[CML 020588] チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ―イリーンと重松の連携が3・11後の放射線対策にもたらしたもの―(2)

Yasuaki Matsumoto y_matsu29 at ybb.ne.jp
2012年 10月 21日 (日) 23:09:03 JST


みなさまへ    (BCCにて)松元

3・11事故直後から一貫して、「安全・安心」を説く放射線リスク専門家の言説
とそれを受け取る市民との食い違いを追及し続けてきた東京大学の島 薗進氏
が、「チェルノブイリ事故後の旧ソ連 医学者と日本の医学者」と題してあらた
な連載を開始しました。著者の了解をえて紹介させていただきます。その(2)
は、チェルノブイリ事故以前の状況と直 後の対応

名著:中川保雄『放射線被曝の歴史』に逸早く注目・紹介してきた氏が、「この
書物が対象としているのは1990年頃までであり、…その後の放射線 健康影響・防
護の動向にどのように関わっているかについては述べられていない。…中川が
行ったような本格的な調査研究はとてもまねができないが、 それでも大いに参
考になる手頃な書物がいくつかある。」と、今日なを根強く横たわっている「安
全・安心」論の淵源にさかのぼっての解読に意欲をの ぞかせています。

◆ブログ:島薗進・宗教学とその周辺より
http://shimazono.spinavi.net/

<ブログから島薗氏の追究履歴がわかります>
★放射性物質による健康被害の可能性について医学者はどう語っているか(2011
年3月23日)
★放射能による健康被害についての医学者、政府・自治体およびメディアの対応
(2011年4月)
★原発による健康被害の可能性と安全基準をめぐる情報開示と価値の葛藤(2011
年4月)
★福島県の学校の20mSv基準は適切か?──専門家・学者・ジャーナリストの自覚
(2011年5月)
★福島原発事故災害への日本学術会議の対応について(2011年5月)
★中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(2011年7〜8月、3回)
★低線量被ばくリスクWG主査長瀧重信氏の科学論を批判する(2012年1月)
★日本の放射線影響・防護専門家がICRP以上の安全論に傾いてきた経緯
――ICRPの低線量被ばく基準を緩和しようという動きの担い手は誰か?―― 
(2012年2〜5月、8回)
★放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?
(2012年8〜9月、8回)

======以下、その(2)転載(改行あり)=====

■チェルノブイリ事故後の旧ソ連医学者と日本の医学者 ――イリーンと重松の連携
が3.11後の放射線対策にもたらしたもの―― (2)チェルノブイリ事故以前
の状況と直後の対応
2012年10月18日

イリーン『チェルノブイリ:虚偽と真実』の第1部は「チェルノブイリ事故直前
のソビエトにおける放射線医学の科学的レベルとその状況」と題されて いる。
ここでは、イリーンがこの分野の権威者として大きな力をもつ立場に至る過程が
述べられるとともに、その立場でチェルノブイリ事故後の事態に 対応する際、
どんな困難を抱えていたかの説明がなされている。一方でソビエト連邦のこの分
野の科学は高い水準にあったという主張と、しかし、チェ ルノブイリに十分対
応できないような多くの限界があったという弁明が述べられており、その意味で
分かりやすい叙述とはいいがたい。
 ソビエトの放射線医学の限界ということだが、一つには秘密の分厚い蔽いがか
ぶされていた。そして放射線防護についての研究は少なかった。

「若い研究者や興味を抱いている読者に科学研究の主な結果を知らせるために、
科学者たちは厳しい検閲とその他の科学論文の発行に伴うわずらわしい 問題点
をうまく切り抜けなければならなかった。原則として、公開された研究成果は一
部であり、多くは未公開で発行を禁止されていた。」(5ペー ジ)

「……人体に及ぼすイオン化放射物からの防護方法について基礎的な情報や有用な
放射線学に関する科学論文は少なかった。特に放射線事故に関するも のは稀少
であった。実際多くの科学者は、事故の対策や対応に取り組む余裕がなかった。
また同時に、原則として防護をとりあげた論文の中で、放射線 防護だけを取り
上げた論文は全く見あたらず、事故の時にどうすればいいかを人々に知らせる記
事は、原則として限られた部数しか印刷されなかっ た。」(5ページ)

