[CML 007927] ヘブロンH2とシュハダー・ストリートの報告と解説

Yasuaki Matsumoto y_matsu29 at ybb.ne.jp
2011年 3月 3日 (木) 22:22:30 JST


みなさまへ (BCCにて失礼、転送転載歓迎) 松元@パレスチナ連帯・札幌

「シュハダー・ストリートを開放せよ」の報告と現地住民の手記にあわせて、ヘブロンとシュハダー・ストリートの簡単な解説を載せました。

■ヘブロンでシュハダー・ストリートを開放せよの抗議デモ―10人逮捕
http://www.imemc.org/article/60717

(以下要約)
2月25日金曜日、インターナショナルズおよびイスラエル人支援者とともにおよそ500人のパレスチナ人がヘブロン旧市街でシュハダー・ストリートを開放せよと要求する抗議運動を行なった。イスラエル軍は、通りに入る道をふさいでパレスチナ人たちを妨害した。人々がシュハダー・ストリートに達したとき、兵士が攻撃しパレスチナ人ジャーナリストを含む10人を逮捕した。催涙ガス、音響弾およびゴムコートの鋼鉄弾が、プロテスター目がけて使われた。この戦術は、イスラエル軍によって繰り返し使われてきたものである。兵士らの攻撃によってプロテスターと住民双方の多くが負傷を被るという結果となり、家にいた地域住民までが影響を受けた。軍の襲撃が激しくなったとき、若干の若者たちが前進する軍に向かって石を投げたため、H2とH1地域の境界における抗議運動はこの衝突で終了してしまった。

当日のデモンストレーションの様子:何本かになっています。http://vodpod.com/watch/5349749-hebron-demos-to-open-shuhada-street-day-of-action-25-feb-2011

■シュハダー・ストリート再開が意味するもの

●シュハダー・ストリートの住民、ズレーハ・ムフタセブ(Zleikha
Muhtaseb)の手記(これは昨年2月の運動開始のとき公表されたものです―訳者注)

多くの人々は、私たちがどうしてシュハダー・ストリートを開放することを必要としているか考えるでしょうね。この通りは、市の北部と南部を結びつけるヘブロンの中でも最も重要なところなのです。人々の結びつきはこれだけではありません…。彼らの友人やいろいろな関係の人々が、訪ねて来るときこの通りや検問所で止められたくありませんから、この通りが閉鎖されたために多くの人々がふつうの社会生活を維持できなくなってしまったのです。さらに以前訪ねて来たときは遠い道のりを歩いていましたが、今は彼らの望む家まで市をさらにぐるりと回り道をして来なければなりません。人々は今、シュハダー・ストリートの家を訪ねようとしたら10回は考えてしまうのです。第一に、訪ねようとする時間を考えねばなりません。つぎに支払わなければならないお金です。多くの人々は、仕事がありません。シュハダー・ストリートが封鎖されてからは以前より仕事の機会はずっと少ないのです。だから私たちは、お金について賢く考えなければなりません。

個人的なことをいえば、私はシュハダー・ストリートに住んでいますが、私がパレスチナ人であるが故に通りに面した自分の玄関を使うことができません。隣の家の人は、私が家の中で籠の鳥にならないように、私を通すためにわざわざ壁を開けてくれたのです。実際、私は家の中で囚人のような生活をしているのです…。私は、入植者たちがいつも私の家目がけて石の「贈り物」を投げてくるので、防護するためにバルコニーに何枚かの金網を取り付けました。金網の手前にあるよろい戸を開けることができません。もし間違って私がそのシャッターを開けたままにしておいたら、すぐに入植者たちの「贈り物」を頂戴することになるでしょう。相変わらずこれらの「贈り物」を受けていますが、金網のおかげで以前のように私に当たることはありません。私はこれらの「贈り物」を集めて、その石にアラビア語でピースと書いて庭の飾りに使っています。

すべてが封鎖されているため、ほんとうにここで生活することはたいへんです。私も近くに買い物に行きたいのですが、もし今、買い物に行ったとしたらかなりの道のりを歩いてさらに買ったものを運んでこなければなりません。車で運んでくるわけにはいかないのです。私が腎臓を取るため痛みのあるとき、病院へ行く救急車が玄関前まで来れなかったのです。私の兄弟の家はシュハダーから歩いて2分のところですが、彼の家まで20分かけて歩かなければならなかったのです。

イスラエル軍と警察は、パレスチナ人とイスラエル人の双方を守るためにこの地域にいるんだと、いつも私たちに言います。でも事実は、子どもたちが私の家から通りに向かって石を投げたという兵士の申し立てを調査すると称して一週間に3回も私の家を襲ったことがありました。もっとも、私はただ母と一緒に暮らしているだけで子どもは一人もおりません。何度も入植者の子どもや若者が私の家に目がけて石を投げつけます。私が兵士や警察に苦情を訴えても、彼らは一切それを制止しようとはしませんでした。

