[CML 023492] 原発と私と私たち 鎌仲ひとみさん 他
BARA
harumi-s at mars.dti.ne.jp
2013年 4月 4日 (木) 10:57:55 JST
新聞記事
朝日新聞2013.4.4朝刊
http://digital.asahi.com/articles/TKY201304030586.html?ref=comkiji_redirect
そういえば、原発事故や放射能問題への関心が薄くなったような気がする。
「再稼働」という言葉も聞こえてくる。
人々の生活、価値観を変えることだと言われていたのに。
被災者がみんな自宅に戻ったわけでもないのに。
風化したのだろうか。
忘れようとしているのだろうか。
世の中にただよう気分を、つかまえてみたい。
■小さな変革、いつかつながる ドキュメンタリー映画監督・鎌仲ひとみさん
原発問題や放射能の問題を扱ったドキュメンタリー映画を撮っています。
これまで各地の人たちが約2500回、上映会を開いています。
来てくれるのはごく普通の人たちです。
上映後の質問タイムで、奥さんが旦那さんを引っ張ってきて「鎌仲さん、この人に言ってやってください」。
何ですかと聞いたら、「この人、原発は仕方ないって言うんですよ。毎日夫婦げんかです」。
旦那さんに聞いたら「原発がなくなったら日本経済がだめになる、心配だ」と。
東電福島第一原発の放射能汚染にしても「政府は大丈夫だと言っているんだから、大丈夫でしょう」。
そういう男性が多い。
特に50代。妻たちは、子どもの被曝を心配しても相手にされないと嘆いています。
表面的な情報が、繰り返し繰り返し流されていますね。
「原発事故は津波のせいだ」とか「原発の方が経済的にいいんだ」とか。
特に経済界はそうでしょう。
それをお父さんが家に持って帰る。
お母さんが「おかしい」と言っても「冷静に考えろよ、感情で物事は動かないんだから」。
女性たちからそういう訴えを何十回と聞きます。
だから私は言うんです。
「勉強してください、情報と理論を伝えますから。お父さんと侃侃諤諤やってみて」、と。
脱原発の動きは薄れているように見えるかもしれません。
すぐにも変わると期待したのに変わらない、その「変わらなさ」に失望しているからじゃないですか。
国会前のデモだって、個人にとっては続けるのは大変です。
時間をとられるしお金もかかる。
一方、原子力産業に根を張って生活している人たちの方が、現実感があるように見える。
生活かかっているんだ、どうしてくれると言われたら、なかなか言い返せない。
市民たちの運動そのものが震災・原発事故を機に転換を必要とされながら、今、産みの苦しみにあると思います。
でも、これまでこうした運動に縁がなかった人々にも、変化が生まれています。
最近ある自治体の職員から手紙をもらいました。
何もしないで2年たってしまった、これではいけない、勇気を出して、原発をテーマにした勉強会を予算をとって開いた。
そうしたら市民に思いが伝わった、小さいけれど、これからも続けます、というんですね。
こういう人たちが各地にいて、草むらの陰で、前にはなかった芽が出ています。
本当の変革というのは、大規模な抗議や運動だけで起きるのではないと思いますね。
各地で、見えにくいところで、さまざまな力にもへこたれず、時には寝たふりをしながら、淡々と続けていく。
そういう人がどれだけ増えるかにかかっていると思います。
私の役目は、そういう人たちに新しい情報や、やる気、同じ人たちがいますよということを届けに行くことです。
そうしたらみなさん、私だけじゃないんだ、明日からまた頑張りますって。
そして、勝手につながっていきますよ。
(聞き手・編集委員 刀祢館正明)
*
かまなかひとみ 58年生まれ。
核をめぐる3部作「ヒバクシャ」「六ケ所村ラプソディー」「ミツバチの羽音と地球の回転」がある。
原発事故後に「内部被ばくを生き抜く」を発表。
■終わったと言われるけれど 福島県南相馬市の主婦・高村美春さん
