[CML 020106] <テント日誌 9/24(月)――経産省前テントひろば 380日目>

Kimura-m kimura-m at ba2.so-net.ne.jp
2012年 9月 28日 (金) 13:51:23 JST


<テント日誌 9/24(月)――経産省前テントひろば 380日目>
季節の変わり目は政局の変わり目?風雲急を告げる永田町・霞ヶ関
そして「いのち」について考える。

  昨夜は一段と冷え込んで、朝、寒さで起きてしまった。一雨毎に秋の気配が東京にも迫っているようです。日曜日は週の中でもイベントがないときには静かな日常が過ぎていくようです。
しかし久しぶりに要らぬ来訪者が罵声を浴びせにやってきたようでした。
 今日も一日テント広場周辺では穏やかな時間が流れるですが、しかし永田町ではこの国の帰趨を左右する事態が進展しています。国会議員は総選挙真近を念頭に置いた慌ただしさが伝わってきます。
  また、毎朝テントに来る、経産省厚生企画室・松本巡視長との話でも話題になったのですが、彼は原子力規制庁の六本木への移転に伴い、『保安院が移転したのだから、テントもそっちに移ったら?』と問いかけてきました。しかし原子力政策の根幹は経産省本庁にあるのだから、原子力政策の転換の確約と大飯原発即時再稼動停止、全原子炉廃炉を表明しない限りは断固として経産省前テントひろばは撤退することはない。と一蹴しました。
  朝、首相官邸前で断食をされている広島の福崎裕夫さんがテントを訪れて下さったので、江田さんができるだけの支援をすることを告げたのを踏まえて、僕としては椅子や雨具の提供やプラカードの製作をすることにしました。
 昨日の来訪者に比べ、今日は午前中から大勢の方がテントを訪れます。しかもテントひろばの重鎮たちが・・・笑。テントの前に皆さんが座った風景は何か歴史を感じさせる趣があったように感じましたが、少しそれは言いすぎかな。
  それというのも今日9月24日は13時から参議院会館B104会議室「記者会見:オスプレイの沖縄配備に反対する学者・文化人共同声明」が行われました。新崎盛輝氏、前田哲男氏他が出席したそうですが、僕は参加できなく残念でした。
 その後、夕方からは「オスプレイ安全宣言・配備強行を許さない連続行動」として、18時から20時まで首相官邸前で巨大抗議アクション「沖縄へのオスプレイ配備中止を求める!10数万筆(現在)の署名提出とともに」が行われました。主催は9.9国会包囲をされた方々が「オスプレイの沖縄配備に反対する首都圏ネットワーク」と名称を変え実行の中心となったとの事でした。
テントの重鎮の皆さんは沖縄問題に対して長い間闘ってこられた方々です。そのため今日は早くからお見えになったとの事でした。  しかし、これも以前からそれを我が仕事と思ってきたお留守番役を担うべく参加はしませんでした。
  空を見上げると夏の空の上にはややまばらではあるもののうろこ雲が見えます。日が落ち始めた空に朱色が差し始め、早い雲の流れが空を大きなキャンバスとして素敵な眺めを彩どっています。段々と早く流れる黒い雲が多くなってきます。天気予報では降水確率は高いもののこの時間には雨は振らないといっていましたが・・・。どうなることか?その中、重鎮の一人Tさんだけが僕に傘を貸してくれと言うので、置き傘をお貸ししました。これが後々土砂降りになるのですが、さすがは歳の功、念には念を入れる用意が大事を避けることになったのでした。
  ちょうど抗議集会も佳境に入った19時ころに雷とともに大雨となりました。同じころ関電東京支社前で抗議行動を予定していたMさんがテントに一時避難。と同時に受付のKさん、大阪から帰っていたYさんが何本かの傘を携えて官邸前まで走っていきました。結局、抗議行動は19時半で終了したそうでした。あまりの雷の轟音に、仕方がないと。
 その後テント内は大勢の人で一杯になりました。久しぶりの顔も多く、皆さん会話に花が咲いていて、それはそれは賑やかでした。一時見えなかったMさんが21時過ぎに帰ってきましたが、雨が小降りになってから関電前に行って抗議をしてきたとの事。筋金入りの彼女にとって少々の雨はその抗議の怒りを納めることにはならないということなのでした。
 そう言えばいつも行動を共にしているS姐さんは体調を崩したとの事で今日はお休みです。電話をしてみたら声はか細いもののその気概は衰え知らず、来週は必ず参加すると言って、最後は元気な声でこちらにエールを送って下さいました。
  先週、14日から17日は富士宮市の朝霧高原で行われた「いのちの祭り」に出掛けてきました。
下北沢のTさんの計らいで経産省前テントひろばのブースを出し、椎名千恵子さんに参加をして頂き、福島原発告訴団と福島診療所の支援をお願いするためでした。
