[CML 015269] Re: 池田香代子さんの「マドモアゼル」論について

池田 香代子 0146945001 at jcom.home.ne.jp
2012年 2月 27日 (月) 13:40:35 JST


池田です。

「私の「『マドモワゼル』青空」論は私としておそらくそうだろうと思う昭和30年代当時の少年と青年の感性を感性のままに表現したものですから、いわれるとおりマッチョそのものです。しかし、それがマッチョにすぎないものであるとしてもそうした少年の感性があったことも事実なのです。」(東本さん)

はい、わかってます。
この程度の「マッチョ」を糾弾する意図はなく、ただちょっとからかいたかっただけです。

マドモワゼルという言葉へのそこはかとない憧憬からわたしが連想するのは、芦田淳の少女像です。
遠くを見るような、あるいは正面に向けていても焦点を合わせないまなざしの、小首をかしげた面差しにきゃしゃな手指を添えた少女。
しかしあれらの少女も、芦田が描いていた当時、すでに絶滅危惧種だったのでは、と考えています。
原典にあたる手間を省くという横着をお許し願いたいのですが、柳田国男のエッセイに、自身の幼い子どもたちを観察したものがあります。
息子が娘を「電車さん」と呼ぶ、というのです。
それは、柳田の娘がぱちっと目を見開き、まっすぐ前を見るからで、息子はそれが路面電車のライトのようだと感じたからだろう、と柳田は子どもの心を推測しています。
そういう女の子はまだ珍しかったからこそ、幼心に印象を与え、あだ名にもなりえたわけですが、しっかりと前を見据えて夢ではなく現実を見ようとする、芦田淳的ではない少女は、明治ヒトケタ生まれの上流の人(柳田)の子どもの世代にはすでに出現していたというのは興味深い。

それから、「昭和30年代当時の少年と青年」という東本さんの表現も興味深かった。
たしかにあの時代には、「昭和」と年号を使わないと曰く言い難いなにかがあると、わたしも感じます。
とくに1955年ではなく「昭和30年」と言わないと表現できない、猥雑で、痛切で、貧乏臭く、それでいて懐かしいなにかが。
(「1955年」だと一気に政治的なニュアンスになります)
ま、それでいいじゃない、語感はしかたないもの、といういいかげんなところで失礼します






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