[CML 020890] ユダヤ人迫害、向き合う仏 収容所跡を次々記念館に/朝日新聞11月7日
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2012年 11月 8日 (木) 12:47:38 JST
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【レミル〈仏南部〉=稲田信司】第2次大戦中のユダヤ人迫害の記憶を伝える記念館が9月、次々とフランスにできた。
当時の仏政府は主体的にユダヤ人らを捕らえ、収容していた――。
祖国の「負の遺産」と正面から向き合うオランド政権の意向がにじむ。
強い日差しが照りつける南仏プロバンス地方のレミル。
9月10日、オランド大統領の代理としてエロー首相が、歴史記念館に衣替えした「カン・デ・ミル(レミル収容所)」の開館を祝う演説をした。
「レミル収容所の歴史はフランスの歴史です。
社会の一部に根づいていた反ユダヤ主義は、国家の主義になってしまったのです」
エロー氏の演説は、ナチス・ドイツに加担したビシー政権の責任を初めて国家として認めたシラク元大統領の演説(1995年)を踏襲しつつ、さらに一歩進める内容だった。
屋根瓦やれんがを作るレミル工場が、ユダヤ人を含む外国人の収容所として使われ始めたのは、フランスがドイツに宣戦布告した39年9月。
フランスがドイツに敗れ休戦協定を結び、ドイツの手先となるビシー政権が発足する約10カ月前だった。
首相府のドゥゴドマール顧問はエロー演説の意義について、「ドイツ占領前から、フランスは自国の脅威とみなす外国人の収容を始めていた事実を認め、非難したことは画期的だ」と説明。
「ナチスが犯したユダヤ人排斥を非難するだけではなく、フランスも加担していた事実を深く反省したものだ」と強調する。
エロー氏は「レミル収容所の歴史は、欧州の歴史でもある。平和と民主主義という基本的価値を再生しなければならない」とも訴えた。
式典には駐仏ドイツ大使も出席。「和解を深める行為に心より感謝する」という独大統領の謝意を伝えた書簡も届けられた。
■日々の偏見にも警鐘
レミル収容所記念館は開館以来、ドイツからの見学者が絶えない。
ドイツ西部ケルン近郊の高校生86人は10月初め、修学旅行の最終目的地に選んだ。
戦中と同じく、砂ぼこりが舞う、日が差さない部屋を歩き、壁に残るハートマーク、「自由」や「平和」の文字に見入っていた。
案内役を務めたフランス人元教師は「フランス人が善人でドイツ人が悪人というような線引きはできません。一人の市民として迫害にどう抵抗するのか、考えてください」。
聴き入っていたアンドゥエナ・ドゥケライさん(16)は「ドイツ人だけの過ちではなかったと知り、少しだけ、楽になりました」と応じた。
レミル収容所は、ビシー政権下にあった仏南部の収容所のなかで、当時の姿を完全な形でとどめる唯一のものだ。
83年、ユダヤ人の芸術家が描いた壁画が残る収容所の建物の解体計画が持ち上がって以来、保存運動が続けられてきた。
その先頭に立ったユダヤ系の社会学者で、初代館長に就いたアラン・シュラキさん(62)は
「二度と過ちを繰り返さないと口で言うだけでは不十分。繰り返さないために何をすればいいか。収容所はそれを教える場なのです」と語る。
記念館の目玉は、「熟慮の段階」と名付けられた展示スペースだ。
ユダヤ人迫害などの史実を学び記憶するだけでなく、日々の偏見や差別が集団的暴力へと発展しかねない危険性を意識するよう促している。
シュラキさんの父で、レジスタンスの闘士だったシドニーさん(98)は
「今の極右の主張はまるで、ナチスの亡霊。特定の人々を標的にした迫害の危機は今も消えていません。生きた歴史教育こそが、過ちを阻む手段です」と指摘した。
パリ郊外のドランシーにも9月21日、ユダヤ人迫害の記憶を刻む記念館ができた。
70年前の夏、レミル収容所から約2千人がドランシー経由でアウシュビッツ強制収容所に送られ、殺害されたという。
■数百人の悲鳴、今も 収容されたエルベール・トローブさん(88)語る
私はオーストリア・ウィーンのユダヤ人家庭に生まれた。
「ユダヤ人狩り」で歯科技師だった父が38年に逮捕された。
母は私財を投げ出し、父を救出。私と家族の逃亡生活が始まり、母は仏南部の難民収容施設で病死した。
母の葬儀の日、外出許可を得た私は、マルセイユに逃げ隠れた。
だが、1年半後、ビシー政権下の「ユダヤ人狩り」に遭い、レミル収容所に連れて行かれた。
人権擁護の国がなぜ、難民を捕まえるのか。フランスに対する憎しみがわいた。
レミル収容所に到着すると、数百人が庭に集められていた。
息が詰まるほどの人混みと失意の表情。
女性や子どもの悲鳴が今も耳を離れない。
部屋の窓は閉め切られて真っ暗で、とにかく暑苦しかった。
私は当時、まだ18歳。
頭にあったのは、脱走することだけだった。
知人の米国人医師の手助けで脱走を企てたものの失敗。
収容されてから2週間後、パリ近郊のドランシー収容所に移送されることになった。
後に知ったのだが、ドランシーはアウシュビッツへの経由地だった。
そこへ向かう列車の車両には50~60人が詰め込まれた。
ドアには「馬8頭」の文字。人間ではなく商品を運ぶための車両だったのだ。
「頭が通れば、体も通るはずだよ」。同乗した人たちの力を借り、小さな窓から外に出た。
列車がカーブで速度を落としたところで電信柱の間隔を確かめ、飛び降りた。
背後で銃声が聞こえた気がした。
その後、フランスから離れたい一心で、ルクセンブルク人だと偽って仏外国人部隊に入り、アルジェリア戦線に赴いた。
フランスに戻ったのは44年。パリ解放を祝う軍事パレードに参加するためだった。
ビシー政権の対独協力姿勢は断罪されるべきだ。
ただ、大多数のフランス人は家族を守るために、やむを得ず協力したのだろう。
私は彼らに向かって石を投げようとは思わない。
◇
〈ビシー政権〉 1940年6月、ドイツ軍の侵攻でフランスは敗北し、休戦を受け入れた。
パリを含む北部はドイツの占領下に置かれ、ペタン元帥率いる仏政府は南部のビシーに首都を移し、対独協力政権をつくった。
同年10月には「反ユダヤ法」を制定した。44年、亡命していたドゴール将軍が帰還し、臨時政府の成立に伴って崩壊した。
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