[CML 020676] 11月10日唐津で映画『へばの』上映

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2012年 10月 27日 (土) 16:17:05 JST


11月10日に唐津市(佐賀県)で青森県六ヶ所村の再処理工場でのできごと(内部被曝)を題材(フィクション)にした映画『へばの』
が上映されるそうです。

『へばの』公式HP:http://teamjudas.lomo.jp/

しかし、この映画の上映会を企画した吉田晶子さんは「私が『へばの』を上映するのは、この映画が原子力発電の問題を扱っている
ことが理由ではない」と言います。

そして、吉田さんはこう続けます。「(私が『へばの』を上映するのは)一組の男女の生き方を描いた物語として、一人の女性の人生を
描いた物語として、面白い映画であるからだ。(略)その面白さは、原子力発電という問題を真面目に扱っているから、であると思う。
(略)(しかし)『へばの』の面白さとは、わかりやすく反原発を訴えることに徹することでも、「不謹慎さ」を指摘されるのを恐れ沈痛な
表情をつくってみることでもない。自身が扱うべきテーマとして、対峙すべき問題として、自らがどのように問うのかを逡巡する手触り
がある」、と。

この映画の上映会を紹介している小野俊彦さんは吉田さんの意を忖度してさらにこう続けます。
http://blog.livedoor.jp/hesalkun/

「上映会主催者の吉田さんは「『へばの』上映に向けて」で、今回この映画の上映を企画したのは「この映画が原子力発電の
問題を扱っていることが理由ではない」と書いている。しかし、吉田さんがわざわざそう書かざるをえないということ自体、この
2008年に公開された映画がすでに「311」ないし「312」と呼ばれる出来事以後の時間を生きているという事実の一部なの
だろう。

原発事故以後の状況の中で現に多くの人が経験している困難と、この映画の登場人物たちが通過する困難とは、やはり無
縁ではありえないし、映画は先取りされた現実の複製のようにすら見えなくもない。生を取り巻く状況が困難であればあるほど、
生きてゆくことは「決断」の様相をより濃くおびるだろう。しかし何が正しい決断なのかが分からないならば、決断そのものより
も、その決断を下した過程にこそ考えるべきことがある。視線の対象よりも視線そのものの動きに考えるべきことがある。しか
し、私たちは分かりにくいものから逃げてしまう。対象に、現象に、視線を固着させ、視線の恣意と同時に自由を忘れてしまう。
ある決断の背後にあったであろう特定の動機や理由から決断にいたる直通経路のようなものを想定し、また、それを了解する
ことで他者と「連帯」できたとか、理解しあえたと考えてしまう。吉田さんが「上映に向けて」の最後で、映画『へばの』を観た感
想として述べているのは、そのような分かりやすさに傾くことへの重要な疑義ではないだろうか。」

私は吉田さんの語りにも、小野さんの視点にも気がそそられ、説得されます。

「自らのものとして問題を語るための新しい言葉を私たちが獲得するとき(東本注:原発問題を自らの身裡に迸る内発の問題
として考えようとするとき、と私は読みかえて読解しました。原発問題を考えようとするときの「私」としてのアプローチの問題と
して)、それは新しく誰かの仲間に入れてもらうときに訪れるものではなく、それまで一緒にいたものたちと自らを結びつけてい
た言葉を手放すことを覚悟したときに、訪れるものではないのだろうか。『へばの』を観て、そう思った。「へばの」とは青森弁で
「さようなら」の意である。」(吉田晶子さん。上映会のチラシより)

面白そうな、そして気がそそられる上映会です。唐津は家(うち)からは少し遠いけれど、ぶらりと映画『へばの』を観に行こうかしらん。

そして、吉田さんや小野さんと一杯あおってみるのも一興かな(小野さんとは面識あり)、と思ったりもしています。ただし、この日、ある
一杯会にも誘われていて、それとの調整が微妙・・・。


東本高志@大分
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http://mizukith.blog91.fc2.com/ 



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