[CML 015337] IK原発重要情報(81)

河内謙策 kenkawauchi at nifty.com
2012年 2月 29日 (水) 17:42:06 JST


      IK原発重要情報(81) [2012年2月29日]

  私たちは、原発についての情報と脱原発の国民投票をめざす市民運動についての情報を発信しています。よろしく、お願いいたします。(この情報を重複して受け取られた方は、失礼をお許しください。転送・転載は自由です。)

弁護士 市川守弘、弁護士  河内謙策

連絡先  [1月1日より新住所です。御注意ください。]
〒170-0005 東京都豊島区南大塚3丁目4番4-203号 河内謙策法律事務所(電話03-6914-3844、FAX03-6914-3884)
Email: kenkawauchi at nifty.com

脱原発の国民投票をめざす会
http://2010ken.la.coocan.jp/datsu-genpatsu/index.html

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          裁判官会同(続続)

  私たちは、「IK原発重要情報(73)」及び「IK原発重要情報(79)」において、最高裁判所が今年1月末に、原発訴訟の審理の在り方について「研究する」裁判官会同を開催したことを、脱原発を願う人々が重視するよう訴えてきました。
 しかし、いくつかのMLで、私たちの訴えにつき批判がなされています。
 そこで、私たちの考えにつき、以下のとおり、説明を補充させていただきたいと思います。私たちに対する批判が伊方原発訴訟最高裁判決の理解の仕方をめぐってのものが多いので、以下でも、それを中心に論じることを許していただきたいと思います。

 私たちは、最高裁判所(!)が、原発訴訟において、原発が危険であること、あるいは原発に関わる行政処分の違法性についての立証責任を住民側に負わせていることは大問題であると主張しています。
 しかし、私たち(!)が、原発訴訟において立証責任を住民側に負わせるべきだと主張しているかのように理解された方がいましたが、それは完全な誤解です。私たちの主張を冷静に読んでいただきたいと思います。

 私たちが、「IK原発重要情報(79)」で、伊方原発訴訟最高裁判決は立証責任を住民に負わせたものだ、と論じたことに対し、そうでない、国に立証責任を負わせているのだ、と批判された方もいました。

 その方たちが、何を根拠に言われているのか、説明が十分でないのですが、どうも最高裁判決の中の一文、すなわち「被告行政庁の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程等、被告行政庁の判断に不合理の点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることが事実上推認されるものというべきである」ということに注目しておられるようです。
 この一文の読み方については、私たちは「IK原発重要情報(79)」で論じていますが、それと重複しない形で、この文章の読み方を言うと次のようになります。
 最高裁の判決が言っているのは、行政庁の判断が合理的であること(伊方原発訴訟は、行政訴訟です。民事訴訟で言えば、原発が安全であること)を裏付けるすべての事実を行政庁が立証しなさい、と言っているわけではないのです。最高裁判決が言っているのは「前記の具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程等」を対象にしているに過ぎないのです。
 それゆえ、「まず」(!)行政庁が行うのは、行政庁の判断が合理的であること全部に及ぶ必要がないので、行政庁の立証が成功すれば、次に(!)、どうするのか、という問題がでてくるのです。ここで注目すべきは、最高裁の判決が「右判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来、原告[住民]が負うべきものと解される」という文章を全面的に否定していないことです(全面的に否定するのであれば「まず」という言葉が出るはずがありません)。つまり、行政庁が「前記の具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程等」の合理性の立証に成功すれば、次に(!)住民側が、行政庁の判断が非合理であることの全面的な立証責任を負い、それに成功しなければ、住民側敗訴になるのです。それゆえ、伊方原発訴訟最高裁判決は、全体としては、住民側に立証責任を課したものと評価するのが妥当なのです。
 たしかに、私たちが上記で言う「次に」の問題につき最高裁判決が明確に論及していないので、最高裁判決の論旨が分かりにくい点はあると思いますが、文章全体から読むとそうならざるを得ないのです。
 では、最高裁判決に立証責任の転換がないのかといえば、一部に立証責任の転換があると言ってもいいでしょう。しかし、それは一部であること、しかもそれは立証責任を課される行政庁にとって容易で、一部の立証で行政庁が敗訴になることはほとんど予定されていないこと、に注意しなければならないと思います(その点から言えば、一部に立証責任の転換がなされている、というのがよいのか、単に立証方法の変更があったにすぎないとみるべきか、という問題も残ります)。くれぐれも、伊方原発訴訟最高裁判決で立証責任が転換された、国に立証責任があるとのん気に言うべきではないのです。

