[CML 025830] <テント日誌 8/7(水) 697日目>

Kimura-m kimura-m at ba2.so-net.ne.jp
2013年 8月 8日 (木) 23:41:42 JST


テント日誌 8月7日(水) 

 経産省前テントひろば 697日目  時ならぬ子供たちの声に

朝起きてテント前にいつものように座っていたが、ちょっと様子が違う。やけに子供が多いのだ。母親等に連れられた子供たちがテントの前を通る。母親はテントには無関心を装うが、子供たちは好奇のまなざしを隠さない。なるほど夏休みなのだ。地方から上京しているのかな(?)と思っていたが、どうやら違っていたらしい。
霞ヶ関の諸官庁が「霞ヶ関こどもデー」として親子を招いていたのだ。経産省でも自動車などを入り口においてそれをやっていた。電気自動車なのだろうか、子供がうれしそうに乗っているのが見えた。

子供たちが見える風景はいいものだ。どこか心が和むのである。途切れなく道行く子供たちに、というより母親にパンフレット類を手渡しながら、話しかけたりしていた。霞ヶ関の官僚たちはどんな事を考えて「こどもデ―」なんて設けたのだろうか。経産省前に立つ三つのテントのうち一つは女性用テントであり、ある意味で母と子のテントである。福島の子供たちを放射能汚染から守ることを訴えるために出来たものと言ってよかった。
これは今回の脱―反原発運動に登場した女性の声を代表するものでもあった。「金《経済》より命」というのがそれを表わす言葉と言っていいのだけれど、ここには原発問題の認識が、直観的であれ込められているし、子供たちとともに未来の社会への思いも含まれている。たとえ、まだ, 社会的な言葉には成り切れていないとしてもである。

霞ヶ関の官僚たちもどこかでこれに触発されて「こどもデー」を設けたのであろうか(?) それとも女性たちの声に対抗するためにそれを設定したのか。真相はよくわからぬ。なにも答えず、原発推進《再稼動》を準備し、蔭では脱原発―反原発の声に嫌がらせをする陰湿な日本の権力を思う時、「原発推進でこそ子供たちの未来はある」と嘯いているのかと想像してしまう。そうならば、そうと語ればいいし、どちらが国民の同意をえるのか論争をやりたい。

今《この時期》は原爆や戦争について考え、反省する季節だが、僕はその度に引っかかってきたのは、日本では赤紙一枚で戦争への動員が可能になった事態である。日本の国家権力の強権的性格がひと際のものだったというのがこの説であるが、やはりそれだけでは納得しえないところがある。この国家権力と対応(結んだ)した社会権力があったからではないのか。社会権力とは聞き慣れない言葉かもしてないが、地域社会、社会的な団体、工場、学校、家族の中での権力であり、ここでの支配的力である。
この形態は日本の伝統に深く根差し、国家権力に同調し、それに抗う部分を排除する傾向を持つ。国家権力が強権を発動しえるのは、それを支える社会権との連携があってのことである。戦争だってやすやすと進んだのではない。それに抵抗する勢力や運動もあったからだ。それを排除し、権力の意志を貫徹できたのはこの勢力や運動が政治的にだけでなく、社会的に孤立を強いられたからだ。
政治的な孤立よりは社会的な孤立が大きく機能したのだと思う。戦争について考える時、抵抗勢力や運動の社会的な孤立を僕はいつも考えてきたが、脱原発―反原発運動の今後を考える時に頭をよぎるのもこのことである。社会的孤立を招かぬように意を配らねばならない。

官僚たちは背後で、いうなら水面下で原発推進《再稼動》を準備しているが、彼らは既得権益を基盤に社会的権力の取り込みを図っている。原発による地域経済の展開《雇用や仕事の確保》ということをかざしてだ。独占体や官僚、政治権力の側の既得権益だけでなく、地域社会での既得権益を含め、それらの結合をめざしている。
原発からの撤退(廃炉)の道にも、地産地消型の経済による雇用や仕事の確保は展望できることだが、それを妨害して、原発の存続が経済の活性化を可能にするという幻想をふりまいている。

僕らは日本の権力や官僚の手口や手法をよく知っている。彼らは基盤が危うくなっているのを知りながら、原発と経済成長とを結びつけその従来のやり方を踏襲しようとしている。既得権益が実際のところだが、原発は経済的に不可欠だというのと、原発は金になるというのを重ねた主張としている。だが、権力や官僚たちも原発の存続の社会性に確信を持てないでいる。原発を支えて社会性の確信を持てないでいる。
社会には科学技術による産業発展は不可欠というのも疑念にさらされている。原発存続の最後的理由をなすと思える科学技術として必要というのも疑わしいし、なんらの科学的根拠を持つものではない。これは科学技術信仰か、神話に過ぎない。権力も官僚も経済的理由では原発存在の社会性が危ういことを知り、表立っての論争を避け陰や裏での推進に力を入れているのだ。

「金《経済》より命」というのはとても抽象的に聞こえるが、二つの内容がある。一つは原発の存在の社会性としての経済的理由を否定しているのである。結局のところ原発存続を経済的求めることの否定である。もう一つは経済優先の社会性《社会的存在、あるいは人間の社会的なありかた》の否定である。経済が優先される社会は近代社会であるが、それから脱するのは容易でないことを誰も知っている。しかし、それへの疑念もあり、経済優先の社会が歴史的なものであって、歴史的に超えていけるものであることもたしかだ。
現在はこの転換点にあり、「金より命」というのはそれを直観した言葉である。歴史的にみれば、経済こそが、宗教的な理想よりも命を大事にしたと言える。それが近代社会の存在理由だったいえる。しかし、経済優先の社会を超えることが課題になっていることも疑いない。近代を超えることが現在の課題であるように。僕らは存在すること自体が価値であればいいのだと思うしそれが社会の根底にならなければならない。
政治的に見ればテロリズム《現在的戦争》が人間の存在自体が価値であるという倫理性《社会性》と敵対するものであるとすれば、経済的には原発がそれに匹敵する。テロリズムも原発もそれ自体が、人間の根源的な存在の仕方に敵対する。存在すること自体が価値であり、それが人間の根源的な存在のあり方だし、倫理である。「金《経済》より命}はこの社会性(倫理)をあらわす。この言葉が歴史的に男権的な社会を否定した母系的な社会を返りみようとするのも当然だろう。それが結びつくにはまだ必要なものがあるとしても。時ならぬ子供たちの声に想像力が刺激された一日だった。
(M/O)

 



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