[CML 025744] 【NHKニュースより】原爆の日 1人の少年が見つめた広島

uchitomi makoto muchitomi at hotmail.com
2013年 8月 3日 (土) 17:55:12 JST


明日はいよいよご本人の講演会が京都にて開催されます。

・・・・・・以下転送転載シェア歓迎・・・・・

映画『ひろしま』上映&米澤鐵志さんの講演

●日時:2013年8月4日(日)午後1時30分〜3時15分上映(1時20分開場)
1、午後1時30分〜映画『ひろしま』上映(1953年制作)
  (モノクロ/上映時間104分/関川秀雄監督作品)
2、午後3時20分〜米澤鐵志さんの講演
(演題)『私の被爆体験〜原爆も原発もない世界を!〜』
3、質疑応答、感想・意見交流
  (午後4時40分頃終了予定)

●会場:ひと・まち交流館京都 第5会議室(3階)(定員90名)
    河原町五条下る東側 市バス「河原町正面」下車すぐ
    京阪「清水五条」駅下車 徒歩8分      
    地下鉄烏丸線「五条」駅下車 徒歩10分
    案内:http://www.hitomachi-kyoto.jp/access.html      
    TEL:075ー354ー8711
●参加費:1000円  学生500円
●主催(共催):・ピースムービーメント実行委員会
        ・原爆と原発を考える京都市民の会          
●問い合わせ先:TEL:090−2359−9278(松本)

【NHKニュースより】

原爆の日 1人の少年が見つめた広島
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130802/k10013483141000.html

8月2日 13時23分

昭和20年8月6日。
きのこ雲が立ち上り、壊滅的な被害を受けた広島を11歳の少年が歩き、生き残りました。
少年は今、79歳になり、平和の大切さを説き続ける語り部として日々を送っています。
少しでも多くの人たちに、「核」と「戦争」について考えてほしい。
その思いが1冊の本にまとめられました。

「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」

被爆者で、現在、京都府宇治市に住む米澤鐵志さんは、40年ほど前から学校や集会で自分の被爆体験を語ってきました。
おととしの夏、東京で米澤さんの講話を聞くための企画が持ち上がり、フリーの記者・由井りょう子さんも出席することになりました。
原爆が投下されてから70年近く。
戦争を知らない世代が増え、被爆者の高齢化も進んでいます。
「いまさら、原爆でも、広島でもないよなぁ」。
記憶を伝えることの大切さを十分に知っているつもりでも、由井さんは、どこかにそうした思いを持っていました。
その日はとても暑く、「早く冷たいビールでも飲みたい」と思っていた由井さん。
米澤さんが語り始めると、ぐんぐん引き込まれていき、その内容に大きな衝撃を受けました。
今回、出版された「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」は、こうした出会いから生み出されました。

米澤さんの家族

この写真は昭和15年に撮影されました。
中央に写っている少年が6歳のときの米澤さんです。
背広姿の男性が後に軍医として出征した父親。
母親は幼い弟を抱いて座り、米澤さんの隣には2歳下の妹が立っています。
写真には写っていませんが、このあと、もう1人、弟が生まれ、さらに妹も誕生しました。
太平洋戦争が始まったのは、写真が撮影されてから1年後。
米澤さんが、国民学校の初等科1年生のころだったといいます。
5年生になった米澤さんは学童疎開を経て、母親とほかのきょうだい4人と一緒に広島市の北部の栃谷という場所に移り住みました。
初めて暮らす場所で生活に必要な物資も足りなかったため、母親と長男の米澤さんは、広島市中心部にある祖父母の家まで行くことになりました。
出発したのは昭和20年8月6日の早朝です。

