[CML 025946] 下級兵士の記憶 桑名市・元日本兵・近藤一さん(3・終)

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2013年 8月 17日 (土) 13:59:40 JST


下級兵士の記憶  桑名市・元日本兵・近藤一さん(3)

朝日新聞・名古屋本社・連載記事まとめ
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下級兵士の記憶  桑名市・元日本兵・近藤一さん(1)
http://list.jca.apc.org/public/cml/2013-August/025828.html
下級兵士の記憶  桑名市・元日本兵・近藤一さん(2)
http://list.jca.apc.org/public/cml/2013-August/025832.html
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1941年秋、初年兵だった近藤一さん(93)は、約2ヶ月に及ぶ大規模な
作戦に参加した。

八路軍の攻撃を警戒しながら、中国の険しい山の尾根を行軍していた時、
「全裸の女性が、靴だけ履かされ、乳飲み子を抱いて歩いていた」と話す。
全裸の女性は目の前にいた。
古年兵が冷やかした。
「どうだ、良い眺めだろう」。
先輩兵の銃弾や食料なども持たされ、数十キロもの重荷から解放されたい、
とだけ思っていた。

休憩中だった。
疲れて衰弱している女性を見た古年兵が、歩くのに邪魔だろうと乳飲み子を
奪い取り、谷底に放り投げた。
すると、女性も一瞬のうちに後を追うように身を投げた。
休憩が終わると、行軍は何事もなかったかのように再開された。

これと重なる光景は、四日市出身の田村泰次郎(1911-83)が小説『裸女の
いる隊列』に描いている。
近藤さんより一カ月早く、同じ第13大隊の別の中隊に配属されていた田村は、
中国山西省の前線で見聞きした体験に基づき、多くの戦争小説を残した。

全裸の女性について近藤さんは解説する。
「掃討に入った集落で捕まえ古年兵たちが犯した。殺すのが普通だが、
珍しく若かったから連れてきた。裸なら逃げまい、と考えたのだろう」

集落を襲って女性を見つければ、古年兵たちは代わる代わるに凌辱した。
初年兵が「やらしてください」などと言えば鉄拳制裁を受ける羽目になる。
眺めるしかなかった初年兵も、年次が進むと、同じ行為を真似するように
なっていった。

近藤さんによると、大隊本部があった太原には慰安所があった。
将校は日本人の女性、下士官以下の兵隊は中国人や朝鮮人の女性が相手を
した。
初年兵は絶対に出入りできなかったが、2年兵以上の兵は月1回の外出日、
軍支給の避妊具を持って出かけた。

当時、1等兵の月給は8円80銭。
大半は強制的に貯金させられ、手元に残る現金はわずかだった。
慰安所を利用するには1円20銭~1円50銭必要だったと言い、略奪した物を
換金し慰安所に通う兵もいた。

日頃の花札賭博も、略奪の「温床」になった。
負けが込むと借金が膨らみ、返済のために金目のものを奪うという悪循環
だった。
銀貨や反物、骨董品などを奪って来ては、日本軍が占領した「治安地区」で
金に換えた。

あちこちの民家の壁に「東洋鬼」と書かれていたのを覚えている。

近藤一さんは1944年8月、上海から輸送船に乗せられた。
前月にサイパンが落ち、南方に送られると思っていたが、着いたのは沖縄
だった。
証言は転戦先の戦闘に及んだ。

当初、銃声は聞こえなかった。
「血まみれの戦場から解放された」
「満期除隊で家に帰れる」
が、約2ヶ月後の大空襲が淡い期待をかき消した。
45年4月1日、米軍の沖縄本島への上陸作戦が始まった。

第13大隊が陣地を構えた嘉数高地(現・宜野湾市)にいた。
艦砲射撃が降り注ぐ中、海岸を見下ろして驚いた。
「艦船がびっしり浮かび、海面が見えなかった」

兵器の差も歴然だった。
近藤さんによると、日本軍が05(明治38)年に採用した三八式歩兵銃は
米軍のM1カービン銃より約40センチ長く約1.5キロ重かった。
日本兵が1発撃つ間に米兵は5~10発も発射できた。

