参照:上野千鶴子さんの朝日新聞連載「孤族の国 第1部 男たち」への論評を読む(1)(弊ブログ 2011.01.29)
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-16.html
参照:上野千鶴子さんの朝日新聞連載「孤族の国 第1部 男たち」への論評を読む(2)(弊ブログ 2011.01.29)
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-15.html

上野千鶴子さん(東大大学院教授。ジェンダー学/女性学)が朝日新聞の「耕論(オピニオン)」(2011年1月20日付)に昨年末
から今年の1月6日にかけて同紙に連載された「孤族の国 第1部 男たち」という記事について論評しています。同連載は
その「孤族」という絶妙のネーミングの思いがけなさと地域、また家族の崩壊、格差、貧困、孤独、孤立・・・といういまという時
代の重たい「現実」を反映した重量感のある記事に支えられて静かな評判となっていました。同紙編集グループがつけたキャ
プションだと思いますが、同論評の標題は「男よ率直に弱さを認めよう」。しかし、私は、上野さんのこの論評を読んで「率直に
(男の)弱さを認め」る気にはなれません。

まず第一に上野さんの同論評には男とか女とかという問題を超えて、いま現に「孤族」という現実そのものに苦しみもがいてい
る「人間」への共感の視点が乏しいのです。その「人間」としての、「人間」であるがゆえの「孤族」と「孤独」の問題を「男」の問
題でしかないように矮小化して上野さんは次のようにご託宣します。「連載『孤族の国』に『老後の世話をしてくれて、みとっても
らえる相手が欲しいだけなのに』と嘆く独身の中高年男性が登場しました。/こんな虫の良い期待をするから結婚できないん
だ、とツッコミたくなりました。女性では考えられません」。

しかし、上野さんが「ツッコミたくな」るとして挙げるこの「虫の良い期待をする」独身中高年男性は、同記事の中では「孤独死と
隣り合わせの時代。寂しい最期を迎えたくないと、婚活に励む男性たち」の一例として取り上げられている一逸話でしかありま
せん(この上野氏のあげる「老後の世話をしてくれて」云々の記事は「『孤族の国』 男たち」の連載2回目の「還暦、上海で婚
活したが」(2010年12月26日付)という記事のようです)。それも「伴侶を求めて国の外へ目を向ける男たち(略)年間3万人前
後」の中の一例。さらに「中高年限定の婚活パーティー」に参加する人数不詳の男たち、人口6千人余の岩手県の山村の町が
はじめた婚活事業に登録をした町民十数人、の話を含めた中の一例。そうしたたくさんの「婚活に励む男性たち」の中の一例
のみをピックアップして、さも世の男たちのすべてがこのような「虫の良い期待をする」やからであるかのように論を進めていく
態度は決してフェアな態度とはいえないように思います。また、〈事実〉という客観素を最大限重視するのが研究者の態度であ
るとするならば、上野さんの態度はそうした真摯であるべき本来の研究者の態度とも相容れないもののようにも思います。彼
女の言論のありようはデマゴギッシュなそれとどれほどの相違があるでしょう?

もちろん、ジェンダー平等の思想がまだまだ深く根づいているとはとてもいえないわが国のような社会においては「老後の世話
をしてくれて、みとってもらえる相手が欲しいだけ」などという「虫の良い期待」を持つ中高年男性は決して少なくないでしょう。も
しかしたら多数派かもしれません。そういう意味では上野さんの指摘はあながち間違いだとはいえません。しかし、それをいう
のなら女性も「虫の良い期待をする」独身の中高年男性の低レベルな〈思想〉に相応しい同程度の〈思想〉を持つ同類相憐れ
むのたぐいの一方の当事者張本人だといわなければならないでしょう。平成21年10月の内閣府大臣官房政府広報室の「男
女共同参画社会に関する世論調査」によれば「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきであるか」という問いに対して「賛成」と答
えた女性はまだまだ37.3%、約40%に及びます(ちなみに「賛成」と答えた男性は45.9%)。女性の〈思想〉も低レベルな
男性の〈思想〉にほぼ相応しているのです。