 これらの記述をとおして、イリーンは旧ソビエトでは事故時の放射線防護につ
いて適切な知識をもっている人はほとんどいなかったことをほのめかし てい
る。また、こうした事情があったために、チェルノブイリ事故に際しての対応も
うまくいかなかったという主旨の弁明と見なすことができる。たと えば、安定
ヨウ素剤が使えなかったことへの弁明らしきものも見られる。しかし、ヨウ化カ
リウム製剤は工場で大量生産されていた。そして

「子供の使用時の注意も含めた薬の説明書を添えて緊急時につかえるように適当
な条件で貯蔵された。チェルノブイリ事故が示したように、無責任な態 度とこ
の薬を住民に迅速に供給するシステムの欠如により大きな問題が巻き起こった。
住民防御の権威者も医療スタッフもこの錠剤の説明書のストック があることを
全く知らなかったのだ。」(68ページ)

 安定ヨウ素剤を使わない決定にイリーンが関わっていたことは、ここでは触れ
られていない。こうした叙述と、「殆どの研究分野の科学者の知識とそ の成果
は国際的な基準に一致していて、ソビエトの科学者は海外の科学者に決して遅れ
てはいなかった」(67ページ)という叙述との間には矛盾があ るが、これはイ
リーンが自分が指導して立案された旧ソ連の事故対策方針は適切だったという主
張と、うまくいかなかったのは旧ソ連内でこの分野が立 ち後れていただめだと
いう主張の双方を成り立たせようとするところから来ている。

 イリーンは自らが、国際放射線防護委員会(ICRP)や国連放射線影響委員会
(UNSCEAR)(とりわけ後者)の他国の関係者たちとの交流を 通して多くを得た
ことを誇る叙述も行っている。フランスのビエール・ペレリン、アメリカのフ
レッド・メットラーらとの交流がチェルノブイリ事故対 策を立案する際に大い
に力になったことが示唆されている(18〜24ページ)。だが、他方、これも容易
でなかったことが述べられている。イリーン 自身、KGBにより5年間、国際会議
への参加を禁止されていたとも述べている(19ページ)。

 イリーンは叙述の背後に、自らが外国の専門家と組んで世界的な防護基準に
のっとった対策を示したにもかかわらず、旧ソ連内の科学者たちにそれが 受け
入れられなかったことは残念だったという主張を込めている。

 「もしチェルノブイリの事故の前にロシアの科学者の中にこういう基本的な仕
事について少しでも知っている人がいれば状況はかわっていたかも知れ ない。
すなわち世界の科学者たちによって何十年かけてつくられてきたこのような放射
線防護の哲学についてや、国連放射線影響委員会によって詳細に わたって示さ
れている疫学的データの研究と解釈の方法論について何が最も重要であるのかを
知っている科学者がいたとしたら、チェルノブイリ事故の 結果として起こった
医学的な出来事に対するバイアスのかかった評価は存在しなかったであろう。そ
の誤ちが、世間の人々の考えに悪影響を及ぼすこと になってしまった。」(22
ページ)

 日本の福島原発事故の場合は、当初からICRPなど国際的な放射線健康影響・防
護研究者組織と組んで対応がなされた。旧ソ連と比べると、日本で は世界の原
発推進勢力が形作ってきた国際的な放射線専門家集団と連携関係にある度合いが
強かったと言えそうだ。ウクライナやベラルーシにはそうし た国際的専門家集
団とは異なる立場の科学者がおり、イリーンのような旧ソ連の指導的科学者と対
立しつつ住民の健康のために早くから立ち上がった が、日本ではその動きがだ
いぶ弱い。政府と連携した専門家集団に押さえ付けられているかっこうだ。

 旧ソ連内で自分の立場が通りにくいことを察知したイリーンは、チェルノブイ
リ事故後、ソ連放射線防護委員会のリーダーとして、外国の専門家と話 し合っ
て、適切な防護基準について立案することを思い立った。そして、1989年5月の
国連放射線影響委員会にこれを議題として取り上げるよう提 案した。その討議
の結果、国連放射線影響委員会は5月12日「放射性物質による長期汚染」と題す
る文書を「記者発表」した。

