[CML 019168] 開沼博さんの真率な論説に関して~Re: デモや集会などの社会運動は本当に脱原発を後押しするか? 開沼 博「“燃料”がなくなったら、今の反原発運動はしぼんでいく」

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2012年 8月 9日 (木) 20:37:37 JST


伊達さん。ご紹介の開沼博さんの問題視点、また問題提起は重要ですね。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120719-00000732-playboyz-soci

私も伊達さんと同様に「全てに同意・共感するものではありません」が、開沼さんの問題視点、問題提起には共感するところ
大です。

私は、伊達さんはあえて引用から除外しておられるのだと思いますが、次のような開沼さんの指摘にも肯首させられます。

   「他地域から立地地域に来て抗議する人たちは、言ってしまえば『騒ぐだけ騒いで帰る人たち』です。震災前からそう。
   バスで乗りつけてきて、『ここは汚染されている!』『森、水、土地を返せ!』と叫んで練り歩く。/農作業中のおばあち
   ゃんに『そこは危険だ、そんな作物食べちゃダメだ』とメガホンで恫喝(どうかつ)する。その上、『ここで生きる人のた
   めに!』とか言っちゃう。ひととおりやって満足したら、弁当食べて『お疲れさまでした』と帰る。地元の人は、『こいつら
   何しに来てるんだ』と、あぜんとする。」

私は、おそらく開沼さんは、少なくない脱原発活動家たちからの反感と反発、ブーイングは覚悟の上で、しかし、ただ鎮座し、
黙視したままでいることの後世への無責任、ないしは3・11以後を生きている同時代人、また、その同時代に遭遇した若手
研究者としての歴史的責任、ということを思っての覚悟の言辞だろうと思います。そうであれば、私たちは単純に開沼さんの
指摘に反発するのではなく、彼がおそらく反発を覚悟で述べている真率の声を聴きとるべきだと思います。

彼は次のようにも述べています。

   「3・11を経ても、複雑な社会システムは何も変わっていない。事実、立地地域では原発容認派候補が勝ち続け、政
   府・財界も姿勢を変えていない。それでも『一度は全原発が止まった!』と針小棒大に成果を叫び、喝采する。『代替
   案など出さなくていい』とか『集まって歩くだけでいい』とか、アツくてロマンチックなお話ですが、しょうもない開き直りを
   している場合ではないんです。」

   「批判に対しては『確かにそうだな』と謙虚に地道に思考を積み重ねるしか、今の状況を打開する方法はない。『脱原
   発派のなかでおかしな人はごく一部で、そうじゃない人が大多数』というなら、まともな人間がおかしな人間を徹底的
   に批判すべき。にもかかわらず、『批判を許さぬ論理』の強化に本来冷静そうな人まで加担しているのは残念なこと
   です。」

上記のように言う開沼博さんとは次のような人です。松岡正剛氏の「千夜千冊番外録」から同氏の「開沼博『フクシマ』論―
原子力ムラはなぜ生まれたのか」の書評(同頁の3番目の記事)をもってご紹介に代えさせていただこうと思います。

■開沼博「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか(松岡正剛 千夜千冊番外録 1447夜 2011年12月28日)
http://1000ya.isis.ne.jp/1447.html

開沼さんはなかなか骨のある少壮研究者のように思えます。

ところで、少壮の研究者といえば、雑誌「世界」元編集者(現岩波社員)の金光翔さん(この人は「研究者」というよりもど
ちらかといえば「思想家」と呼ぶべき人でしょう)が自身のブログに「社会分析と『専門家』」(2012年8月7日付 )という記事
を書いています。
http://watashinim.exblog.jp/16581740/

その中で金さんが引用しているチョムスキーが「社会分析と『専門家』」ということについてなかなか示唆的なことを言って
います。下記のチョムスキーの指摘を踏まえた上でも開沼さんの「社会分析」はインテリという立場を離れて、ふつうのひ
とりの市民としても「諸事象をしっかりと見つめ、議論を深めていく意志」を感じさせるもののように私は思います。

以下、チョムスキーの発言の引用。

   「イデオロギーの分析の場合、視野の広さと知力とがいささかあり、それに健全なシニシズムがあればたくさんだ。
   (略)こういうわけだからこそ、専門の訓練を積んだ知識人だけが分析的な仕事をできるといった印象を与えては
   いけないわけだ。それがまさしく、インテリが信じ込ませようとしていることなのだから。インテリは、門外漢にはわ
   からない、ふつうの人のうかがい知ることもできない企てに自分が参加していると称する。これはまったくのナンセ
   ンスだ。社会科学一般、とりわけ現代の事件の分析は、これに十分関心をもとうとする者ならだれにでも完全に手
   が届く。こうした問題の「深奥」とか「抽象性」とかいったことは、イデオロギーの取締り機構が撒き散らす幻想に属
   するもので、そのねらいは、こうしたテーマから人々を遠ざけることにある。人々に、自分たち自身の問題を組織し
   たり、後見人の仲介なしに社会の現実を理解したりする力がない、と思いこませることによって、だ。(略)イデオロ
   ギーの分析の場合には諸事象をしっかりと見つめ、議論を深めていく意志があれば十分だ。デカルトの良識、「も
   っとも公平に配分されているこの世のもの」、これだけが必要なのだ…。デカルトの科学的なアプローチとはこのこ
   とだ――つまり開かれた精神でもって事実をみつめ、仮説を検証し、そして結論に到達するまで議論を深めていく
   意志のことだ。これ以上には、門外漢にわからないような特殊な知など、これっぽっちも必要ではない。たとえ「深
   奥」を究めるためでもだ。だいいちそんなものは存在しない」

上記のチョムスキーの発言に関する金光翔さんのコメント:
http://watashinim.exblog.jp/

   「「論壇」好きの(左派を含めた)教養俗物層の「専門家」崇拝については今さら語るまでもない。上のチョムスキー
   の発言くらいは、最低限の共通の前提として、各人が持つべきものだと考える。」 


さらに上記の金光翔さんの発言に関する東本のコメント:

金さんの発言は少しキツイですが、私も基本的に賛成です。私たちのいま(1990年代以後)の最大の思想的課題という
べきではないか、とさえ私は思っています。ことに3・11以後の。いま、私たちの眼が試されている、のだとも。


東本高志@大分
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
http://mizukith.blog91.fc2.com/

━━━━━━━━━━━━Original Message Started━━━━━━━━━━━━
From: 伊達 純
Sent: Wednesday, August 08, 2012 4:30 PM
To: [CML]
Subject: [CML 019146] 【参考まで】デモや集会などの社会運動は本当に脱原発を後押しするか? 開沼 博「“燃料”がなくなったら、今の反原発運動はしぼんでいく」
伊達 純です。

この記事の全てに同意・共感するものではありませんが、特に歴史から学ぶべきという 

個所は、まさにその通りだと思いました。

ポスト・フクシマ、ポスト3・11の反および脱原発運動を、ポスト・チェルノブイリ 

の時のように、後退させてはならないと思います。

デモや集会などの社会運動は本当に脱原発を後押しするか? 開沼 博「“燃料”がなく 

なったら、今の反原発運動はしぼんでいく」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120719-00000732-playboyz-soci
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