この結果を長年の男性社会によって形成された(させられてきた)女性の負の遺産と見ることはもちろんできます。しかし、現
実に男性の低レベルな「虫の良い期待」に相呼応する女性も事実として決して少なくないのです。上記の「『孤族の国』 男た
ち」の連載2回目に出てくる「中高年限定の婚活パーティー」歴20年以上の原泰浩さん(76)は、近年、中高年婚活希望者が
急増している理由について「ブームといっても意識には男女差がある(略)。女性は生活の支えを求める人が多いが、男性は
寂しさが理由では」というご自身の経験に基づく中高年女性観を述べています。「生活の支えを求め」て婚活する〈思想〉と「老
後の世話をしてくれて、みとってもらえる相手が欲しいだけ」という〈思想〉はお互いともにある意味打算的で、かつ「虫の良い
期待」という点では五十歩百歩の〈思想〉と見るべきものだろうと私は思うのですが、上野さんの論にはなぜか婚活希望中高
年〈男性〉に対する批判はあっても同じ婚活希望中高年〈女性〉に対する批判はありません。どういう思想のなせるわざでしょ
うか。上野さんの論にははじめから婚活希望中高年〈女性〉は「善なるもの」として措定されているのです(注)。そう見なけれ
ば上記の「男女差別」の説明はつきません。私が上野さんの論にまったく説得力を感じないのは当然なことといわなければな
らないでしょう。

注:このように考える心の奥深いところにある〈心性〉(意識の生起と消失のあわいのところにある〈識閾〉)には、まず自分は
なによりも愛しくかけがえのない存在であるとする自己了解があり、その自分を含む同性(女性)一般、そして、同じ女性とし
ての自分は「善なるもの」というア・プリオリ(無前提)な自己肯定、すなわちジコチュー(自分という存在を尺度にして世の中の
すべてを解釈しようとする)的な情動、衝動的欲求というべきものが伏在しているように見えます。そうであればこのようなフェ
ミニズム思想は決して普遍性を持ちえないでしょう。

次に上野さんは「おひとりさまの老後」の問題と「家族」問題について論を進めていくのですが、ここでも上野さんは不必要に
〈男性なるもの〉を批判しています。上野さんは次のように言います。「男性は弱音が吐けない上に、新自由主義的な『自己責
任論』によって、さらに追い込まれている。それでも自分の窮状を認められず、わかろうともしない。現実逃避の天才」。「実は
家族は、コミュニケーション能力を育てる空間ではありません。例えば父親は『メシ・フロ・ネル』の3語で足りるような役割が
決まっていて、その通りに振る舞えば関係が維持できていた」。「(男性は)パワーゲームの企業社会のノウハウしか身につけ
てこなかったから『困っている』と言い出せない」(同上)。

なんとモノクロームで、古めかしい男性観でしょう。いまどきこのような男性がどれほどいるというのでしょう? 「男性は弱音
が吐けない」? 統計的なことはさておいて、私も60歳代に突入しましたが、私の見るところ私のまわりでも弱音を吐くいわ
ゆる団塊世代の男性はゴロゴロいます。上野さんはおそらく居酒屋(安酒場)の常連客ではないでしょうからその辺のところ
はわからないでしょうが、私は安酒場の人一倍の常連客です。日中はカミシモをつけてなにやらいかめしそうなオッサンたち
もここでは弱音と不安を連発します。もちろん、カッコウをつけていることが多く、完全にカミシモを脱いでいるわけではないの
で弱音は中途半端なものが多いのですが、中途半端な分メソメソと延々と語る男たちも少なくありません。私は安酒場で日
常的にこのメソメソ話を目撃しています。

最近、若者たちのある種の〈在り方〉を指して〈草食系男子〉という言葉が流行っていますが、この〈草食系男子〉という言葉も
類型として「弱音を吐く」タイプの若者男性の謂いではないでしょうか。〈草食系男子〉の定義はいろいろあるようですが、「草
食系男子とは、心が優しく、男らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子
のこと」(森岡正博『最後の恋は草食系男子が持ってくる』)というのがほぼ一般的な定義のようです。「パートナーエージェン
トが30代未婚男女400人を対象におこなった調査によると、『どちらかといえば草食男子』(61%)、『完全に草食男子』(13
%)と、『自分は草食男子』と思う男性は75%にのぼった」(ウィキペディア『草食系男子』)ということです。「男性は弱音が吐
けない」という上野さんの認識はステレオタイプ(固定観念)以上のものではないでしょう。

上野さんはさらに「(男性は)新自由主義的な『自己責任論』によって、さらに追い込まれている」とも、「父親は『メシ・フロ・ネ
ル』の3語で足りるような役割が決まってい」たとも言挙げを重ねるのですが、これらの言挙げも古めかしくかつ幼稚なステレ
オタイプを超えるものではありません。

