[CML 015104] Re: 前田先生(最後に)Re: 「小さなアイヒマンにならないために」

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2012年 2月 20日 (月) 05:44:58 JST


前田 朗です。
2月20日


増田さん

すみません。私が書いたことが、まったく違う意味で受け止められています。

2つのMLに同じ文章を投稿しているために、混乱を招いて申し訳ありません。


1)映画の中身

「私は映画について論評していません・・・映画の中身はどうでもいいことです」
と繰り返し書いた部分は、別のMLの人宛ての文章です。

その人物は「映画について論評するのなら映画を見てからにしろ」と、ご自分で
は、まっとうなことを言っているつもりの人です。しかし、私は映画について論
評しているのではなく、根津さんや増田さんや土肥さんの現実の行動について論
評しています。

そのことを繰り返し明言しているにもかかわらず、この人物は私に対して「映画
や表現に対して失礼だ」と罵声を浴びせてきます。「映画について論評せずに、
現実の土肥さんの行動を批判するのは、映画に対して失礼だ」という異常な主張
です。相手にしても仕方ないのですが、いちおう「映画について論評しません。
ここでの私の議論にとっては、映画の中身はどうでもいいことです」と重ねて予
防線を張っておきました。

しかし、この予防線は、増田さんにしてみれば「増田さんが映画の内容を批判し
ているのに、前田は映画の中身はどうでもいい」と言っている、と読めることに
なります。

これは私のミスです。2つのMLに投稿したためです。増田さんに叱られたので、
投稿ではなく、投降することにしましょう(苦笑)。

映画について論評するのであれば、映画の中身が重要です。「小さなアイヒマン
を、抑圧と闘っている人の代表であるかのごとく描いた映画」の問題性というこ
とになります。ただ、私はまだ見ていないので、伝聞情報に基づいて判断するし
かできません。


2)<「小さなアイヒマンを非難できない」と迷えるアイヒマン候補>

2つのMLに投稿しているのは、私以外にも両方のMLに参加している人がいる
ことがはっきりしているからです。1人は、初めのきっかけをつくった東本さん
です。ほかの問題ではしばしば、私は東本さんと全く意見を異にしていますが、
この件では東本さんに賛成したうえで、私なりの議論をしようと思いました。

もう1人は岡林さんです。増田さんの問題提起を受けて、私の言葉でいえば、岡
林さんは<「小さなアイヒマンを非難できない」と迷えるアイヒマン候補>です。
たぶん、私が「不安」と書いたのを、岡林さんは論点をもっと明確にするために
「非難できない、非難するつもりになれない、自分もそうなるかもしれない」と
書いたのでしょう。これは重要な問題提起です。増田さんにとってではなく、
「アイヒマンになりたくないけど、ならないと断言する自信がない。アイヒマン
になるかどうかの瀬戸際に追い込まれる前に、なんとか問題を押しとどめたい」
と考えている多くの人にとって重要なのです。

「不安」を抱えたままの私にとっても、岡林さんがあえてこう書いたことが、考
えるきっかけになりました。

市民的不服従の問題を、今日もジュネーヴで、スペインやコスタリカの法律家と
議論しました。平和への権利国連宣言草案作成のためのNGO協議の場で、良心
的兵役拒否の議論がメインでしたが、兵士にとっては「上官の違法命令の拒否」、
徴兵される立場なら良心的兵役拒否ですが、一般市民にとっては市民的不服従で
す。私は良心的納税拒否の話を出しました。

私がずっと考えているのは、先進的に闘っている人ではなく、「闘いたいけど闘
える自信がない市民がいかにすれば市民的不服従の闘いに参加できるのか」、で
す。もちろん、根津さんも増田さんも最初から立派に闘っていた闘志というわけ
ではないでしょうから、みな、同じ道を自分で歩んでいくしかないのかもしれま
せんが。

