[CML 023653] 雨ニモマケズ、反省セズ(2)

Maeda Akira maeda at zokei.ac.jp
2013年 4月 12日 (金) 11:34:17 JST


前田 朗です。

4月12日

『マスコミ市民』513号(2011年10月)

拡散する精神/萎縮する表現(7)

雨ニモマケズ、反省セズ(2)

 本誌前々号(五一一号、本年八月)に「雨ニモマケ ズ、反省セズ」と題し
て、宮沢賢治の排外主義への加担を取り上げ、次のように述べた。

 「明治生まれの天皇主義者であった賢治が<あらゆる人の幸せ>を目的とした
というのは、論理的に理解できない。賢治も時代の中を生きていたのだから、天
皇主義者であったことをもって批判するべき理由にはならな い。しかし、天皇
主義者の思想を<あらゆる人の幸せ>を目的としたと粉飾するのは疑問であ
る。」/「『天業民報』は、警視庁が朝鮮人暴動 はなかったと発表した後も、
執拗に朝鮮人暴動と書きたて、朝鮮人を糾弾し続けた。朝鮮人差別の先頭を邁進
する田中智学に「絶対服従」を 誓ったのが賢治である。」/「自ら積極的に民
族差別に加担した賢治は「利用された」のではなく「利用した」のである。この
ことを考えなけ れば、差別と排外主義への転落を繰り返すことになりかねない。」

 これに対して、ジャーナリストの熊谷伸一郎氏から、賢治の思想を曲解するも
のだとのご批判をいただいた。第一に、雨ニモマケズが一一月三日に書かれたと
断定できず、その内容は天皇主義的ではなく、天皇主義者と断 定するのは適当
ではない。第二に、賢治は国柱会会員であったが、関東大震災発生前に岩手に
帰っている。賢治が排外主義の「旗振り役」をし たと見るのは極端すぎる。第
三に、賢治はヒューマニストであり、当時としては珍しく戦争宣伝・協力もして
いない。せっかくの批判を手掛か りにこ の問題をもう少し考えてみたい。

 一一月三日問題であるが、(一)当時の人々にとってこ れは普通の日ではな
い特別の日であ る。今では普 通の休日に過ぎな いが、当時は違う。(二)賢
治の手帳にはっきりと「11.3」と書いてある。(三)私的な手帳に 書かれ
ていたからこそ、見栄もてらいもなく、賢治の忠誠心 が表明されていると読む
のが普通だ。他の文学者のメモなら当然そう解釈される。

一 一月三日でないと主張するのであれば、例えば(一)「雨」が別 の日に書か
れたこ とを示す積極証拠を提出する。(二)賢治が手帳や日記や手紙で
「3.19」「8.24」などと数字を書いていて、それが日付ではないと い
う証拠を提出する。(三)賢治は手帳や手紙で、日付と違う日に文章を書きつけ
る癖があったという証拠を提出する。(四)賢治は他の人々と違ってこ の日を
特別の日と思っ ていなかったという証拠を提出する。このよ うな論法が考えら
れるが、こういう主張は皆無であ る。一一月三日と「推定」はできるが「断
定」はできないと いうのは無意味である。「断定」する必要はどこにもない。
「それ以外 の日ではありえない」ということがはっ きりしているから「推定」
で結 論として十分なのだ。賢 治が特別に天皇主義者であったとする格段の証拠
をわざわざ提出するまでもない。ひとり賢治だけが天皇主義者でなかったことの
証明が先であ る。



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