[CML 019408] 放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(4)

Yasuaki Matsumoto y_matsu29 at ybb.ne.jp
2012年 8月 22日 (水) 00:13:04 JST


みなさまへ     (BCCにて)松元

「安全神話」の学問的裏づけに邁進する被爆国日本の「研究者」たちに注目して
きた東京大学の島薗進氏が、あらたに、「放射線のリスク・コミュニケーショ
ンと合意形成はなぜうまくいかないのか?」という連載を開始しました。

放射線リスクの「「専門家」の役割と責任を明らかにしておきたい」という著者
の了解を得て、連載を紹介させていただきます。今回その(4)は、「安全・安心をめぐる混迷」です。

◆ブログ:島薗進・宗教学とその周辺より
http://shimazono.spinavi.net/

=====以下、その(4)全文転載(改行をしています)=====

■放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?
(4) ――安全・安心をめぐる混迷
2012年8月21日

放射線健康影響のリスクについて、その方面の専門家が市民の「不安をなくし」
「安心させる」企てに意図的に取り組んできたさまを 見てきた。市民がリスク
を 適切に認識することができず、「安全なのに安心できない」ので、さまざま
な手段を用いてリスクコミュニケーションを行い、市民のリスク認識を変え
て、専門 家のそれを受け入れるようにしようというものだ。

 政府・行政や企業が専門家とともに、市民の「安心」獲得を目指す、それこそ
がリスク評価の相違を、また「不安」をもつ市民と専門家の対立を克服 してい
く 主要な道だという考えだ。原子力の場合、それは「安全神話」の一部をなし
ていた。ある種の宗教の巧妙な布教のようであり、政府や公的機関が思想信 条
とは言 わないまでも、評価が分かれる事柄の判断を一方的に押しつけてくるの
は市民の自由の侵害だ。だが、たくさんの専門家をくみこんで、それが堂々と行
われて来 た。

 これはリスク認知、リスク評価の違いを論じ合い、相違を認めた上で、公共的
に討議し、合意を求めていくというやり方とはまったく異なっている。 特定専
門 家集団の側に正しいリスク評価があり、それと異なるリスク認知、リスク評
価は客観性や合理性を欠くもので、正当性をもたないとする。討議する前に そ
のよう な判断と政治的配置を決めてしまい、特定専門家側の意志を市民に押し
つけられるのを当然視するものだ。だが、特定専門家に一方的に優位を与え、政
府と特定 専門家に都合のよいリスク評価だけを「科学的」「客観的」とするよ
うな排除の姿勢は必ずや不信を招くだろう。

 「安全・安心」をセットで用いることは、そもそもそのような政府=特定専門
家の権威づけを含んでいる。放射線の健康影響においては、このような リスク
観、リスクコミュニケーション観が跋扈してきた。しかもそれは、人文社会系の
研究者の論によっても支えられてきた。人文社会系の研究者が原子力に 限定せ
ず に、広い範囲の問題を視野に収めて、危ういリスクコミュニケーション論を
展開してきた。そこで用いられる「安全・安心」論が原発・放射線関係の専 門
家を側 面から支えてきた。

 この問題は人文・社会系の諸分野にとって重い問題である。各分野からそれぞ
れの流儀にのっとって追究するとともに、科学技術をめぐる公共哲学の 学際的
な問いとして取り組む必要があるだろう。とりあえず私の目にとまった論考をい
くつか紹介し、見通しをつけてみたい。

 社会心理学者の中谷内一也氏(同志社大学教授)は『リスクのモノサシ――安
全・安心生活はありうるか』(NHKブックス、2006年)で、「本 書はリス ク情
報に過剰に反応し、個人や社会がひどく混乱することを問題視するものである」
という。なぜこういう問題を立てるかというと「場当たり的に過剰 な対策を 立
て、その対策を拙速に実施することが必ずしも社会全体にとって得策とはいえな
いからである」。「たまたま、光を当てられたからといって小さなリ スクに過
大な資源を投入することは税金の無駄遣いであり、その結果、 光を当てられに
くいが、しかし多くの被害者が想定されるリスクに対して十分な対応ができなく
なるおそれが ある」という。pp33-35

 これは具体的にどのような事態を指していっているのかよく分からない。遺伝
子組み換え作物を受け入れるか、食糧危機に直面するかといった類のト レード
オ フの問題についてなのか。BSE被害を防ぐために牛を全頭検査するかどうかと
いうようなリスク対策のコストの話なのか、論題によって相当に異なっ てく
る。 仮に、これが原発の問題にあてはめられるとすれば、福島原発事故後の
今、以上の中谷内氏の言明に対し、大いに疑問が起こるのは避けられない。

 中谷内氏はまた、「政府や企業の立場では、安心という心の状態にアプローチ
できなければ政策や商品への支持につながらず、安全を高めるだけで満 足して
い るわけにはいかないのである」と述べているp238。これもリスクコミュニ
ケーションを「安心」を得るための技術と見ていると受け取られかねない 言い
方 だ。リスク評価が分かれる場合に、どうして政府や企業の立場からだけ論じ
なくてはならないのか。どうして「安心」の方ばかり追究されなくてはなら な
いの か、疑問が残る。