シュハダー・ストリートを開放することは、平和と人間性にとってとても重要なことなのです。(松元訳)

※ズレーハ・ムフタセブ(Zleikha Muhtaseb)さんは、旧市街スークの中にあるシュハダー・ストリートに沿ったイブラヒーミヤ幼稚園の園長です。

原文は以下:不適切な訳文があれば、教えてください。http://josephdana.com/2010/02/what-it-means-to-re-open-shuhada-street/


■解説:ヘブロンH2とシュハダー・ストリート(松元)

『もしあなたが、感覚の鈍麻とはなにか、人種差別とはなにか、悪とはなにか、不正とはなにか、そして恨みとはなにかを知りたいのなら、地上で最適なその場所は…ヘブロンだ。』――ギデオン・レヴィ(注1)

ヘブロンにユダヤ人が入植地をつくりはじめたのは、イスラエルがヨルダン川西岸地区を占領した直後の1968年からです。70年代、80年代に旧市街のなかに入植地がつぎつぎと新設されます。昨年の店舗襲撃事件が起きたベイト・ロマーノ(各地名については下記地図参照)の一角には約100人、すぐ隣のベイト・ハダサにも、イブラーヒーム・モスクに近いアブラハム・アビーノにもそれぞれ100名前後の入植者が住んでいます。シュハダー・ストリートの丘の上のテル・ルメイダを含めると450人ほどのユダヤ人がヘブロンH2(注2)の旧市街に陣取っていて、さらにこの旧市街に隣接した大入植地キリヤット・アルバには7000人の入植者がいます。そのために、ここには1200〜1500人ほどのイスラエル軍兵士とイスラエル警察官が常駐しています。

1993年のオスロ合意以降、とくに翌年のゴールドシュタイン(注3)によるパレスチナ人の虐殺後、外出禁止令と店舗閉鎖命令および家屋破壊によって多数のパレスチナ人がヘブロン旧市街のスーク(市場)から立ち退き=追放を余儀なくされました。この数は一万人以上とも言われています。第二次インティファーダでイスラエルの攻撃・嫌がらせがいっそうひどくなった結果、いまは13世紀から続いたこのスーク(市場)がゴーストタウンと化しています。イスラエル兵と入植者は、その過程でパレスチナ人の店舗を白昼ないしは深夜、公然かつ非公然に溶接・閉鎖してきたのです。ここ10年で、500軒以上の店舗が溶接・閉鎖されてきました。

ヘブロンの特徴は、ユダヤ人入植者がかつてのパレスチナ人の住居のあとに住んでいるためスークやパレスチナ人居住地とごく隣接していて極右入植者の頻繁な嫌がらせ、脅迫と暴力、そして軍隊の日常的な抑圧がたえないことです。いまでも入植者は、2階、3階の窓から石やゴミなどを下の通りのスークに投げつけたり、12歳以下の子どもは処罰されないということでパレスチナ人の住居の窓に入植者が子どもに大きな石をぶつけさせるなどの暴力が頻繁に起きています。入植者が銃で撃ってくることもあります。ですからスークの通りの頭上には防護の金網が張られ、パレスチナ人の住居の窓には刑務所のような鉄格子が張られています。「アラブ人をガス室へ!」という入植者による落書きもあちこちに見られるほどです。(参照、B’Tselem:Gohst Town)
http://www.btselem.org/english/publications/summaries/200705_hebron.asp

抗議デモの舞台になっているベイト・ロマーノとイブラヒーム・モスクの二ヵ所にイスラエル軍のベースがあります。ただでさえ入り組んでいる旧市街の約10ヵ所に兵士常駐の検問所があり、回転扉があり、さらに100を超えるロードブロックと鉄条網で街のあらゆる通りが切れ切れに分断されてパレスチナ人の移動が常時阻まれているのが実態です。ヘブロンH2は、市街地にイスラエル軍の基地と検問所が張りめぐらされている西岸唯一の街なのです。パレスチナ人にとってここは、生活のすべてがイスラエルの極右入植者と兵士に晒されているゲットーのようなものです。

とくにキリヤット・アルバからイブラヒーム・モスクを経てテル・ルメイダへとつづく道は「巡礼道Pilgrim Load」として、入植地をむすぶユダヤ人の専用道路に
なっています。ですからこのシュハダー・ストリート(イブラヒーム・モスクからテル・ルメイダまでの通り)は、たまにユダヤ人や兵士の車が利用するくらいで、パレスチナ人は完全に遮断されて普段は人っ子一人歩いていません。ズレーハ・ムフタセブさんもその一人ですが、パレスチナ人は通りのすぐ向かい側にあるイスラームの墓地にも行けず、玄関を溶接閉鎖された家族は隣の屋根伝いに出入りするといったように完全に移動の自由を妨げられています。この通りに面した約60店舗のパレスチナ人の店は、90年代後半からイスラエル兵と入植者によって店舗の鉄扉が溶接閉鎖され、かつてスークの中心地であった野菜市場は完全に「死の街」と化しています。http://forums.liveleak.com/showthread.php?t=69171#post947778

