[CML 020328] <テント日誌 10/6(土)――経産省前テントひろば 391日目>

Kimura-m kimura-m at ba2.so-net.ne.jp
2012年 10月 9日 (火) 06:46:29 JST


<テント日誌 10/6(土)――経産省前テントひろば 391日目>
    <福島を生>き、<ふる里を生>きる柏崎刈羽の闘い
       〜柏崎刈羽現地交流バスツアーに参加して〜

10月6日(土) 曇り
 午前8時新宿西口前集合。東電の「世界最大の原子力発電所」のある柏崎刈羽現地交流会バスツアーへの参加である。今年3月、6号機が定期検査で停止し、東電管内の全原発は停止し、稼働原発ゼロの状態が続いている。だが6月の株主総会に提出された東電再建計画には来年夏までの再稼働が含まれている。
 福島原発の大事故があり、放射能災害が今なお進行中の現実として多くの人々が苦しみ続けている中で、柏崎刈羽原発は首都圏の私たちにとっても「そこにある危機」として、私たちの責任を問い続けている。なんとしてでもこの目で見、この耳で聞いて確かめておかねば・・・という思いに駆られてツアーに参加した。
 ツアーの案内人は地元出身で、長年ふる里の仲間とともに柏崎刈羽原発反対運動に加わってこられた菅井益郎さん。学者というより活動家そのものであった。
 刈羽村では村会議員をされている近藤さんが合流してずっと案内して下さった。彼は東京の大学に在学中から反対運動に加わり、大学をやめてふる里に帰り、魚を売り歩きながら運動をすすめ、村会議員になられたそうである。今もその形は変わっていないという。事実、初めて出会ったとき、彼は村会議員というより魚屋さんそのものであった。 
 原発マネーを湯水のように注ぎ込んで造られている施設を見、静かな日本海に面して立ち並ぶ原発の排気塔や防潮堤を見、鉄条網のフェンスを厳重に張り巡らした原発の敷地沿いの道を走る。それは米軍基地の敷地沿いを思い出させる。このあたりは柏崎刈羽砂丘と呼ばれ、砂丘の上に建つ原発は、当初からとうふの上に建つ原発として批判されてきたそうだ。柏崎刈羽原発は1〜4号機は柏崎市、5〜7号機は刈羽村と柏崎市にまたがって(2:1の割合か)立てられている。
 この時期日本海は静かで穏やかであったが、冬の時期には荒れ、4〜7mの高波となることも珍しくはないそうだ。だが東電の想定する津波の高さは4mそこそこだという。
 夜の交流会は圧巻だった。近藤さんの他に長年の反対運動の盟友、柏崎市の市会議員をされている矢部さん、高橋さんが加わり、さらに彼らの高校の恩師であり、運動の顧問とでもいうような80歳の佐藤さんが加わって、お話をされた。
 本当に長い闘いの歴史があった。烈しい闘いのようであった。と同時に集落ごとの住民組織が作られ、住民に根ざした闘いであったという。そして闘いはずっと途絶えることなく継続し、今も市議会議員、村会議員を維持するだけの力をもって続けられている。
 そういう闘いの上に3・11後、<福島>を間近に見、見据え、内面化しながら運動は新たな展開へと踏み出しているように思えた。お話を聞いていて、柏崎刈羽の人たちはいわば<福島を生きる>ということを意識されているのだと実感した。<福島>は<ふる里>に重なり、<福島を生きる>という意識と<ふる里を生きる>という意識は繋がっているのだと。それは切実なもののように感じられた。
 実際、人口9万人の柏崎市に福島から1300人程が避難してきているそうだ。そして避難している人たちの話を聞いて胸に迫るものがあると目を潤ませながら話される。
 「ふる里は原発を許さない!」 それはもう選択の余地のない揺るぎなき確信、それ以外ではありえないという生き方、命そのものというように思われた。
 宿で美味しい魚と美味しい地酒をいただき、翌日には40億円をかけたというアミューズメント施設を見原発PR館を見学した。そこには福島第2原発の復旧が9割完了したというポスターも掲示されていた。東電は柏崎刈羽原発を再稼働し、さらには福島第2の再稼働も目論んでいるのだということをさりげなくアピールしているのだ。
 柏崎刈羽原発の再稼働を許さず、廃止へと推し進めていくこと、そのために柏崎刈羽や隣接地域の人たちと繋がりながら、私たちの最大限のことをなすこと、それは首都圏にあって<福島を生きる>ことを意識しようとする私たちの責務のように思える。 
                ( Y・T )




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