人材育成や特産品づくりのため福島県南相馬市が委託した「南相馬復興大学」の事務局をしていました。
3月に東京で農産物販売会を開きました。
大勢の人が買ってくれてありがたかったのですが、気になることがあります。
みなさん、放射能の話を一切しないんですよ。
「大丈夫?」とか「線量を測定していますか」といった質問がありませんでした。
身構えていました。
全部測定して、安全を確かめて。
放射能について聞かれるのは怖い。
でも、質問がないのも、変だなと思いました。
1年前にはなかったですよ。
「どこのもの?」「測っていますか?」って、必ず聞かれました。
風評被害が薄れたのならうれしいけれど、震災は風化させたくない。
すごい矛盾の中にいます。
これは友人の体験ですが、子どもの奨学金の相談で給付団体に電話したら、「震災って2年も前の話ですよね」「もう終わったことでしょう」と言われたそうです。ショックを受けていました。被災地とかかわりのない、普通の人がぼそっと言った言葉こそ、世の中の真実を表していると思うんですよね。
この2年で、日本人って楽に生きたい人たちなんだなと思うようになりました。
変えた方がいい、こうならなきゃいけないって、本当はみんなわかっている。
でもそれは大変。
問題が山積みでも、自分の周り半径5メートルが幸せだったらいいんですよ。
遠くのことには目をつぶってしまう。
責めるつもりはありません。
不安なんでしょう。
明日のこと、未来のことが見えなくなっているから。
だからこそ、忘れられないように動かないと、と思います。
今はお金、お金、ですね。
被災地も場所によってはミニバブル、東京はもっとでしょう。
価値観がおかしくなっちゃった。
震災直後は、お金なんかなくても生きていける、避難所でもらった1個のおにぎり、1枚のフリースがあんなにありがたかったのに。
もう震災前の暮らしに戻れないことはわかっています。
悩んだ末、子どもと一緒に南相馬に住むことを決めました。
チェルノブイリに行って、現地のお母さんたちの苦労や工夫を聞いて、ここにいてもいいんだって、背中を押されたこともあります。
子どもには線量を測ったものを食べさせます。
外部被曝も内部被曝も気をつける、積算量を知る、健康診断を受ける。
ここには全身を測定するホールボディーカウンターがあります。
ほかの土地に行ったらありませんから。
春ですね。
以前は、よく山菜を採りました。
普通に生えているんですよ。
目の前にあるのに食べられないつらさ、わかってもらえますか?
今年は採って食卓に並べます。
でも、子どもにはほかの土地で採れた同じ種類の物を出します。
ふるさとの自然や季節感を、食卓の風景を忘れて欲しくないですから。
本当の味ではなくても。
今はこうするしか思い浮かびません。
(聞き手・刀祢館正明)
*
たかむらみはる 68年福島県南相馬市生まれ。
3人の子の母。
震災前は介護のパート、震災後はボランティアスタッフなど。
昨年、ブラジルでの環境サミットで発言した。
■人は忘れる、でも… 津田塾大学教授・三砂ちづるさん
「女性にやさしい出産」という国際協力の仕事でカンボジアを訪ねたことがあります。
ポル・ポト政権時代、虐殺などで200万人近くが命を落としたのですね。
血の跡が今も収容所跡に残されていました。
アルメニアでは、1915年からの9年間にオスマン帝国に150万人のアルメニア人が殺された、という説があると聞きました。
思えば人間の歴史というものは、いくたびもの戦争、災害、疫病といった悲惨な出来事の連続でした。
人災と天災のはざまに、私たちは生きている。
そのことを私たちはつい、忘れていたのではないでしょうか。
豊かな生活で安穏と暮らしているうちに。
3・11で、そのことに改めて気付かされた。
これで社会は大きく変わる、という人もいました。
でも、私はそうは思わなかった。
人の記憶は頼りないものです。
悲惨な経験を忘れるからこそ生きていける面もあります。
原発事故で避難された方々のご苦労は大変なものなのでしょうね。