 「チェルノブイリ核事故に対する放射線防護に関する旧ソ連邦の決定は、現在
の国際的な放射線防護政策と一致していると考えられる。これは、 IAEAに
よって開催された放射線防護の非公式の会議で認められた。(中略)旧ソ連邦の
国家委員会の議長であり、国連放射線委員会のソ連代表であ るイリーンが、
チェルノブイリ事故後の汚染状況と現在までにとられた対応策を参加科学者に報
告した。また、世界的に採用されている改革と一致した 対応策が行われた最初
の数年後に残っていると思われる問題について、特別な注意が払われた。しかし
ながら、この様な汚染を引き起こした核事故の健 康への長期影響については前
例がない。ソ連邦の放射能汚染地区ら(ママ)居住する人々の生涯最大被曝線量
を350ミリシーベルトとすることは正し い方法と考えられ、参加者の同意を得ら
れた。許容線量はソ連邦政府によって決定されることが同意された。なぜなら
ICRP勧告に従い、許容線量が その地区の状況や事故の規模に基づくから
だ。」(23〜24ページ)

 ここで示されている「生涯最大被曝線量350ミリシーベルト」はイリーンが提
起し、これによって住民の移住をできるだけ抑えるための政策として 採用され
かかったものだ。しかし、その後、多くの反論によってイリーン提起の基準は退
けられ、もっと厳しい基準が設けられることになった。第2部 以降のこの書物の
叙述の主要な論脈は、その経緯を述べようとするものだ。
 このことから分かることは、イリーンは自らが関わって来た国連放射線影響委
員会(UNSCEAR)、そしてそれと密接な関係にある ICRP,IAEA
のお墨付きを得て、放射線防護のための移住をできるだけ少なくする対策を主張
したということだ。だが、それも科学的根拠とはあ まり関わりがないものであ
り、引用した国連放射線影響委員会の「記者発表」も「国際基準に一致しないけ
れども許容する」という主旨だった。

 社会的コストを考えれば移住は減らした方がよいと考えたイリーンは、その立
場をUNSCEAR、ICRPで通して、それを支えに何とか正当化し ようと
した。他方、原発事故の影響をできるだけ小さく抑えたいという動機を強くもつ
国際専門家集団もイリーンのその立場を後押ししたのだろう。

 以上、第1部の要点を述べてきたが、このように、本書では科学的な評価より
も政治的な駆け引きについての叙述が大半をなしている。第2部「チェ ルノブイ
リでの日々」では、イリーンが1986年4月のチェルノブイリ事故の直後に、
住民避難に強く反対した経緯について詳しく述べている。「私 は、人々の基本
的な生活の活動を妨げる方法にはどれも反対した。必要なのは、都市の放射線の
データについての情報を毎日発行することや、専門家が 一般状態を都市住民に
説明する必要も含んだ、よく考え抜かれた高度に専門的な説明であると述べた」
(124ページ)大都市で避難を行えばたいへん なコストを産む。一方、何とか線
量は限度に達していない。放射性ヨウ素もそうだ、と。

 この決定は後に厳しく批判さ れた。90年2月、ウクライナ最高会議でイ
リーンの論敵シェルパックは、86年5月に「キエフの住民の避難をする(子供
を含めて)理由がないとする意見を 支持した専門家たちの責任を問うことを要
求」(188ページ)した。イリーンらソ連の権威者たちはキエフから出て行けと
の運動もあった。イリーン はウクライナの疑似「専門家」達と戦ったと述べて
いる(137ページ)。89 年5月の声明でUNSCEARは、ソ連は独自の政治
的な判断を許容されるということを言っているにすぎないのだが、イリーンは生
涯最大被曝線量 350mSVは「正しい方法」であることを強く主張した。
 この経緯のイリーン自身による叙述を読めば、イリーンらがこの基準を政治的
に押し通したことが明白である。イ リーン自身は国の代表として国際機関に出
ている自分とその仲間こそが正統な専門家であり、他の専門家のいうことは取る
に足りないという理解で、唯一の「科 学的真理」宣布者としての権威を行使す
るとの考えを示している。

