[CML 008029] 日の丸・君が代は国旗・国歌にふさわしいか

Hayariki hedomura2 at hotmail.co.jp
2011年 3月 10日 (木) 21:05:58 JST


日の丸(日章旗)・君が代は日本国の国旗や国歌にふさわしくない。国旗や国歌は国家の象徴(シンボル)である。日本国のあり方を定めているものは日本国憲法である。日本国憲法の原理は基本的人権の尊重、主権在民、平和主義である。従って、日本国の国旗・国歌は、それらの原理を象徴するものでなければならない。
アメリカ合衆国の国旗「星条旗」、国歌「星条旗」は必然的に独立戦争を連想させる。フランス共和国の国旗「トリコロール」、国歌「ラ・マルセイエーズ」はフランス革命を連想させる。そこから独立宣言や人権宣言につながる。アメリカ国民やフランス国民にとって国旗や国歌は自由や民主主義の象徴になっている。それ故に国旗や国歌の尊重が正当化される。
これは他の国々でも同じである。多くの発展途上国において近代化の歴史は反植民地主義闘争で始まった。独立を求める闘いが自由や民主主義を求める闘いであった。独裁権力に対する反政府デモが国旗を振りかざしているシーンを目にする。彼らにとって国旗は国家権力の象徴ではなく、民族の独立や自由・民主主義の象徴だからである。
ところが、日の丸や君が代は日本国憲法が否定した天皇専制政府の象徴であった。それを戦後も国旗や国歌としたために矛盾が生じる。日本で自由や民主主義を求めるデモが日の丸を振りかざすことは考えられない。日本国憲法の目指す日本国の象徴としてふさわしくないからである。
否定すべき体制のシンボルであっても、新しい意味を付与して再生させることもできる。トリコロールの白も元々はフランス王家を象徴していた。パリ市民と王家の和解を示すトリコロールは後のフランス革命の経過からすれば否定すべき中途半端さを有していたが、今では自由・平等・博愛のシンボルになっている。
それ故に戦前の国旗・国歌というだけで否定すべきではないという見解にも三分程度の理はある。しかし、問題は日の丸や君が代を日本国憲法体制の象徴として再定義する努力がなされていないことである。
日の丸や君が代を国旗・国歌として推進する側の論拠は「伝統」であって、その「伝統」は日本国憲法が否定したものである。結局のところ、日の丸・君が代推進は戦前的価値観を復活させる反動的な運動になる。基本的人権の尊重や主権在民、平和主義を重視する市民は日の丸や君が代に否定的になることは当然である。
しかし、日本国憲法も矛盾を抱えている。日本国憲法自身が天皇を日本国の象徴と定めている。日本国憲法が否定した天皇専制政府の元首を、そのまま象徴にしてしまった。世襲制の天皇の存在は日本国憲法の定める法の下の平等に反する上、歴史的に天皇が基本的人権の尊重や主権在民、平和主義の体現者として役割を果たした訳でもない。
日本国憲法は日本の歴史において画期的な存在であり、現代の日本人でも十分に消化できていないが、当然のことながら歴史的制約は免れない。日の丸・君が代に反対する側も護憲を旗印とするために天皇制の問題を深められていないという限界がある(林田力「中井洽の非礼発言と天皇制の対立軸化(下)」PJニュース2010年12月5日)。
http://www.pjnews.net/news/794/20101202_5
日本国憲法自身が否定すべき前体制との連続性を完全に断ち切れていないならば、前体制のシンボルである日の丸・君が代を国旗・国歌としても不都合ではないとの論理も成り立ってしまう。結局のところ、日本国そのものが前体制を断罪できない中途半端さを抱えている。この現実を踏まえ、少なくとも日の丸・君が代を強制されない自由を諸外国以上に広範に認めることが必要である。
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『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者 林田力
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