「あれは地獄だった」

その日、広電=広島電鉄の停留所には長い列が出来ていました。
何とか満員の電車に乗り込み、もみくちゃにされながら母親と一緒に揺られていた米澤さん。
突然、強い光を感じ、100個の雷がすぐそばに落ちたような、すさまじい音を聞きます。
その直後、すべての音は消えて、いつの間にか電車は止まっていました。
周囲にいた人は割れたガラスで血まみれになり、米澤さんと母親は倒れている人を踏み越えるようにして外に出ました。
爆心地から、僅か750メートルの所だったといいます。
歩き出した米澤さんが目撃したのは、焼けただれた皮膚がズボンまで垂れ下がった人や赤ちゃんを抱いたまま黒焦げになって息絶えた母親の姿。
そして水を求めて川に入り、折り重なるようにして死んでいく子どもたち。

もっと詳しい話を聞きたいと、京都を訪れた由井さんに対し、米澤さんは話しました。
「ぼくは地獄というものを見たことがないし、それがどんなところか考えたこともなかった。あとになって、この日の広島のようすを、多くの人たちが、『地獄だった』とか『地獄絵』だとか言った。ぼくも、あれは地獄だった、と確信するようになった」。

母親の死と、生き残った米澤さん

米澤さんの話の中で、由井さんの印象に残った部分があります。
米澤さんと母親が、僅かな日陰を見つけて頭を並べ、一緒に短い休息を取る場面です。
このあと、トラックに乗せてもらったり救援列車に乗り込んだりして、疲れ切った体で自宅にたどり着いた母親と米澤さん。
大きな外傷はありませんでしたが、数日たつうちに突然、2人の髪が抜け始めます。
元気そうに見えていた母親は、徐々に体中が紫になり歯ぐきからは血が流れ出ていました。
「もう殺して!」と叫ぶほどの苦しみのなか、9月1日、34歳で亡くなりました。
焼け野原になった広島で一緒に体を休めた日から、1か月もたたないうちに迎えた永遠の別れ。
周囲の人たちは、同じように米澤さんも死んでしまうだろうと考えていました。
ほとんど何も食べられず、もう吐く物がなくなったはずの米澤さんを、繰り返し、吐き気が襲います。
洗面器に出てきたのは、おなかの中に寄生していた、たくさんの回虫。
はっきりとした理由は分かりませんが、おう吐のあとで米澤さんは「奇跡的に」回復し、生き残りました。
しかし、入れ代わるようにして、母乳を飲んでいた末の妹の髪の毛が抜け始めます。
そして10月。
幼い妹は泣く力も失い、米澤さんたちが気付いたときには、死んでいました。

出版を決意させたもの

米澤さんが、こうした体験を語り始めたのは、昭和29年、太平洋のマーシャル諸島・ビキニ環礁で行われたアメリカの核実験で、マグロ漁船の第五福竜丸が被ばくしたことがきっかけでした。
語り部としての活動を続けるなかで、何度か出版の誘いもあったということですが、活字として細かい部分まで記録に残すことにはためらいがあり、断り続けてきたといいます。
そうしたなかで起きたのが、東京電力福島第一原子力発電所の事故でした。
原発事故によって、福島に住む人たちが故郷を離れることを余儀なくされる姿を目の当たりにした米澤さんは、もう一度、「核」についての問題を考え直し、もっと多くの人たちに自分の体験を伝えたいと思うようになりました。
由井さんから熱心な勧めがあったことも、それを後押ししました。
米澤さんが語り、由井さんは、それを書き留めていきました。
出来上がった文章は、いくつかの出版社に持ち込まれ、この中で書籍化に動いたのが小学館でした。
大人にも、子どもにも読んでほしい。
そうした思いを込めて児童書という形が取られ、ことし7月に120ページ余りの本が完成しました。

米澤さんは、こう話します。
「原爆で多くの人たちが亡くなったなかで、私は生きている。1人でも多くの人たちに、『核』と『戦争』について伝え続けることが、自分の運命なのかもしれない」。
また、由井さんは、こんなふうに話します。
「これまでの知識で、原爆について知っているつもりだったけれど、被ばくした1人の少年がどんな体験をして、家族はどうなったのか、その目線で考えたことはなかった。少年の目に刻まれた広島の『現実』が、今回の本を通じて伝わってくれれば」。

まもなく8月6日=原爆の日。
多くの人が、平和への祈りをささげる日です。 		 	   		  


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