[CML 010347] Re2: 追伸: 村上春樹の「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」というスピーチについて(少し遅い感想)

hagitani ryo liangroo at yahoo.co.jp
2011年 6月 23日 (木) 12:16:31 JST


東本さん
 しつこいようで済みません。平野さんの助言もありましたけど、また一言言う 
ことにします。
 東本さんは繰り返し辺見氏の文章を引用してくださっています。私はそれを読 
むほどに、自分の感じていた違和感が明瞭になるのを感じます。

 引用なさっている部分を読んでの率直な感想は、あまりに陳腐ではないかとい 
うに尽きます。以下、コメントを挿入します。

(11/06/22 18:26), higashimoto takashi wrote:
> 萩谷さん wrote:
>>  なぜ、海辺の都市や集落に暮らすことが「ひとよ、おもいあがるな」と言 
>> われなければなら ないのです
>> か?/東京で高層ビルに住むものや、福島で原発を作ったものは、おもいあ 
>> がりを言われてもいいか
>> もしれませんが・・/この不当さに、石原的な「混同」を感じます。
>
> 萩谷さん
>
> 上記の辺見の文章の一節の読み方も誤読だろう、と私は思います。
>
> あなたの引用する「ひとよ、おもいあがるな」のフレーズのある段落の2段落 
> 下には同段落の文章の主意
> をもう一度復誦する次のようなリフレイン節が挿み込まれています。
>
> 「知人たちの住む浜辺の集落がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街 
> がいとも簡単にえぐりとら
> れた。若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所などどこ 
> にもない。磯のかおり。け
> だるい波の音。やわらかな光・・・。一変していた。なぜなのだ。わたしは問 
> うた。怒れる風景は怒りのわ
> けをおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。」

  おしえて「くれる」 これ、よくコピーライターが書くよなあ・・・。
 畏れよ、ですか。これについてはすでに書いたとおり。

>
> そして、同節の主意(すなわち、あなたの引用するフレーズのある段落)は次 
> の段落で次のように展開さ
> れます。
>
> 「津波にさらわれたのは、無数のひとと住み処だけではないのだ。人間は最 
> 強、征服できぬ自然なし、
> 人智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰にも、すなわち、さしも長 
> きにわたった「近代の倨傲」
> にも、大きな地割れがはしった。

 そんなことじゃなくて、人類はもうずいぶん無茶をしてきてるなあ、と思って 
も、簡単にどこかへ行くわけにも行かないんですよ。
 私たち日本人は特にそう。デベロッパーとゼネコンの天下、持ち家政策のせい 
で、封建時代よりももっと移動の自由がなくなってる。職業選択の自由 もなく 
なってる。
 住宅や土地が公共のものであり、教育は公負担の国では、こんなことはないの 
ですよ。
 いま原発が放射能をふりまいてる福島だって、逃げようにも逃げられない人た 
ちが、安心をもとめて山下俊一のうそ八百に耳を傾けてしまうのです。

 辺見が言ってることは、とっくにみんなが言ってることです。それを彼は長々と。
 
 目の前の風景の壮大さを前に平気で箱庭を作っている・・・
 修辞が自己目的化した印象を否めません。

 おのれを超えるおのれどころではない。すべてレディメイドです。

 人智は万能かどうかしりませんが、これからいよいよ我々は人智を結集させる 
ほかありません。東本さんはそれを倨傲と呼びますか? 
>
> 「ひとよ、おもいあがるな」という隠喩としての「神の声」は、決して「海辺 
> の都市や集落に暮らす」人々に
> 向けられたものではなく、「人間は最強」、「征服できぬ自然なし」、「人智 
> は万能」、「テクノロジーの千年
> 王国」といった近代(現代)人の「信仰」、「近代の倨傲」「資本の力にささ 
> えられて徒な繁栄を謳歌してき
> た」総ての現代人、そして現代社会のありように向けられた隠喩としての 
> 「神」の怒りの言葉であることは
> 明らかといわなければならないでしょう。
 これを語るに落ちたと言っては失礼でしょうか。
 つまり、辺見さんは預言者気取りなのですよ、たぶん。
 でもほんとに神が降ってくると「三千世界の梅の花、いちどきに咲く艮の根神 
の世となりたぞよ」と言った出口直のお筆先なんかのようになって、そ ういう 
のなら、それはそれでスケールが大きくていい。辺見さんは腰が引けてませんか。

 自然はとっくに征服の対象でなくなったくらいの意識は、片田舎のコンビニの 
ねえちゃんでも、アフリカの街のにいちゃんでも持ってますよ。
 彼の文章に私は、とほうもない事態に直面して絶句した様子を感じられません。
 これはちっとも言語に絶する事態ではなかったのだと思うほかありません。
 逆にとっくにわかっていたことを言うのだったら、もっと淡々と普通に言えば 
いい。

 こんな比較をしていいかどうか知りませんが、内橋克人氏の文章などは、古典 
的な美しさをもった、よく彫琢された名文ですが、詩情に酔っ払った風 情はな 
いから、違和感なく読めます。心で感じたことに忠実に追随していく言葉だなと 
思います。古風であることは、必ずしも既成の自己を反復模倣す ることではな 
いのだと思います。

 結論としては、村上春樹も辺見庸も美文を売る売文業者だね,と言うことにな 
りました。これで東本さんの辺見庸論に対する私の意見は終わりとしま す。私 
も 辛くなってきました。でも、詩と詩情の混同は見過ごせません(なにかの詩 
にあったような気分にひたるのが詩情、既成の言葉で言い表せないものごと を 
言葉で 言い表すのが詩、だと思います)。
 辺見さんには「もの食う人々」という有名な本がありますが、私はその向こう 
を張って「もの言う人々」の一席をやってみました。失礼の段重々お詫 びします。

 日本語は牢屋です。脱走を企てたいと思います。


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