昨年2月から毎週土曜日に、イスラエルやパレスチナ、そしてインターナショナルズの諸グループがスーク一帯で「シュハダー・ストリートを開放せよ!」というドラムや楽器・歌の鳴り物入りのキャンペーンを始めたのですが、とくにスークの入り口ベイト・ロマーノのイスラエル軍基地―この奥にパレスチナ人が絶対に立ち入ることの出来ない入植地がある―の前で気勢を上げたのです。

また同じ毎週土曜日の夕刻には、以前から西岸各地のユダヤ人入植者の聖地詣で―アブラハム、サラ、イサク、ヤコブが眠るといわれている族長たちの墓=イブラヒーム・モスク(1995年から、この三分の二がユダヤ人のシナゴーグとなって奪われている)―が行なわれ、大型バスを仕立て団体で旧市街スークを見学して歩くのが慣わしとなっています。銃を真横に構えたイスラエル兵10名ばかりに囲まれたこの「団体ご一行」は、閑散としてなお強固に店を開いているパレスチナ人の貧しい店先の商品を蹴飛ばしたり盗んだり狼藉をも働いています。そして兵士に「守られた」彼らは、ベイト・ロマーノの軍ベース・ゲートから入植地側に「帰る」のです。

したがってイスラエル軍と入植者たちにとっては、「土曜日」のこの非暴力抵抗キャンペーンは排除しなければならないものであって、昨年夏のベイト・ロマーノの3店舗襲撃閉鎖4人逮捕(参照CPT報告―注4)は、明らかに「シュハダー・ストリートを開放せよ!」キャンペーンへの「見せしめ」であったといえます。そして今回、ふたたび抗議デモは妨害され逮捕者は10人になりました。

しかしこの「2月25日」は「怒りの日」として、イラクなどアラブ世界各地で呼応したデモが行なわれたようです。人種差別国家・犯罪国家イスラエルを擁護するための中東管理体制と、それを支え管理して自らのミリタリズムとコロニアリズムを存続させている米欧日の虚構の「反テロ戦争」レジーム瓦解のときがはじまったようです。

※ヘブロンH2の地図:OCHAより
http://unispal.un.org/pdfs/HebronClosureMap.pdf

<訳者注>
●注1、Gideon Levy :2001年3月17日『ハ・アレツ』紙「ピュリム祭にヘブロンをたずねて」の記事より。『ハ・アレツ』紙上でパレスチナ問題に健筆をふるってきたイスラエルの著名なジャーナリスト。

●注2、H2:1995年のオスロ合意兇農彰澆肇ザはエリアABCの3地区に分割され、イスラエルは西岸各地の市街地から国防軍を移転させたがヘブロンについては例外であった。オスロ合意兇鮗けた1997年のヘブロン議定書によって、ヘブロン市はH1地区とH2地区に2分割され、H2に軍隊を常駐させた。H1はヘブロン市(人口約120,000人)の80%を占めエリアAに準ずる制限つきの自治権をもっている。しかし旧市街をふくむ20%のH2(人口約35,000人、面積4.3平方キロ)は、西岸南部地域の商業圏の中心地であったにもかかわらず、国軍が常駐しイスラエルの直接的支配権のもとに置かれた。さらにこの議定書に署名したネタニヤフ(当時首相)は、イブラヒーム・モスクの70%を入植者にシナゴーグとして与え、残り30%をイスラエル軍検問付きのイスラーム・モスクとした。

●注3、バルーフ・ゴールドシュタインの虐殺事件:1994年2月、入植地キリヤット・アルバに住む米国出身の医師で極右入植者のバルーフ・ゴールドシュタインは、ラマダーンの礼拝中にイブラヒーム・モスクに侵入して銃を乱射し29人のパレスチナ人ムスリムを殺害し100人以上を負傷させた。イスラエル政府はその直後から、ヘブロンに100日間もの外出禁止令を布きパレスチナ人の移動の自由を奪うとともに、他方ユダヤ人入植者の行動の自由は保障された。パレスチナ人は、翌年までトータル9ヶ月間もの外出禁止令に耐えなければならなかった。イスラエル軍は、事件に抗議したパレスチナ人の行動を「平和を乱すもの」として西岸全土で鎮圧した。ヘブロン旧市街からのパレスチナ人の立ち退き=追放は、ここから始まったともいえる。

●注4、CPT:(Christian Peacemaker Teams)とは、欧米の歴史的平和教会ともよばれるメノナイト、クェーカー、ブレズレンなど多くの平和活動家を輩出しているプロテスタント諸教派有志が1984年に創設した人権を守るための非暴力抵抗運動の世界的な組織。パレスチナではヘブロンに1998年から、さらに南のアッ・ツワーニには2004年から、それぞれスタッフを常駐させ、暴力と差別・抑圧に対する非暴力仲介活動や監視活動をつづけている。http://www.cpt.org/



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