いったい父親が「メシ・フロ・ネル」の3語の会話で足りていた時代とはいつの時代のことを言っているのでしょう? 先ほども
述べたように私はいわゆる団塊の世代の末端の人間ですが、私が知る限りの友人の顔を総動員しても「メシ・フロ・ネル」の
3語だけでこと足りるような夫婦生活をしていた友人の顔はとんと思い浮かべることはできません。よほど大金持ちのぼんぼ
んでもなければそんな大層なことは口が裂けても言えない、というのが世の男性の悲哀?(もちろん、冗談です)。いや、実
情というものではなかったでしょうか。「専業主婦世帯と共稼ぎ世帯の推移」というデータを見ても1992年には共稼ぎ世帯と
サラリーマンと専業主婦の世帯は逆転し、共稼ぎ世帯の方がサラリーマンと専業主婦の世帯を上回っています。夫婦共働き
の家庭ではいくらなんでも「メシ・フロ・ネル」の3語だけではすまされないでしょう。そういう3語だけの会話では即、離婚の原
因になるはずです。

また、上野さんは「(男性は)新自由主義的な『自己責任論』によって、さらに追い込まれている」と言うのですが、新自由主義
的な「自己責任」論が男性に特有な思潮のように言うのも事実に反します。「自己責任」論は小泉政権時代のイラク人質事件
に際して興った保守反動の思潮のひとつですが、その「自己責任」論をもっとも囃し立てたひとりがほかならないときの小泉
純一郎首相その人でした(『週刊朝日』2004/4/30号「『自己責任』言いたてる 小泉政権の矛盾」)。そして、その小泉政権のと
き、いわゆる小泉旋風なるポピュリズムの嵐が吹き荒れ、そのポピュリズムの嵐の中心的な立役者はワイドショー好きの中
高年以上の女性層でした。このことは当時の各種世論調査に明瞭に記録されています。上野さんはなにゆえにここでも「自
己責任」の思潮を〈男性的なもの〉の責に帰そうとするのでしょう? 理解に苦しみます。

さらに上野さんは次のようにも言います。「孤独死や行旅死亡人が注目され、『家族がいるのになぜ?』という驚きの声が聞
かれますが、家族は昔からそれほど頼りになるものだったのでしょうか。いまや家族は資源であると同時に、リスクにもなる
時代。1人でいれば1人で死ぬだけですが、極端な話、家族といれば殺されるかもしれないのです」(同上)。

しかし、「家族は資源であると同時に、リスクにもなる時代」は、決して「いま」という時代にだけ特有の現象ということはできな
いでしょう。姨捨伝説や棄老の話は柳田國男の『遠野物語』(1910年)や深沢七郎の『楢山節考』(1956年)にもあり、その痕
跡が物語や小説の形で遺されています。深沢の『楢山節考』は小説ですが、まったく根も葉もない創作ではありません。信州
の寒村の貧困と昔から伝わる説話に材を得たもので、かつて日本の各地で起きていたであろう風俗の掘り起こしになってい
ます。柳田の『遠野物語』に出てくる棄老の話は文字どおりそう遠くない時期の遠野の風習の紹介です。「家族がリスク」であ
った時代は昔からあったのです。家族が殺される話もそうです。横溝正史の『八つ墓村』や松本清張『ミステリーの系譜』の
小説のモデルとなったことでも有名な戦前(1938年)の〈津山三十人殺し〉も犯人の祖母(家族)と近隣の住人30人が被害者
となった家族殺人を含む大量殺人事件でした。家族をリスクとして殺すこうしたたぐいの事件も昔から相当数ありました。

上野さんはこうして「家族がリスク」となった時代がいまという時代である、と恣意的に想定して、いまという時代は「おひとりさ
まの老後」の時代だと言います。実は上野さんはこのことが言いたかったのでしょう。上野さんの「『孤族の国』 男たち」批判
は、このことが言いたいためのさしみのツマのようなものでしかなかったのかもしれません。

それはそれとして、上野さんは同論評でご自身の「おひとりさまの老後」の論を展開するにあたって「そもそも1人でいること
の何がそんなに悪いのでしょうか?」などと反問します。しかし、誰が「1人でいることは悪い」ことだなどと言っているのでしょ
う? たしかに一部の右翼論者は「一人暮らし」悪論を展開しています。しかし、この「一人暮らし」悪論は右翼論者が左翼と
フェミニズムを攻撃したいがために展開している為にする論にすぎず、取るに足らないものです。右翼以外のまっとうな論者
で「一人暮らし」を罪悪視する論者を私は寡聞にして知りません。