 このように中谷内氏の叙述は、リスク軽減のためのコストをかけたくない側に
寄り添っている箇所が多く、潜在的に被害をこうむる可能性がある側や 未来世
代 への責任を重んじる側の立場への配慮が乏しい感が否めない。「安全・安
心」と並べる表現は、「不安をなくす」という、ある方向性をもったリスクコ
ミュニ ケーションを目指す立場に与するものであり、そのような立場性と結び
ついたものとなる。

 次に科学史・科学哲学の専門家である村上陽一郎氏(東京大学名誉教授)が
『安全と安心の科学』(集英社新社、2005年)で展開している議論を 見よう。
「昔中国の杞の国の人で、天が落ちてきはしないかと気に病んだ人がいて、「杞
憂」という根拠のない心配をすることの喩えになりましたが、この文明 のなか
で は、何が何時どう起こるか判らない、という不安に耐えて、私たちは生きて
いかなければならないように思われます。」p20

 なぜ、科学技術が発達した社会の問題を理解するために「杞憂」を持ち出すの
か。リスクの制御には限界があるので、ゼロにはならない。だが、それ をあく
ま でゼロにせよとする人たちがいるために科学技術の活用が制限されてしま
う。村上氏は原子力がその典型だと言いたいようだ。実際はリスクがどれほど
のものか の評価が問題だったのであり、リスクの過小評価のために対策を怠っ
た結果が福島原発事故だった。

 「例えば、先ほど触れた「杞憂」という概念は、まさしくこの点を衝いていま
すでしょう。誰も天が崩れ落ちるという「危険」に可能性をまともに考 えませ
ん。それでも、問題の杞の人の「不安」を取り除くことはできないのでしょう。
/日本の現場で、このことが最も顕著に表れているのが原子力の世界で はない
でしょうか。原子力発電の世界では、日本の現場のサイトで死者は一人も出して
いません。(中略)つまり、原子力発電の現場は、他のさまざま な現場に比べ
て も、客観的な安全性においては優れていることはあっても、決して「より危
険な」ものではありません。しかし、人々が原子力発電に抱く漠然たる不安
は、どうしても払拭されません」。P33-34

 村上氏が何を根拠に原子力発電の現場は「より危険な」ものではないと判断し
たのか、3.11以後の今もそう考えるのか、聞いてみないと分からな い。だ
が、もう1つ聞いてみたいことは、原発への不安が「杞憂」でなかったとすれ
ば、なぜ「不安」をなくしたり、減らしたりすることを目標にしたのか、 その
目標 は正当なものだったかということだ。

 リスクを減らす行動のモチベーションとして「不安」は重要だ。リスク評価が
分かれる問題に「不安」や「安心」をもつことは、それぞれの人の自由 であ
る。 企業や政府が「リスク」そのものよりも「不安」を減らしたいと考えるこ
と自体も問題だが、なぜ専門家(科学者、研究者)はもっぱら企業や政府の側
に立って市民の「不安」をなくし「安心」を獲得したいと考えたのだろうか。科
学技術のリスクを考える際、「安全・安心」という枠組みに依拠するこ とに
よって、そ のような枠組みにたやすく陥ってしまう。そこには特定専門家こそ
がリスクを正しく認識・評価しており、異なる認識・評価は単なる錯誤だという
錯覚 があったのではないだろうか。

 「安全・安心」論のこのような危うさは、3.11以前から見破られていた。
たとえば科学技術社会論の研究者である平川秀幸氏(大阪大学准教授) は、
『現代思想』2004年11月号に掲載された「科学技術ガバナンスの再構築――〈安
全・安心〉ブームの落とし穴」で、まずは「安全・安心ブーム」 の歴史的背景
を明らかにしている。このセットの使用例は90年代にもあるが、格段に増加する
のは2000年代に入ってからだ。BSEなどの食品汚 染、個人情報流 出、遺伝子組
換え作物など、また犯罪の増加なども含めて、リスク評価、リスク管理が重要な
課題として浮上してきたという背景がある。

 政府の文書では、すでに1992年の「第13次国民生活審議会答申『ゆとり、安
心、多様性のある国民生活を実現するための基本的な方策につい て』に「安
全・安心」のセットが出てくるが、96年の『国民生活白書――安全で安心な生活の
再設計』では中心的な主題とされる。これが科学技術に 関わる政策と密接に 結
びつくのは、2004年の『安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する
懇談会報告書』だという。

 平川氏は「安全・安心」を旗印とする政策は、「民主的な社会の基礎を脅かす
怖れのある危険な政治的イデオロギー効果をはらんでいるのも事実であ る」と
述 べている。この危うさは科学技術政策に関わる2004年の報告書に顕著に表れ
ているという。そこでは、「安全」と「安心」の定義がなされている。
 
