[CML 025904] 下級兵士の記憶 桑名市・元日本兵・近藤一さん(1)

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2013年 8月 14日 (水) 15:17:39 JST


下級兵士の記憶  桑名市・元日本兵・近藤一さん
朝日新聞・名古屋本社・連載記事まとめ
*一部抜粋部分あり
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日中戦争と沖縄戦を最前線で戦った近藤一さんは、約30年前から
「語り部」として集会や学校に出掛ける。
ありのままの体験を後世に伝えなければと 自らの「加害」も話し
証言録も出版された。
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1941年1月、中国山西省。
中国人のおとこ2人が後ろ手に縛られ立ち木にくくられていた。
上官は告げた「今から刺殺訓練をする」
「まだ生きている・・・人殺しをするのか」
足がガタガタと震えた。
初年兵約70人が2列縦隊に分れ、長さ40僂曚匹侶を小銃の
銃口に着けた。

「突け」「次っ」7.8人目だった。
順番を待つ間に、2人共首を折るようにうなだれた。
着ていた厚い便衣服の左胸の辺りには、鮮血が浸み出し広
がっていた。
30mほど先の赤く染まった部分をめがけて走り、突いた。
剣の半分ほどがスッと入り、瞬間、引き抜いた。

教えられた通りにやって、列の最後尾に戻った。
ついに、人殺しをしてしまった-----。
頭をよぎった。
だが「皆と同じようにやっただけ」と打ち消すように言い聞かせた。
罪の意識は消えかかっていた。

40年12月初旬、徴兵検査をへて現役入隊。
3年前からの日中戦争が長期化しつつあった。
その激戦地の一つ、山西省に送り込まれた。
小銃の持ち方すら知らないまま四か月間の初年兵教育に入り、
二ヶ月が過ぎようとしていた。
初めての「殺人行為」に手を染めることになった訓練は、同じ
所属部隊の初年兵に繰返されていた

三重大学の尾西康充教授の著書によると、独立混成第四旅団
第13大隊の少尉は、42年7.8月に約340人の捕虜を生きた
まま刺突する訓練を指揮し、と戦後に書き残した。

近藤さんは、半月程後、同じ場所で「首切り」も見せられたと話す。
後ろ手に縛られた中国人2人が地面に座らされていた。
准尉が日本刀を、下士官が幅の広い青竜刀を振り下ろすと、
首が転がった。
「可哀そうだとか、家族がいるだろうとか、何も浮かばなかった。
いつの間にか人を殺してもなんとも思わない人間に仕立てられた」

近藤一さん(93)は証言を続けた。

1926年、尋常高等小学校に入学したころだった。
校門に入ったら駆け寄ってきた上級生に怒鳴りつけられた。
「(昭和天皇・皇后の写真と教育勅語がまつられた)奉安殿にまず
最敬礼しろ。(皇族)梨本宮が植えられた松にも、だ」
教員は、日本は神の子孫である天皇が治める国、と教えた。
「大和民族は優秀なんだ」と繰り返し、中国人を「チャンコロ」
「劣等民族」とさげすんだ。

少年雑誌を読み、毎回のように「軍神」に胸を躍らせた。
死んでもラッパを離さなかった木口小平、文部省唱歌に歌われた
日露戦争の広瀬中佐、上海事変(32年)で爆弾を抱えて飛び込んだ
肉弾三勇士。
死が美化され、国のために命を犠牲にした軍人があがめられていた。

大人たちは言った。
「あんな立派な兵隊さんにならなあかんぞ」
教育は軍隊でも続いた。
「上官の命令は陛下の命令。絶対服従」で、菊の紋章が刻まれた
小銃は「陛下から貸し与えられた。なくせば死刑」だった。
「中国は軍閥(地方の軍事組織)が入り乱れ、国も治められない。
王道楽土をつくる戦争だ」と思い込まされた。

近藤さんは7人兄弟の長男。
指物職人の父親は不況で仕事が無く、極貧の少年時代を送った。
朝食を食べずに登校することも珍しくなく、5、6年生の頃は栄養
失調で、暗くなると目が見えない夜盲症になった。

高等小学校を出ると、桑名市の雑穀商にでっち奉公に出た。
20歳になると義務付けられていた徴兵検査は、奉公先から受け
に行った。

近藤さんによると、体格や健康状態で序列がつけられ、上から
「甲」「第1乙」は即入隊。
「第2乙」から下は召集を待つ仕組みで、戦況が悪化するにつれ
根こそぎ召集となっていく。

小学校の同級生は22人。
体が不自由な者や病死者をのぞいた16-17人全員が徴兵された。
旧制中学に進んだ1人は海軍の経理将校になった。
津市の陸軍33連隊に入隊する者もいた。
だが、「第1乙」だった近藤さんは、いきなり銃弾が飛び交う中国
北部の最前線に送り込まれた。

なぜ、自分は激戦地だったのか。
釈然としないままだった近藤さんは、復員後、こんな話を耳にした、
『裕福な家や有力者の子弟が内地や海軍に優先して配属される
ように、役場の兵事係が操作していた』

送り込まれた中国戦線で、1年上の兵士が妊娠していた女性の
腹を剣で切り裂くのを見た。
赤ちゃんを井戸に投げ込む兵、お年寄りの耳をそぎ落とす兵もいた。
近藤一さんは吐き出すように話した。
「銃弾が飛び交う中に三年も四年も放り込まれ、いつ帰れるかわか
らん。
明日は自分がやられるかもしれん。
憂さ晴らしと言うか、とんでもないことをやる兵隊にかわってしまう。

近藤さんによると、山西省は中国共産党軍、八路軍の本拠地があった。
1940年8月から数か月間にわたる「百団作戦」で、近藤さんが入隊
する前の第13大隊も多くの戦死者を出した。
その報復感情と恐怖心が古年兵たちに高まっていた時期、実戦
配備についた。

八路軍に協力する集落をつぶしていく討伐戦などが任務だった。
「村長らを締め上げて情報を聞き出す。
二度と利用できないように焼き払う前に金目の物や食料を奪うなど
した」

大隊は6~7の中隊(約200人)からなり、さらに小隊などに分れる。
討伐戦は10~20人の分隊や分遣隊で動いた。
その隊長が将校なら統率はある程度取れたが、古年兵の下士官の
場合は軍紀は乱れがちだった、と言う。

近藤さんは43年春、大規模な作戦に参加した。
3年兵になっていた。
ある集落で十数人の男性を捕え、、尋問の後、こう提案した。
「小銃の弾が何人貫通するか試してみないか」
縛って数珠つなぎにし、縦一列に並ばせた。
後ろ向きにさせて、5メートルほど背後から三八式歩兵銃を発射した。
弾は2人貫通し、3人目で止まっていた。
3から4回で全員が絶命していることを確認し、豚の飼育場に投入れた。

日本軍が来たと言う情報が八路軍に流れないように、敵兵でも、一般
住民でも、
口封じのため最後は殺すのが普通だった。

捕虜の人道的扱いを定めたジュネーブ条約など、全く知らなった。
中国人住民に対する犯罪を戒める教育も一切なかった。
『捕虜になったら自決しろ』。
初年兵教育で徹底的に叩き込まれたため、捕虜を殺すことに何の
ためらいもなかった、と明かす。

復員後、30歳で結婚し、3人の子供に恵まれた。
生活におわれなくなって、初めて中国での行為を思い出すようになった。
「自分たちがやられていたらどんなおもいだったか」
悔いが心の片隅に居座ったまま消える事はない。

(続きます)




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