しかし、「一人暮らし」悪論を展開する論者は少なくとも、家族間の愛情の大切さを説いてやまない論者は少なくありません。
上野さんはこうした「家族愛」論者に反発して「そもそも1人でいることの何がそんなに悪いのでしょうか?」と反問しているの
でしょう。フェミニズムには「家族は、家父長制と女性に対する抑圧を存続させる主要な制度である」(『フェミニズム事典』明
石書店)とする定義があるようです。そうだとすれば「家族」という制度を解体しないことには真の女性解放もありえないこと
になるわけですから、いきおいフェミニズム論者は「家族」批判に向かわざるを得ないでしょう。そして、それが「1人でいるこ
との何がそんなに悪いの?」という反問にもなるのでしょう。

しかし、「家族」という〈制度〉を批判することと「家族愛」という〈概念〉を批判することとは違います。〈制度〉としての「家族」は
〈保守思想〉としての「家父長制」と融和的な関係性を持ち、それゆえに「女性に対する抑圧」制度として機能する側面を強く
持っていると私も思います。そればかりでなく「家族」から自立しようとする男性、またトランスジェンダーの人々にも強い「抑
圧」制度として機能しているとも思います。したがって家族単位ではなく、「『おひとりさま』を前提に生活や社会を設計し直す
必要がある」という上野さんの意見には賛成です。

しかし一方で「家族愛」論者が家族間の愛情の重要性を説くのは、家族は「夫婦関係を基礎にして、そこから親子関係や兄
弟姉妹の関係を派生させる人間社会の基本的単位であり、また、人間形成の基礎的条件を提供する基礎的社会集団」(社
会学小辞典、有斐閣)だからです。その家族間のスピリチュアルな愛情の問題までを「家族」という〈制度〉の問題群のひとつ
のように回収してしまう考え方には私は賛成できません。上野さんと同じように「シングル単位」の家族論、人間関係性を提
唱しているジェンダー研究者の伊田広行さんもそれが〈制度〉としてではなく、スピリチュアルな関係性として機能するのであ
れば、「家族」という基礎的社会集団かつ基礎的愛情集団の重要性を必ずしも否定していないように見えます。

ところが上野さんの「家族は昔からそれほど頼りになるものだったのでしょうか」。また「いまや家族は資源であると同時に、
リスクにもなる時代。1人でいれば1人で死ぬだけですが、極端な話、家族といれば殺されるかもしれないのです」という家族
観、あるいは家族批判に私は家族を構成するそのひとりひとりに対する本来あってしかるべき〈優しいまなざし〉を見出すこ
とはできません。それどころか家族を「資源」や「リスク」という社会学用語に回収してしまう上野さんのスタンスに私は強い
違和感を持つのです。これは上野フェミニズムの重大な欠点というべきものではないでしょうか。

「孤族の国 第1部 男たち」にはさまざまな男たちの「孤族」が描かれています。妻をないがしろにして自分勝手に生きてき
た男の「孤族」。その身勝手な男は年老いて次のように述懐をします。「半身不随になり、年老いた今になって切実に思う。
妻がいたら、子どもがいたら、と。/『指輪を外されへんのは、近くに妻がおったらなと思うからかな。結局、自分のことしか
考えてない。勝手放題にしてきた僕への罰ですわ』」(「第1部 男たち11」)。別の老人の述懐。「何より心残りなのは、感謝
の言葉を伝えられなかったことだ。『優しい言葉、いえないんだよね、俺たちの世代は。だめだね』」(同左)。同記事の中に
次のような一説も出てきます。「みな、同じような喪失感を味わっている。千葉県柏市の公平(こうへい)敏昭さん(70)は4年
前に、東京都日野市の堀野博資さん(69)は10年前に妻を亡くした。深くて冷たい海の底にいるよう」。

このそれぞれの男たちの深い「孤族」の言葉。「深くて冷たい海の底にいるよう」な悲しくてどうしようもない深いしじまの底か
らの男たちの嘆息が上野さんには聞こえているでしょうか。聞こえていてなおかつ「こんな虫の良い期待をするから結婚でき
ないんだ」、とまだまだ思われるでしょうか。もちろん、上野さんのツッコミは間違いではありません。いくらでもツッコミを入れ
てもいいと思うのです。しかし、「虫の良い期待をする」男は同時に「深くて冷たい海の底にいるよう」な悲しみのぬしでもある
のです。その男たちの「孤族」は考えるに値しないでしょうか?


東本高志@大分
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