[CML 028234] 道路連全国集会と市民運動

林田力hayariki info at hayariki.net
2013年 12月 12日 (木) 23:48:08 JST


第39回道路全国連(道路住民運動全国連絡会)全国交流集会が2013年11月9日と10日に東京経済大学で開催され、無駄な公共事業と闘う全国各地の運動の報告と連帯がなされた(林田力『二子玉川ライズ反対運動12上告』「第39回道路全国連全国交流集会」)。この集会は市民運動的視点でも注目すべき要素が二点あった。 

第一に日本国憲法の条文解釈の問題が提起されたことである。第29条第3項は「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」と定める。この条文があるために、現在の解釈の下では最後は強制収用(土地収用)が正当化されてしまうと指摘された。これは護憲運動の呪縛から解放された指摘である。 

住民運動はシングルイシューの運動であり、右でも左でもない。改憲論の住民運動家がいても不思議ではない。むしろ住民運動家が全員護憲派であるとしたら、シングルイシューの住民運動として不健全である。しかし、どうしても日本では中心的な担い手が左翼系の人々とならざるを得ない。何故ならば日本では苦しむ人々や虐げられた人々の受け皿になり得るものは左翼系の運動ばかりという現実があるためである(林田力「主権回復を目指す会が在特会を批判」PJニュース2010年8 月21日)。 

この点は草の根保守が教会などを通した慈善に積極的なアメリカとは異なる。だからこそアメリカでは公的福祉への批判が一定の説得力を持つ。その種の主張は貧困者の人権(生存権)を出発点としていない点で批判できるものの、日本の右派の公的福祉批判よりは数段上等である。 

これに対して日本の右派は、特殊日本的精神論を掲げて威張りたいだけのヤンキー保守や、在日韓国朝鮮人にヘイトスピーチしてもアメリカには文句を言えない「雇われ右翼」が幅を利かせている。日本において真面目に市民運動に取り組もうとすると左寄りになることは必然的である。批判されるべきは右翼のだらしなさである。 

それ故に住民運動の中で護憲派が強くなるが、シングルイシューの住民運動が出発点であることは忘れてはならない。いくら保守には期待できないといっても、護憲運動の中の守旧派的傾向と一体化することは損失である。護憲運動の中には日本国憲法の一字一句全てが正しいと崇め奉るような傾向や第九条の条文を維持することしか考えない傾向がある。 

住民運動が開発と闘う上での大きな障害は、住まいの権利(住み続ける権利)や環境権が保障されていないことである。その一因は日本国憲法が明文の規定を定めていないことにある。日本国憲法への批判精神も必要である。 

これは改憲論には直結しない。憲法は歴史的文書としての性格もあり、単なるツール(道具)ではない。特に日本は実質的意味で一度も憲法改正がなされていないという歴史を持つ。日本国憲法制定は大日本帝国憲法改正という手続きを採っているが、実質的には新憲法の制定である。この歴史的性格は現在も続いており、公表されている数多くの憲法改正案が必要最小限の改正ではなく、ほとんど新憲法の書き起こしになっている。日本人には新憲法制定の経験はあるが、憲法改正は経験も能力も欠けている。 

また、日本国憲法は住まいの権利や環境権などの新しい人権を規定していないが、否定もしていない。新しい人権は日本国憲法への根本的な批判にはならない。むしろ新しい人権は論理的には生存権や幸福追求権に包含されるものである。アメリカ合衆国憲法修正第9条は「この憲法に一定の権利を列挙したことを根拠に、人民の保有する他の諸権利を否定し、または軽視したものと解釈してはならない」と定める。日本国憲法は「基本的人権」という表現を用いており、人権を条文で列挙した権利だけでなく、総合的なものと捉えている。問題は憲法に明記された人権しか認めない狭い憲法解釈である。政府や裁判所の狭い憲法解釈を改めさせることが一つの解決策になる。 