 「その中で「安全」は「人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の
所有物に損害がないと客観的に判断されることである」とされる一方 で、「安
心」については「個人の主観的な判断に大きく依存するものである」とされてい
る。」平川氏はこのような専門家=客観的評価対素人=主観的判断とい う区分
は、専門家に権限を集中し、市民を専門家が下した客観的評価を受動的に受け入
れるべき存在として位置づけることになるという。「「安全」は専門家 や事業
者、行政が科学的・客観的に定義、評価、確保するものであり、素人であるその
他の人々は、それらの専門家や組織との信頼関係を通じて安全に ついての説明
を受け入れることによって安心するという構図がそこにある。」

 平川氏がさらに問題だと考えるのは、「安全/安心」が「客観/主観」の二分
法だけでなく、「科学/感情」の二分法にも結び付けられることだ。 『平成12
年度リスクコミュニケーション事例等調査報告書』ではこの二分法に基づき。専
門家が「科学」で判断するのに住民は「感情」で判断すると述べる。そ して
「感情」を左右する因子として、「破滅性」(そのリスクは破滅的な結果をもた
らすか)、「未知性」(そのリスクについて知ることができるか、 観察可能
か)、 「制御可能性・自発性」(そのリスクについて自分たちで制御すること
が可能か)、「公平性」(そのリスクが自分たちだけに発生するリスクか)をあ
げている。

 しかし、「破滅性」「未知性」「制御可能性・自発性」「公平性」は、いずれ
もリスク評価に深く関わることであり、専門家だけの「科学」的「客 観」的評
価 ではできないことである。住民の側の反応は住民のパースペクティブからの
リスク評価に基づくものであって、けっして主観や感情の表現としてだけ受 け
止めるべきものではない。専門家・行政側と住民・市民側のリスク評価は、それ
ぞれに客観的認知を基盤としながらも利害関心や価値評価を含んでお り、それ
ぞれの主観や感情や価値観も関わっている。専門家こそが客観的と言えない場合
も多い。企業活動やある種の「国益」(とされるもの)と結び つくこと、つま
り科学が特定利益に追求の手段に用いられることも少なくないのであって、その
ことを踏まえて公共的な討議に付されるべきものであ る。

 結局、この二分法は「公平性や権利、責任といった人間社会の基礎的な倫理
的・法的・政治的理念や、それらについての人々の判断の問題を、感情や 心理
の問題に還元し、コミュニケーションを、科学的に定義されて定量化されたリス
クや、そのようなリスクの科学的理解の仕方を、専門家や行政、事 業者の側か
ら素人の側へと一方的に伝達(強制)するだけの営みにしてしまう。」pp171-2
こう平川氏は論じている。

 「安全・安心」という概念枠組みを使うことで、リスクについての市民・住民
の判断は取るに足らないものであり、専門家の「正しい」リスク評価を どう受
け入れさせるかが課題だとの考えを人々に押しつけようとしている。そこには政
治的、社会的、倫理的な関心も含まれている。だが、それを無視 し「科学」こ
そが リスク評価の全面的な主体であるかのごとく見せかける詐術がある。平川
氏のこの批判は核心をついたものだろう。

 「安全・安心」という概念枠組みの欺瞞性に気が付いたのは平川氏だけではな
い。原子力安全問題のエキスパートであり、「市民科学者」という立ち 位置を
とろうとした故高木仁三郎は、2000年に刊行された遺著、『原発事故はなぜくり
かえすのか』で原発推進側が「安全」に並べて「安心」を多 用するようになっ
た経緯に注目している。高木によると、そのきっかけは1995年の「もんじゅ」の
事故だった。この事故以前に書かれた1995年 版の『原子力白書』には 「安心」
はまったく出てこない。ところが事故の衝撃に対応してから出されたので、半年
後の公表になる『原子力安全白書』では、「安心」が重大な関 心にな り、以
後、それが踏襲されていく。つまり、政府・事業者や専門家の側(推進側)のリ
スク評価と市民・住民の側のリスク評価が厳しく対立するように なって以後、
推進側は市民・住民の「安心」を獲得するということをきわめて重要な課題と自
覚し、それに取り組むようになるのだ。

 高木はこう述べている。「彼らの定義によれば、安全というのは技術的な安全
です。工学的な安全と言ってもよいかもしれません」。つまり「もん じゅ」事
故が起きても人が死んだわけではないから安全は保たれた。しかし、人々を不安
に陥れてしまった。「彼らが言うところの技術的安全と、国民 が考える安心と
の間のクレディビリティ・ギャップ」を問題にし、それを「広報において埋め
る」という問題意識だった。そこでは「説明」によって切 り抜けることが問題
であり、 事故に対する責任を自覚して安全性を問い直すという発想は抜け落ち
ていた。

 科学記述のリスクにつきさかんに「安全・安心」が言われ出すのは、平川氏が
いうように2000年代に入ってからだが、原発のリスクの領域では、 すでに 1995
年の段階で「安心」の獲得が課題とされていた。それは政府・事業者・専門家の
側の責任を自覚し改善の道を求めるのではなく、住民・市民の 側のリスク理解
の不足へと問題を押しやり、「説得」や「広報」(悪く言えば、マインドコント
ロール)に解決策を求めようとする態度と関連しあって いた。

(以上、その(4)転載終わり、(5)へ続く)

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