[CML 012323] 今こそ「脱原発と脱成長」を問い直すラディカル(根底的)な議論の創出を!【東京新聞社説】「週のはじめに考える 原発と社会の倫理」

uchitomi makoto muchitomi at hotmail.com
2011年 10月 2日 (日) 15:57:47 JST


私もこのドイツの「倫理委員会」には注目し日本との違いに学ぶべきものが多いと思っていました。ATTAC京都やジュビリー関西では「脱原発から脱成長へ」という議論を発展させてきましたが、大阪大学の木戸衛一先生のドイツ脱原発運動に関する報告会では、ドイツにおける「成長」そのものを問い直す民衆運動内の長年にわたる議論から、今日の脱原発政策の実現や緑の党の躍進の基盤がつくられたとのことでした。まさに日本でも今こラディカル(根底的)な議論が求められていると思います。

(参考サイト)
ドイツの脱原発論に接して  花崎皋平
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201104220003215

Drop the Debt ! ジュビリー関西ネットワーク(Jubilee Kansai Network)
http://d.hatena.ne.jp/Jubilee_Kansai/

Attac京都ブログ
http://kyotoblog.attac.jp/

10・15シンポジウム「脱原発―どんな社会をめざすのか」
http://d.hatena.ne.jp/hansenkyodo_kyoto/20110814/1313312150
http://d.hatena.ne.jp/hansenkyodo_kyoto/20110711/1310406717


【東京新聞社説】
週のはじめに考える 原発と社会の倫理

2011年10月2日

 倫理とは、字引では人倫の道また道徳の規範と記されていますが、社会へと広げれば別の意味合いも浮かんできます。原子力の是非論で考えてみます。 

 ご承知のように、ドイツは五月末、遅くとも二〇二二年までに国内十七基すべての原子炉を閉鎖すると発表しました。福島の原発事故後、主要国(G8)では初の脱原発決定であり、少なからぬ衝撃を世界に与えました。

 この決定へ踏み切らせたのが、メルケル首相が招集した「安全なエネルギー供給のための倫理委員会」でした。彼女はライプチヒ大に学んだ物理学者であり、福島の事故前までは原発擁護派だった。

◆ドイツの決断の仕方

 ドイツでは、日本の原子力安全委に似た専門家委員会が、ドイツの原発は飛行機の墜落を除き安全であり、洪水や停電にも十分耐えると答えていた。しかし、実際に日本で事故は起きたのであり、原発とは人の暮らしや社会の未来には果たして有益なのか、それとも不利益なのか。その検討が倫理委員会には求められたのです。

 委員会は十七人。委員長は二人で元環境大臣と工学系教授。偏りをなくしたのでしょう。

 残る十五人は、キリスト教高位聖職者(複数)、科学アカデミー会長、リスク社会学(日本でいう失敗学)の専門家、化学工場社長、地学者、哲学者、経済学者、政治学者、それにエネルギー関連の労働団体代表ら。

 まさに各界の代表で、広い意味での倫理、つまり社会の倫理とでもいうべき事柄を話し合おうという意気込みがうかがえます。

 日本でも、例えば脳死基準の決定では医学だけでなく、人の生死にかかわる倫理的問題として議論をした。しかし多数の死と病苦を招いた公害、また原子力、原発を倫理的課題として国が公的に取り上げたことがあっただろうか。医学、技術、経済の問題に専門化させていたのではなかったか。

◆持続可能という要請

 日本が遅れている、とは言いません。国ごとに歴史や文化は異なり、その延長上に今があります。

 ドイツや北欧では大切な森が枯れるという事件が起きました。風上の英国やフランスの産業都市が排出した大気汚染物質が酸性雨となり、森に降ったのです。ドイツでは国内汚染もありました。

 日本人にとって山や海や川や田が故郷であるように、彼らの心の故郷は深々とした黒い森であるといわれます。一九八〇年代初頭、ドイツの信頼ある週刊誌シュピーゲルが、古い森林の枯れ始めたこと、川魚が消えつつあることを報じて人々は心底不安になる。今、起きている悪い事態はこの先もっと悪くなるのではないかと。

 近年当たり前のように聞く持続可能な発展という言葉はこのころ出てきたものです。定着させたのは、元ノルウェー首相で女性小児科医のブルントラント氏が率いた国連環境特別委員会でした。

 こういう未来の幸福まで計量した考え方は、十九世紀功利主義の大成者J・S・ミルに始まったともいわれます。彼は哲学者とも経済学者とも政治思想家とも呼ばれた。要するに人間の永続する幸福を現実的に考えた人です。

 私たちは、持続可能という言葉を最近日本で聞きました。福島県が八月に発表した復興ビジョンです。基本理念はこううたいます。

 「原子力に依存しない、安全・安心で持続的に発展可能な社会づくり」。そこには再生可能エネルギーを増やす多極分散型モデルへの提言や、人の命を大切にし安全・安心な社会をつくるという決意が述べられています。

 この理念に至った経緯は日本人ならだれもが知り、それが血を吐くような心情から出たことをよく理解します。それを読むなら、私たちにそう宣言できるかどうか、深く問いかけてもきます。そこからは私たちの選択です。

 ドイツの倫理委員会は、安全なエネルギー供給のため、原子力エネルギーの供給を段階的にやめようと呼びかけました。成功の保証はなくとも、それが社会の負うべき責務であり、ドイツの先進科学技術を総動員する。そのための計画や投資、実行には十年という時間が必要だとした。核廃棄物の最終処分がいまだに決まっていないことももちろん問題視された。どう行うかを決める前に、まず行うと決めたのです。

◆考えたい福島の一歩

 そういう先見的な決め方をここでは社会の倫理と名付けてみました。社会が自らの未来を自ら守ろうとするのは、倫理的判断と言ってもいいだろうし、それをより具体的に言うのなら持続可能な発展と言ってもいいにちがいない。

 福島県はそういう一歩を踏み出した。まず行うと決めたのです。そういう未来の決め方を、私たちは今こそ考えてみたいのです。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011100202000048.html

 		 	   		  


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