10.23通達との闘い、橋本との闘いの現場で、勇気ある一部の人ではなく、
みんなが闘えるための思想と論理がないことが問題だと思うからです。それがな
いから、「偽物でもいいからみんなで持ち上げよう」という映画に、みなほとん
ど何も考えずに飛びつくのです。飛びつかない私に対して「失礼だ」と罵声を浴
びせるのです。


3)線を引き、他者を排除しているのは誰か

もう一つ、繰り返しておかなくてはなりません。だれが他者を排除しているのか、
です。もちろん、石原や橋本が排除の思想を押し付けているのですが、これに抵
抗せず、他者を抑圧し、排除する人たちはたくさんいるのです。東京の教育委員
会だけではありません。部下に職務命令を出す<「小さなアイヒマン」校長>も
同じことです。

多くの人は自ら「小さなアイヒマン」になるつもりはありません。しかし、岡林
さんが指摘しているように、ならないと断言できずにいる人が多いのです。なら
ないと断言できない人にとっては、アイヒマンを非難することよりも、「小さな
アイヒマンを、<それでも上に向かって少しは抵抗したのだから>と言って高く
評価すること」、のほうが楽なのです。

ここで悪質な役割を果たすのが、運動の中に常に登場する「偽統一戦線論」です。
「権力と闘っているのだから、仲間である。同じ方向で闘っているのだから、非
難するべきではない」という、いつもの屁理屈です。

増田さんに立ちはだかってきたのは、この屁理屈ではないでしょうか。それでも
増田さんが批判を続ければ、次に生じることは明らかです。「統一戦線が必要な
のに、少しの違いを許さずに批判するのは狭量である」という議論、「土肥さん
も闘っているのだ」という話です。

確かに土肥さんも闘っているのであり、私もそのことを認め、評価もしているの
ですが、本当の評価基準は違うだろうというのが、ここでの問題です。「小さな
アイヒマン」にも自由と権利はあります。でも、「小さなアイヒマン」によって
人生を壊された人の自由と権利はどうなるのでしょう。

たぶん、「日本市民社会」の現状は、ここまでです。他者を排除した人も一緒に
仲良しでやっていく疑似市民社会は、逆に、<「小さなアイヒマンを許さない」
と発言する人間>を排除します。はっきり言えば、増田さんを排除して、土肥さ
んと一緒にやっていくほうが、みんな気持ちが楽なのです。闘っているふりをす
ればいいのですから。

だから、私の議論は「非国民」になります。『非国民がやってきた!』(耕文社)
、『平和力養成講座』(現代人文社)、『文明と野蛮を超えて』(かもがわ出版)
の3冊に、本物の「非国民」に登場していただきました。「非国民入門セミナー」
にも。

私が考えている「非国民」には2つの次元があります。1つは、「権力から排除
され弾圧される非国民」です。もう1つは、権力ではなく、「市民から排除され
弾圧される非国民」です。両方が重なると本当の「非国民」で、生存権すら保障
されません。

増田さんは、両方の領域に足を突っ込んだままではありませんか?

ちなみに、私は違います。私は「非国民」ではなく、「非国民研究者」ですから
(笑)。

ではまた、さようなら。

----- Original Message -----
> 
> 前田先生
> 
> おはようございます。増田です。
> 
>  
> 
> >ここでの私の議論にとって、映画の中身はどうでもいいことです。
> 
> >
> 
> 「小さなアイヒマンにならないために」と主張なさる前田先生が、「都教委の
命令に従うのは当然」と三鷹高校において「小さなアイヒマンにな」りきられた
土肥信雄校長を、「小さなアイヒマンにならないために」 行動した根津さん、
佐藤さんと「同列」に「小さなアイヒマンにならないために」行動した人物とし
て作り上げ、映し上げた「映画の中身はどうでもいいことです」と主張されるの
は、奇妙な感じがします。
> 
>  
> 
>  でも、前田先生は「観点をほんの少しだけずらして」として「私の議論」を
展開され、私は「観点をほんの少し」も「ずらさずに」、「映画の中身」を問題
にしているのですから、議論が噛み合うはずがはありませんので、私は、この件
に関する投稿は、これで終わりにします。   		 	   		  
> 




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