 初日、会場に着くと、広い「ふもとっぱら」には多くのテントが立ち、大きなステージが設けてあってまるでロックコンサート会場です。参加している方々は全国各地から訪れており、僕には60年代のウッドストックのように思えました。
  1988年に第一回目を開催し、その後数年は定期的に開催されていたとの事でしたが、2000年を最後に12年振りの「いのちの祭り」でした。 
 主催者の挨拶で『12年ぶりに行う今回はこの祭りが訴え続けてきた「いのち」を考える時、ひとしお重いものを覚える。福島での過酷事故と東北の災害を踏まえ、今一度真剣に一人一人が「いのち」を考えよう』と訴えていました。最初の印象では失礼ながら軽薄な印象を禁じえなかった僕でしたが、参加者と話をしていく中で僕の心の中に今まであった何かもやもやしたものが富士山麓の澄み切った空気の中で晴れて行くようでした。 
 それは二日目の深夜行われた「カルメン・マキ」さんのコンサートで確信となったのです。あの頃の高校生だった僕の純粋な思いと行動が蘇ってきたのです。マキさんはあの頃と何にも変わっていず、さらに深くなったその唄声は僕の五臓六腑に染み込んできました。
  最前列に座った僕を時折しかも長い時間見つめられた時、『あなたの40年は何だったの』と囁き掛けてくるようでした。
 終わってから光栄にも一緒にビールを飲む機会があって、福島のことを話しました。『明日、福島の椎名さんが会場に入ります。そのお話を聞いて下さいませんか』と最後に伝えると、『明日は早い時間に帰らなくてはならないの。でもその話を聞かなくても私の心は一緒だよ。ねっ、分かるでしょう?』と気だるく言い方は優しくないのだけど、その変らぬ美しい顔で言葉を貰いました。『その椎名さんによろしくね』とラムジンジャーの入ったグラスを片手に宿舎に帰っていきました。
  会場では多くのミュージシャンがステージに上がりました。「フライング・ダッチマン」「ランキンタクシー」等など・・・。フライング・ダッチマンのリーさんには経産省前テントひろばの者と断って話しかけると、『あの日は別のコンサートと重なってしまい申し訳なかったですね』と、実は9月11日の一周年イベントに招聘したのですが参加いただけなかったお詫びも貰いました。
  ランキンタクシーさんとは最終日の朝に宿泊先が一緒で部屋違いだったので玄関でばったり会いました。ここでもテントの者だと言うと、いずれテントには伺いますとの話。『差し入れは何がいいですかね?(笑)やっぱり煎餅などの乾き物でしょうか?』と。何でも結構です是非お出で下さいと言うと、『芋ケンピを持って行きますよ』と言うのでした。
 彼はその約束を守ってくれて、21日の官邸前抗議行動に参加の折、芋ケンピを持って来て下さいました。来週も来るからとの約束をして帰っていきましたが、律儀な彼のことですから必ず来るでしょう。ついでに16時から「あおぞら放送・テントひろばから〜」にも出てよといったら、出来るだけ早い時間に伺いますとも言っていました。楽しみです。
 最終日には集会の最後の「いのちの祭り」宣言の直前に椎名さんのアピールとカンショ踊りを行いました。カンショ踊りは前日にワークショップを行ってはいましたが、どのくらいの方の反応と参加があるか心配でした。
 しかし、時折強く振る雨の中、3〜400人の方が参加してくれて、全員ではないけれど慣れない手
振りで踊る姿をステージから見ることが出来ました。参加者の中にはわー気ショップに参加した方、「世界ヒバクシャ展」の森下美歩さんの顔もありました。椎名さんに言われ、『左、右、左、下がって下がって、払って』と掛け声を掛け続けていましたが、嬉しさの余り涙で声になりません。
 終わってからも先頭の椎名さんの顔を見た途端、大声で泣いてしまいました。『良くここまで来たね』最近の僕と椎名さんの会話に出てくる言葉です。その言葉の「ここ」へは不幸な事故・災害で繋がったご縁、手ではあるけど、繋がるべくして繋がっている・必然を感じざろうを得ないのです。
 そして老若男女を問わず、人が繋がってこそ出来ること。繋がらなければ出来ないこと。人は一人ではないし、一人では生きて行けないこと。さらに人は大きな自然の中の一部であって自然の繋がりから切り離されては生きていけないものなのだということを痛感した四日間でした。
 最後に「いのちの祭り」の主催者が言っていたことは世代交代でした。それもまた自然の理です。
若い者が歳を経たものたちからの継承をしていく。歳を経た者はその若い者たちへの支援を温かい目でしていく。それは未来を繋ぐ子供たちを守ることが今僕らに課せられたことなんだと。                                              ( F記 )
 



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