 以上のようなイリーンの叙述は、七沢潔『原発事故を問う―チェ ルノブイリか
らもんじゅへ』(岩波新書、1996年を参照すると一段と見通しがよくなる。七沢
著の第1章、第4章にイリーンの名が出てくる。イリーンはキ エフの住民、とり
わけ子どもたちを避難させない政策を 支える科学者の主軸だったことが分かる。
 また、86年5月3日の段階で住民に安定ヨウ素剤を渡さない決定もイリーンの判
断に基づくもののようだ(七沢『原発事故を問う』(37ペー ジ〜)。オルリク
副首相(ウクライナ共和国)はこの日、こう述べたという。「放射線医学の専門
家で、ソ連医学アカデミー副総裁のイリイン博士は、 今住民に渡さない方がよ
いといっています。彼は10日分しかないから、今、使ってしまうと、この先もっ
と深刻な事態になった時に使えなくなる―と いう主張です。 ヨード剤の配給は
見合わせましょう。」(57ページ)。

 この時イリーンは事故原子炉からさらに放射性物質が大幅に放出されることを
怖れていた。5月7日にイリーンと放射線測量の専門家、ユーリー・イ ズラエリ
国家水文気象委員会議長がモスクワから到着。2人はキエフでの「汚染状況は、
子どもを含めた住民の健康に危険をもたらすものではない」、 「現在、食品に
ふくまれている放射能の値は、住民に危険をもらすものではない」と主張。2人
は12時間かけて3通の勧告書を作成。例年どおりの キャンプ以外の子供の避難は
不要だとした。また、「情報の一元化」などを指示しもした。

 ウクライナ共和国最高会議議長のシェフチェンコ女史は これに反対、疎開を
主張した。結局、5月9日、夏休みキャンプを早めて実行するという形で実質的な
疎開案を採用した。25日までに52万6千人の母子・妊 婦が疎開 した。(『原発
事故を問う』67-71ページ)
 ウクライナ政府のこの決定に対し「ソ連政府は露骨に不快感を表した」。ウク
ライナ側の対応が住民にパニックを起こしたと批判した。そして、5月 14日被曝
許容線量を引き上げるという「きわめつけの通達がモスクワのソ連保健省…から
送られてきた」。「ソ連保健省は…次のような新しい基準を 採用した。14歳以下
の子どもと妊産婦の場合、年間10レム (100mSv)、一般人の場合は50レム
(500mSv)まで許される。それ以下の場合、住民の疎開などの特別な措置はとら
ない」。イリーンはさすがに これには反対して後に10レムまで引き下げられた。

 それまでのソ連では年間5mSv(0.5レム)だったから、 20倍に引き上げた。そ
の頃のキエフの線量は毎時0.5ミリレム(5μSv)というからかなり高い。(そう
いえば日本も1mSvを20mSvにと 20倍あげた)。七沢氏は次のように概括している。
 「住民保護の対策を決める際の客観的な目安となるはずの被曝線量が、国の都
合で勝手に変えられる。その動機としては、まずむやみに人の移動を認 めて、
パニックに導かないという政治上の大方針があった。そして 同時に、被曝線許
容量を引き上げることで人の移動をさせない背景には、経済的要因もからんでい
た」 (73ページ)。七沢はこう述べて、ICRPの「最適化」の論を説明するイ
リーンの言葉を引く。

「わが国にかぎらず、日本でもイギリスでも、アメリカでも、非常事態が起こっ
たら、普段のレベルよりも高い基準が導入されるようになっています。 これは
仕方ないことだと思います。たとえば、キエフ市民三百万人が本当に疎開すると
なったらどれだけの社会的費用がかかることでしょう。もちろん 被曝による健
康上のリスクは生じますが、それを、この社会的費用とを秤にかけて考えなけれ
ばならないのです」(73〜74ページ)

 結局、モスクワとウクライナは妥協した。5月15日に疎開第1陣が出発した。イ
リーン著『チェルノブイリ:虚偽と真実』の第2部と七沢の叙述を 見ると、放射
線健康影響の専門家としてキエフに派遣され、ソ連側の立場を押し通そうとした
のがイリーンだということがよく分かる。当時、事故によ る放射線の健康被害
がどれほどに及ぶか、イリーンの側に確かなデータはほとんどなかったはずなの
だが。

(以上、その(2)転載終わり、その(3)へつづく)

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