ただ、未知のものへの恐怖という意味では、水俣病もエイズも同じでした。
鳥インフルエンザも心配です。
長く関わっていかなければならない問題がまた一つ増えた、ということだと思います。
沖縄の若者から聞いた忘れられない言葉があります。
沖縄戦での集団自殺がなかったかのように言われ、抗議する沖縄県民集会の場で、地元の高校生が
「おじい、おばあが言ったことをウソだというのか」と怒っていたのです。
祖父母の体験を自らの記憶として、手触りをもって語る若者がいた。
それは、孫や子に体験を継承できる関係が家族にあるからなのでしょう。
その感覚が、戦後日本の本土では薄れてしまったように思うのです。
家が楽しい、親が好きだ、という子が周りに大勢いるでしょうか。
子をあるがままに受け入れる関係が家庭にあるでしょうか。
原因をたどっていくと、それは戦争体験ときちんと向き合ってこなかったからではないか。
私たちは戦後、「忘れる」ことを選択して生きてきたからではないか、と思うのです。
被災しなかった多くの日本人は大なり小なり、原発事故のことも忘れていくでしょう。
それはもう仕方がない。
でも自分の家族、経験、目の前の生活を丁寧に、大事に生きていきたいものです。
そうすれば「共感」する能力が上がる。
人の痛みがわかってこそ、目の前の困っている人に手を差し伸べることができる。
今年1月、父を亡くしました。
長く兵庫県西宮市で暮らし、西宮大空襲と阪神大震災の両方を何とか生き延びたのが我が人生だった、と話していました。
人生は短いようで長い。
いろんな悲惨を経験し、でもそれを乗り越えて生きていくものなんですね。
(聞き手・萩一晶)
*
みさごちづる 58年生まれ。
専門は疫学、母子保健。疫学専門家として15年、ブラジルや英国で研究・勤務。
04年から現職。著書に「オニババ化する女たち」「不機嫌な夫婦」。
■デモじゃないやり方始めた カフェ店員・蒲谷真由美さん
2年半ほど前から、有機無農薬栽培の野菜でつくった料理を出したり、第三世界の物品を適正な価格で販売したりするカフェで働いています。
自分の生活のリズムを大切にしたいので、仕事は週4日程度。
畑を借りて野菜作りもしています。
震災、特に原発事故以降、食や暮らしの安全に強い関心を持つようになりました。
震災1年の日には、友人たちと東京の日比谷公園であったイベントに行きました。
でも、今年3月11日の地震発生時刻には1人で畑で黙祷し、夜は神奈川県鎌倉市にあるカフェで、
反原発運動をしている武藤類子さんの本を朗読する小さな集いに出ました。
友人たちも誘いませんでした。
周囲に流されるのではなく、自分自身で過ごし方を決めて欲しかったからです。
昨年7月に東京・代々木での集会に参加した時、1人の女性が飛び入りでステージに上がり、興奮した様子でマイクアピールを始めました。
でも、会場からは批判の声が上がり、女性は途中で退場してしまった。
ショックでした。「脱原発」という目標は同じなのに、なぜ対立が生じてしまうのか、と。
かつての安保闘争でも、大勢の人々が懸命に声を上げたけれど、目的は達成できなかった。
街頭で声を上げるのを否定するつもりはありませんが、そういうやり方だけでは、かえって心を閉ざしてしまう人もいると思います。
原発の問題は、今の豊かな生活を手放したくない人々の思いなど、世の中のさまざまな面とつながっている。
私自身、以前は仕事があまりにも忙しくて、月に1回ぐらいは旅行して発散しないと心のバランスが保てませんでした。
でも、今の暮らしをするようになってからは、近所の原っぱに寝転がるだけで満足するようになった。
物欲にこだわらない今の私の暮らしを、身近な人々に「気持ちよさそう」と思ってもらい、私の話に耳を傾けてもらう。
それを通じて、少しずつ世の中を変えてみたい。
デモや集会に参加しなくなったのは、そんな思いが強まったからです。
「私、震災を忘れつつあるんじゃないか」って怖くなった時期もありました。
以前は津波や原発のことで頭がいっぱいだったのに、最近は考える頻度が減っている。
