[CML 019793] 本日9/12(水)「李容洙(イヨンス)ハルモニ今を語る~被害者として名乗りでてから20年~」@川崎市エポックなかはら

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2012年 9月 12日 (水) 11:18:01 JST


紅林進です。
 
本日9月12日(水)に、韓国から李容洙(イヨンス)ハルモニをお招きして、 
「李容洙(イヨンス)ハルモニ今を語る~被害者として名乗りでてから20年~」
と題する集会が、川崎市のエポックなかはら(JR南武線「武蔵中原駅」下車)
でかい際されます。
 
そのご案内を以下、転載させていただきます。
 
(以下転載)
 
【集会】李容洙(イヨンス)ハルモニ 今を語る ~被害者として名乗りでてから20年~
 
と き:9月12日(水)開会午後6時30分(開場午後6時)~午後8時30分
ところ:エポックなかはら・第3会議室(JR南武線「武蔵中原駅」徒歩1分)
         地図http://www.sfc-kawasaki.jp/contents/hp0007/index00030000.html
資料代:500円
主 催:川崎から日本軍「慰安婦」問題の解決を求める市民の会(略称:求める会・川崎)
連絡先:070-6641-7850(佐藤)
 
求める会・川崎は、「慰安婦」問題解決のための意見を川崎で採択するために、
2008年に結成されました。これまでに市民委員会で4回の審議が行われましたが、
8月1日の市民委員会では、「慰安婦」問題は「日韓協定で解決済み」という自民党
の論陣を大きく論破する議論が行われ、「あと一歩で採択か」というところまで来て
います。
 
この「日韓協定解決済み」論を覆す大きな役割を果たしたのが、昨年8月の韓国・
憲法裁判所での決定であり、この発端をつくったのは、2002年の「慰安婦」被害
者、原爆被害者100人の原告団による「日韓請求権協定関連文書の公開を求め
る行政訴訟」です。イヨンス・ハルモニは、この闘いの先頭に立ちました。訴訟は
2004年に勝訴判決を勝ち取り、韓国政府は2005年に日韓会談に関する外交
文書を全面公開しました。そして官民共同委員会は、「日本軍慰安婦問題など
日本政府・軍など国家権力が関与した反人道的不法行為については請求権協定
によって解決したと見なすことはできず、日本政府の法的責任は残っている」と判
断しました。日韓両政府を動かす闘いはいまだ困難を極めています
が、ハルモニたちの一歩一歩の闘いの積み重ねの上に、いま希望の扉が開かれ
ようとしています。
 
本集会では、1992年に名乗りをあげてからのイヨンス・ハルモニの苦渋にみちた
闘いをお聞きします。
 
詳細=>
http://blogs.yahoo.co.jp/tocka_jikkoi/63860674.html
 
李容洙(イヨンス)ハルモニ 足跡:
1928年12月13日 韓国慶尚南道大邸(テグ)市に生まれる。貧しいながらも両親
と兄と本人と4人の弟の大家族で、毎日が賑やかで睦まじく暮らしていました。学校
にも通いましたが、弟がたくさんいたので、1年ほどでやめてしまいました。その後、
夜学に通い日本人の先生に日本の歌を教えてもらいました。
1944年秋 15歳の時、家で寝ていると小窓を叩く音に目を覚まし、手招きされる
ままに外に出てみると日本軍人が立っていました。脅されるがまま連行されました。
大邸から汽車にのり慶州、平壌・安州、大連に行き、船に乗って台湾・新竹海軍慰
安所へ。
1945年春 16歳の時、慰安所が爆撃にあい、家の下敷きになりました。親切に
してくれた特攻隊の軍人が出撃して帰っては来ませんでした。8月 日本の敗戦で
“解放”され、収容所に集められました。
1946年春 17歳の時、帰還船に乗り釜山港へ着き、大邸駅からは父母の元へ
走りました。父母の元に帰れたものの誰にも被害を語れませんでした。誰かにその
事が知られてしまうのではないかと恐れて暮らしていました。それからは、いくつか
の仕事をしながら弟たちの援助で生活していました。
1992年6月25日 63歳の時、恐る恐る何度も迷い、そして勇気をふりしぼって
名乗りでました。その後、韓国・日本のみならずアメリカ・カナダ・フィリピン・台湾
などでも証言と抗議の活発な活動を続けています。
2002年日韓請求権協定関連文書公開請求行政訴訟の原告団の先頭にたつ。
2007年には米国公聴会で証言。


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