米軍は連日、艦砲射撃と艦載機による空爆を1時間ほど続けた後、約
30台の戦車を横並びにして前進させてきた。
戦車1台の後ろに米兵が約20人付いてきた。

日本軍は前夜に穴を掘り、木箱にダイナマイトを詰めた爆雷を持って待ち
構える「たこつぼ攻撃」で対抗した。
戦車が近づくと、手投げ弾を発火させ木箱と共に戦車の下に放り込む。
戦車に兵1人で立ち向かった。

遺体の損傷は中国戦線とはくらべものにならなかった。
「手足や頭などが吹き飛ばされ、誰だか分らんような死体ばかりだった。

5月以降、攻撃はさらに激しさを増し、米軍は火炎放射器も使った。
日本兵が隠れる壕に上から穴をあけ、爆薬を仕掛けたり、ガソリンの流し
込んだりして皆殺しを狙う「馬乗り攻撃」もしてきた。

火炎放射器を浴びると、火が軍服にべたっと張り付き、振り払っても落ち
ない。
「まるで不動明王のようになって黒こげになる。どうせ死ぬなら銃弾で
撃ち抜かれた方がましだった」

日本軍は闇夜に乗じた「斬り込み攻撃」で抵抗するしかなかった。
地下足袋を履き、2人1組で小銃と手投げ弾2発を持って、米軍が野営
する幕舎を襲うが、近藤さんの中隊で生還した兵はいなかったという。

ある夜、見送った長崎県五島列島出身の同年兵は言った。
「こんな惨めな、無意味な戦闘は初めてだ。でも、何を言っても仕方ない」
「これが最後だ。じゃあな」
振り返ったとき、泣いているように見えた。
あの時の表情が脳裏にこびりついている。

近藤一さん(93)は、単行本ほどの大きさの手帳に日記をつけている。
日々あったこと、新聞記事の感想などを書き留める。
約30年前から始めた「語り部」の活動記録でもある。
市民集会、教員や労組の勉強会、沖縄修学旅行のための事前学習……。
最も多かった7、8年前は、1年間に三十数回出かけたが、最近は
年10回あるかどうかまで減ってきた。
集まってくる人たちも少なくなった。
愛知県内の大学自治会に呼ばれた今年4月のある日は、こう
したためた。
《参加した大学生は10人前後。これが今の日本の現実かと思うと、
情けない気持ちでいっぱい》
「語り部」は1982年の教科書検定問題がきっかけだった。
沖縄戦での日本兵の「加害」の記述削除を機に、日本兵すべてが
悪かったかのような報道があふれた、と感じた。
真実を伝えようと、沖縄戦で生き残った仲間4、5人で話し姶めた。
国に「捨て石」にされた兵士の戦いを語るうち、心に引っかかる物を
感じた。
「中国でやったことを話さないで本当の戦争を分かってもらえるのか」
仲間は拒否反応を示し、去っていった。
「絶対に話せん」「周りからどんな目で見られるか」。
それでも、家族にも明かしたことのない体験を話し続けた。
ある集会で参加者から「もっと悪いことをしたはずだ」と詰め寄られた。
戦友会では、近藤さんの証言が載った新聞切り抜きを手に「とんで
もないことをしゃべっている者がおる」などと、聞こえよがしの会話が
聞こえた。
公安刑事が繰り返し自宅に来て、話の中身を根掘り葉掘り尋ね
られたこともあったという。
それでも壇上に立つのをやめようと思ったことはない。
「戦場で何が起きたのか、戦争の本質は何か、を伝えることが
生き残った者の使命」と思う。
4月、安倍晋三首相は国会で「侵略という定義は定まっていない」と
答弁し、「侵略戦争を否定するかのような発言」との指摘が出た。
「本当の中国戦を知っていれば、あんな発言は出ない」。
この国は、敗戦を経験しても根本的に変わらなかったのでは、と
感じる。
このまま憲法9条が捨て去られれば、戦争で犠牲になった多くの
人の死が無駄になる、と心配になる。
同じ年の戦友は、すべて鬼籍に入った。
残された時間は多くない、と感じている。
「1人でも2人でもいいから聞いてほしい。記録に残りでもすれば、
自分の記憶も生き続けることになる」

(終) 



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