だが、友人と話している時に「いや、私は忘れていない」という言葉が、自然に口をついて出ました。
震災直後は起こったことからうまく距離がとれなかったけど、今は心の中が整理できて、かえって以前よりも深く考えられるようになった。
大切な人を亡くした後、時と共に悲嘆に暮れることが減っても、決して忘れたわけではない。
それと同じと思います。
3月29日には久しぶりに官邸前のデモに参加しました。
参加者は減っていましたが、直接声を上げてくれる人々がいるからこそ、私も自分のやり方で世の中に働きかけられる。
色々な方向性があっていい、と今は納得しています。
(聞き手・太田啓之)
*
かばやまゆみ 84年神奈川県横須賀市生まれ。
専門学校で保育士の資格を取得し、4年間保育の仕事に就く。
10年10月から東京都目黒区の「アサンテサーナカフェ」で働く。
■不安隠し無力感抱く母たち 心療内科医・斧澤克乃さん
私は、福島のNPOの呼びかけにより全国から集まった医師グループの協力で、福島市や郡山市などで実施されている
「子ども健康相談会」に定期的に参加しています。
昨年1月に初めて参加した時衝撃を受けたのは、新聞やニュースで報道されていたことと、そこに相談に来ていた母親たちが訴える
福島の現状とのギャップでした。
子どもを放射能から守りたいと思い、県や市、地元の医師に訴えても、「安全です。特別なことをする必要はありません。
放射能恐怖症のお母さんが増えて困っています」などと相手にされない。
経済的な理由などから県外への避難ができず、高い放射線量の中で住み続けざるを得ないからこそ心配なのに、
他の母親からも「県や市が安全だと言っているのだから大丈夫でしょう」「残っているのに不安を口にするのはおかしい」などと言われる。
夫からも「心配しすぎだ」と言われて夫婦間に溝ができる。
不安を隠しながら、地域や家庭の中で孤立。
「自分の方がおかしいのではないか」と自らを責めて抑うつ状態になっている母親が多く、相談会に来ること自体が非難される雰囲気でした。
私は母親たちの姿に言葉を失い、心ない行政の対応への憤りのあまり、夜も眠れなくなりました。
原発事故直後から国や専門機関は「直ちに健康に影響を及ぼすレベルではない」と繰り返すばかり。
チェルノブイリ事故の時の例もあるので、将来的にどのような影響があるかわからないと思い、母親たちは必死に情報収集し、
体制を整えてほしいと訴えているのに、「安全だから検査は必要ない、県外避難も勧めない」というだけ。
しかし、子どもたちは実際に、のどの痛み、鼻血、下痢、倦怠感、頭痛、発疹など様々な症状を呈しているのです。
「外に出られないことによるストレスが原因」とか、「母親の心配が病気を作る」と、病気の原因を心理社会的な要因にすり替えられて
しまうことが最も危険です。
最近相談に来る母親たちと話していると、どんなに訴えても変わらない無力感からか、疲れ果ててしまって、
「仕方ない」「これも運命だ」「放射能のことは忘れて暮らした方が心が楽」と無理やり思い込むことで心のバランスを保とうとしている人が
増えていると感じます。
同じことは東京でも起きています。
私の子どもが通う学校では今でも、保護者からの要望を受けて給食の食材の産地にも気をつけてもらっているし、放射線の専門家を招いて、
子どもたちに放射線から体を守る方法について講義をしてもらったりしていますが、そのような学校は少数派になっています。
リスクがあるのに、「安全です」といって不安のみを取り去ったら、子どもたちを無防備に被曝させる危険が残るだけです。
行政やメディアの情報をうのみにせず、自ら考えて行動することをあきらめないでほしいと思います。
(聞き手・山口栄二)
*
おのざわかつの 65年生まれ。
96年メルボルン大大学院ウィメンズヘルス学科ディプロマ取得。
ロンドン大精神医学研究所での研究を経て、現在都内のクリニックに勤務。
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