そして改憲論者の意図や現実の政治情勢を踏まえるならば、改憲論の土俵に乗ることが賢明か考える必要がある。改憲論に賛成すると、改憲賛成という部分だけ利用されるものの、憲法改正への意見は無視される可能性が高い。 

そこまで考えた上で住民運動家が護憲の姿勢を持つならば一つの見識である。これはあくまで、そこまで考えた上での結論であり、左翼教条主義的な護憲論とは異なる。憲法を改正して住まいの権利などを保障するアプローチを否定するものではない。 

この点で全国集会において日本国憲法の収用規定が批判された意義は大きい。これまでの憲法への不満の多くは、新しい人権を規定していないことに対してであった。これに対して収用規定への批判は憲法の条文そのものへの批判になる。論理としては「第9条第2項では国家を守れないから改正しよう」という改憲論と同じ性質のものである。 

ここでも「だから憲法を改正しよう」には直結しない。全国集会での問題提起も収用権規定の政府の憲法解釈を批判しており、憲法改正を射程としたものではない。収用規定は独占資本を規制する上で積極的な意義のある規定である。資本主義の問題を解決するための武器になる規定である。問題は収用規定が住民の住み続ける権利の侵害を正当化する根拠として使われていることである。 

それ故に護憲運動内部からも指摘されているように「憲法を暮らしに活かす」というスタンスが決定的に重要である。現実に反貧困運動と護憲運動は生存権によって相互に強化された。私は「都民参加への模索」研究会において、開発問題においても住民運動と護憲運動との相互作用を深めるべきと主張した(「開発問題から考える東京都政の課題」)。 

この考えは現在も持ち続けているが、護憲運動の側が期待に応えられるかが課題である。護憲運動も基本的に戦後的な秩序を肯定する立場の運動であり、憲法改正や集団的自衛権容認、TPP、秘密保全法のように戦後秩序を変える動きには強固に抵抗するが、戦後秩序を支えてきた土建国家への異論までは持たない人が多い。新自由主義的経済政策には強く反発しても、ケインズ的な公共事業乱発にはゼネコンだけが潤うという程度の批判にとどまる傾向がある。 

だからこそ革新政党が埋没する形で「コンクリートから人へ」を掲げる民主党が支持された。第三極が自民党から共産党までを既得権益擁護者として批判する構図が喝采された。護憲運動が戦後秩序を守るばかりで開発反対の問題意識に応えられないならば、住民運動から積極的改憲論者が増える可能性もある。 
http://hayariki.net/home/24.htm
一つの希望は東京オリンピックを盛り上げようという風潮への嫌悪感・拒否感が広がっていることである。それが具体的に新国立競技場や葛西臨海公園など開発問題として提起された。東京オリンピックは戦後の大きな成功体験になっており、「あの時の栄光をもう一度」が東京オリンピック推進の論理である。それを拒否することは高度経済成長を成功体験と捉えることを拒否することになる。戦後秩序に内包された開発推進の論理を否定することにつながる。 

第二に集会の最後で秘密保全法反対声明を出すことが提起され、了承されたことである。住民運動が党派的対立のある政治テーマに賛否を表明することについては評価が分かれるところである。個々の運動もシングルイシューの枠で思考停止せず、政治性を高めるべきという立場に立つならば、好意的に評価されるものである。 

脱原発や秘密保全法など左翼市民運動のメインストリームとも言うべき運動関係者からは「今は、この問題が死活的に需要である。だから個々の運動も、この問題に合流を」というような主張がなされることがある。しかし、道路連の秘密保全法反対声明のように個々の運動は各々の手法で取り組んでいる。 

むしろ、メインストリームの運動の側に個々の運動への理解に欠け、個々の運動の意義を否定する傲慢さが散見される。私自身、ある人から「憲法問題と原発問題で手いっぱい」と言われたことがある。それは当人の価値の問題であるが、それならば住民運動家に護憲や秘密保全法反対を求めることも筋違いになる。シングルイシューを超えた連帯ができるかはメインストリームの運動の側の意識に負うところが大きい。

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林田力Hayashida Riki
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