 以上の私たちの判決文の読み方は、私たちの独善ではありません。

 最高裁の判決の真意が問題になるときに、判決文を書いた調査官が何を考えていたかが問題になります(判決文は、ほとんどの場合、最高裁の調査官が起案し、それを裁判官が回覧する形で判決文を作成します)。
 最高裁の調査官は、『最高裁判所判例解説 民事編 平成4年度』(法曹会)426頁において、下級審の裁判例は「[裁量処分の違法につき住民に主張立証責任があるという]従来からの一般的見解に反するものではない」という理解に立って、「本判決は、右のような下級審裁判例の見解と基本的には同様の見地に立」つ、すなわち住民側に立証責任があると明言しています(この論旨は、やや強引で、なぜこのような強引な論旨を展開するのかという問題もありますが)。私たちの主張が裏付けられています。

 また、司法界の一部で、「伊方原発訴訟最高裁判決が本当に言いたかったことが書いてある」と言われている判決があります。女川1号炉、2号炉建設運転差し止め請求訴訟の1審判決です(平成6年1月31日に仙台地方裁判所が言い渡した判決、判例時報1482号)。判決は、こう言っています。
 「本件原子力発電所の安全性については、被告[電力会社]の側において、まず、その安全性に欠ける点のないことについて、相当の根拠を示し、かつ、非公開の資料を含む必要な資料を提出した上で立証する必要があり、被告が右立証を尽くさない場合には、本件原子力発電所に安全性に欠ける点があることが事実上推定(推認)されるものというべきである。そして、被告において、本件原子力発電所の安全性について必要とされる立証を尽くした場合には、安全性に欠ける点があることについての右の事実上の推定は破れ、原告ら[住民]において、安全性に欠ける点があることについて更なる立証を行わなければならないものと解すべきである。」(『判例時報』1482号23頁)
 そして、ほとんどの裁判所で、実務は、この判決のとおりに行われてきました。

 最近の、平成19年10月26日に言い渡された、浜岡原発訴訟についての静岡地方裁判所の判決も同様の論理です。
(判決文は、なぜか手に入らないのですが、以下のサイトを見てください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E5%B2%A1%E5%8E%9F%E7%99%BA%E8%A8%B4%E8%A8%9F

 伊方原発訴訟最高裁判決が立証責任を国に認めたのだとすれば、それは住民にとって有利なことであり、逆に国にとって不利なことですから、
伊方判決の論理に基づき住民の敗訴が相次いできたことの説明がつかないのではありませんか。また、あの最高裁が裁判官会同を開いてまで、伊方判決護持を意思統一するはずがないではありませんか。

 日本の民衆運動の一部には「出る杭(くい)を打つ」という悪習があります。新しいことを言った人の「弱点」をとりあげて、新しいことを言った人を攻め、新しいことを言った人が「論争」に疲れ果てて沈黙するころには、新しいことを言った人の提起した問題点が忘れられて、「旧態依然」の現実が繰り返されるという悪習です。
 私たちは、裁判官会同に見られる最高裁の下級裁判官に対する締め付けが始まっていることに警鐘を乱打したつもりですが、この肝心の点につき論議が深まっていかないことは、誠に残念です。私たちの予想では、今年の夏までに、いくつかの裁判所で伊方判決の論理の基づき、住民敗訴の判決が出るかも(!)と考えています。住民敗訴の判決が出てから、裁判所の問題点を声高に主張しても遅いのではないでしょうか。

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                         以上






 

 

 
 



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