[CML 019639] 高度成長とアメリカ、原発

BARA harumi-s at mars.dti.ne.jp
2012年 9月 4日 (火) 15:05:53 JST


吉見俊哉さんに聞く 高度成長とアメリカ/朝日新聞2012.9.4朝刊

■成功物語の裏面で米支配が内面化、原発はその象徴

 敗戦から立ち上がり、高度経済成長を成し遂げた、勤勉で高い技術力を持つ日本人。そんな「物語」を私たちは長い間大事にしてきた。だが、東日本大震災によってできた社会の裂け目から、物語の裏面が顔をのぞかせている。そこには何が描かれているのか。さまざまな角度から戦後日本を照射してきた吉見俊哉さんが読み解く。

 ――東日本大震災を契機に、高度成長期に手にした「豊かさ」への本質的な問い返しが起きています。私たちは長い間、何かを見落としてきてしまったのでしょうか。

 「高度経済成長とは言うまでもなく、敗戦の焦土から立ち上がり、平和で豊かな社会を実現したという日本人の成功物語です。経済白書が『もはや戦後ではない』とうたったのが1956年。59年の皇太子成婚から60年安保を経て『所得倍増』の時代に突き進み、64年の東京オリンピック、そして70年の大阪万博で物語は頂点に達します」

 「しかし確認しておくべきは、『戦後』の平和と豊かさを享受していたのは日本本土だけで、沖縄を含めて東アジアはまだ『戦時』だったことです。50年代には朝鮮戦争、60年代にはベトナム戦争があった。中国は文化大革命などで70年代後半まで動乱の時代が続き、さらに韓国、フィリピンは軍事独裁政権でした」

 ――なぜ日本だけが享受できたのですか。

 「日本がアジアの帝国だったからです。アメリカは戦後、大日本帝国の遺産を引き継ぎ、日本がかつて植民地化した多くの地域を自陣営に組み込んだ。そして日本は、アメリカと最も仲の良いアジアの国として自らを再定義することで、戦後もアジアの中心であり続けることができました。大日本帝国は敗戦でチャラになったわけではない。この連続性は見逃されるべきではありません」

 「冷戦構造の中、アメリカは日本に、対共産圏の軍事的防壁である韓国やフィリピンなどを経済的に支える役割を担わせました。だからアメリカは日本本土の軍事的負担を解除し、先端技術をどんどん移転した。日本人の勤勉さや円安の好条件も重なり、高度経済成長は実現します」

 ――単に日本人の頑張りによって達成されたわけではない、と。

 「そうです。しかし実際に豊かになると、私たちはそれが歴史的、地政学的な文脈で成立したことを忘れた。忘れてしまえるほどに、アメリカの占領体制を内面化したとも言えます。広い意味での占領は52年に終わったわけではない。もっと日本の社会や歴史、構造に内在するような形でアメリカは戦後日本を支配し続け、日本は現在もアメリカから自由ではない。そのことをはっきりわからせてくれるのが原発です」

 ――どういうことですか。

 「日本が原発導入に向かった最大の理由はアメリカの世界戦略です。アイゼンハワー米大統領は53年12月の国連総会で、原子力の平和利用に関する研究や原発建設で諸外国と協力すると約束した。有名な『アトムズ・フォー・ピース』演説です。軍事大国のイメージをやわらげるとともに、原子力技術を第三世界に提供することで、自陣営に取り込もうという狙いがあった。とりわけ被爆国の日本が原発導入に動けば、ヒロシマ、ナガサキへの非難をかわせるし、宣伝効果も大きい。実現しませんでしたが、アメリカ政府・産業界は、日本初の原発を広島につくりたいとも考えていました」

 「もうひとつ、アイゼンハワーは共和党で小さな政府路線、民活志向だったことも大きい。米国内の原子力産業の育成を促すうえで、日本は非常にいい原発プラントの輸出先になるとの計算があったと思います」

 「そして多くの日本人は、アメリカに原爆を落とされた被爆国だからこそ、原子力の平和利用によって平和と豊かさを手にする権利があると思った。そのレトリックというかトリックの完成が、70年3月14日に開会した大阪万博です。同日、敦賀原発1号機が稼働し、万博会場に『原子の灯』をともしました。続いて8月に美浜原発1号機も会場に電気を送った。敦賀を手がけたのは米ゼネラル・エレクトリック、美浜は米ウェスチングハウス。高度経済成長の完成を日本国民が確認し、祝賀する国家イベントは、アメリカ製の原子の灯に支えられたのです」

 ――東京電力福島第一原発事故の前はそんなトリックがあったこと自体を多くの人が知りませんでした。

 「54年に映画『ゴジラ』が製作されています。ゴジラは原水爆、あるいはアメリカの暗喩で、いわば反米映画でした。ところが60年代後半から、別の悪い怪獣をやっつけてくれる『僕らのヒーロー』に変質してしまう。これは戦争や核、アメリカに対する日本人の想像力の変化を象徴的に示しています」

 「戦後日本に一貫しているのは非常に強い親米意識です。理由はふたつ考えられる。ひとつは、戦前・戦中の天皇に代わり、戦後はアメリカこそが日本人のアイデンティティーを保証してくれたからです。60年代以降、『メード・イン・ジャパン』は優れていると強調する広告がたくさん出ていますが、多いのは、日本人技術者の後ろにアメリカ人の科学者がいて、日本の技術を評価しているというパターンです。直接的に『アメリカでも折り紙つき』といったフレーズが使われることもあった。アメリカのまなざしのもとに自分たちは優れているとか、アジアの中で最も進んだ国だといった誇りを再び持つことができた」

 「もうひとつは、戦中のアジアへの侵略行為を忘れたいという社会心理もあったと思います。60年代、軍事独裁の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領と日韓基本条約を結んだのをはじめ、実質的には戦後賠償である経済協力協定をアジア各国と結んだ。冷戦構造の中で、アメリカが日本の後見役をしていたからこそ、戦中期に日本がやったことにとりあえずフタをし、忘れることができた。日本はアジアを忘れるために、一生懸命にアメリカだけを見てきたのだと思います」

■大国意識を捨て、多元的なアジアに活路を見いだせ

 ――しかし今、領土問題の再燃もあって、日本はアジアと向き合わざるを得なくなっています。

 「中国の台頭で地政学的な秩序が変わり、日米の『抱擁』によってフタをしてきた問題が表に出てきています。アジアは再び中国中心の時代に戻るし、アメリカも以前のような覇権は維持できない。アメリカの傘の下にいれば万事OKという時代でないことは多くの日本人がわかっている。でもどうしていいかわからないから、中国けしからん、韓国けしからんと声高に言うことで、不安を紛らわせているように見えます」

 「日本は高度経済成長で良い思いもした。だがその結果、アメリカの支配を受け入れ、沖縄に米軍基地が集中し、狭い列島に一時54基も原発が建ち、事故で放射能がついた雨が降る中、それでもアメリカ製の傘をさすしかない。これは日本人が大事にしてきた高度成長という成功物語の裏面で、自らはまった袋小路です。そして原発事故で、政府や電力会社への不信が高まる一方、迅速な情報収集・支援活動をした米側への信頼が相対的に高まった。やっぱり傘はアメリカ製に限るよね、と。そんな日本って、いったい何なのでしょうか」

 「中国はますます大国化し、米中の二極構造がはっきりするでしょう。日本は今のままだと他に頼るものがないから、アメリカの傘をさし続けるしかなくなる。アメリカも、使い勝手のいい日本、特に沖縄を簡単には手放さないでしょう。これでは出口がありません」

 ――ないですか、出口。

 「アジアの中で日本を再定義する必要があります。70年代末から東アジア全体が戦後に入り、やがて経済成長を遂げ、日本の特権はそがれた。日本がアジアの中心だったのは日清戦争以降のたかだか100年。大国マインドをリセットし、ワン・オブ・ゼムであることを自覚すべきです」

 「自覚して何が見えてくるか。それはたぶん、巨大な都市化された群島の集積としての東アジアです。米中二極化という構図の中だけでアジアの将来を考えても、それは帝国主義や冷戦時代の延長でしかない」

 「日本には約7千、東アジア一帯には数万もの島がある。面ではなく点と線の集積として東アジアを捉え直せば、もっと多元的な都市秩序の中で交易や連携が活発化し、米国あっての日本という構図も崩れていく。そんなふうにアジアの中で日本という国家を相対化する道があるはずです。大日本帝国からアメリカ覇権への連続性を問い直しつつ、この多元性に賭けてみたい。そこに日本人の活路もあると考えています」

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 よしみ・しゅんや 57年生まれ。専門は社会学・文化研究。著書に「万博と戦後日本」「親米と反米」「夢の原子力」など。

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 〈取材を終えて〉「忘れたからって、なかったことになんかならない」。吉見さんの話を聞きながら、あるテレビドラマのせりふを思い出した。大日本帝国と植民地、帝都と東北、戦後日本とアメリカ。それらに「フタ」をしたのが高度経済成長という物語だったのなら、震災後の私たちが描く新たな物語は、それらに向き合うことから始めるべきだろう。(高橋純子)

*新聞記事ですから、そのまま転載はNGです

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