[CML 010343] Re: 追伸: 村上春樹の「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」というスピーチについて(少し遅い感想)

hagitani ryo liangroo at yahoo.co.jp
2011年 6月 22日 (水) 17:17:28 JST


東本さん、いただいたコメントに対し、私の再コメントではちょっと正面からの
お答えにはなっていないので、少し補足します。

東本さんのコメントのうち、特に私に向けられたのは次の部分です。
>
> 追記:
> 萩谷さんは「自然のうちに神の声を聞くことこそ、全体主義の根源なので
> す」(CML 010312)と辺見庸
> を批判されていますが、辺見の「『ひとよ、われに恐懼せよ』、あるいは『ひ
> とよ、おもいあがるな』」とい
> う表現は隠喩表現と解してよいものです。辺見は実際に「神の声を聞」いてい
> るわけではないでしょう。
> 「非情無比にして荘厳なもの、人智ではとうてい制しえない力」を目前にして
> おのれの識閾下のそのあ
> わいのところで囁かれるおのれならぬおのれの声をこのように表現したもので
> しょう(人間ならばその
> ような経験はそのことに気づくかどうかは別の問題として誰にでもあることで
> す)。それを実際に「神の
> 声を聞くこと」のように解釈するのは誤読以外のなにものでもないだろうと私
> は思います。「気をつけた
> いものです」。
>
>
  隠喩とのことです。

  私は知人の某がイスラエルの情報を盲信するから、あいつはイスラエルの犬
さと言います。これが隠喩。イスラエルの言うことを犬みたいに聞くや つだ
ね、ならば直喩。
  直喩であれ隠喩であれ、その言葉の指示する意味とはべつの存在を、その言
葉で象徴的に言い表しているのですね。
  いったい「ひとよ、われに恐懼せよ」のどこが、何かべつのものを、どんな
ふうに象徴的に言い表しているのかご説明ください。

  実際に神の声を聞いたら預言者にでもなるのでしょうが、辺見氏はそういう
ことは言っていないはずです。また、私はそんな批判をしているのでは ありま
せん。
  だからといって、これが隠喩ですか?
  私はむしろ逆に、預言者でないものが預言者然と語るのがおかしいと思います。

 あなたの解説にある「おのれならぬおのれの声」というのは、神の声にならな
いでしょうか。

 「人間ならばそのような経験はそのことに気づくかどうかは別の問題として誰
にでもある」そうです。私はそのような経験はもちませんが(気づくこ とがな
いのでしょう)、そういう 体験を否定したのではありません。
 これは私の希望をこめた推測ですが、宗教にならずに、そういう体験をするこ
とは、可能でしょう。おそらくこの点で東本さんと考えに違いはないよ うな気
もします。

 私の考えでは、おのれならぬおのれというのが、すなわち神です。それも、あ
らゆる神概念のなかで、これが最後まで否定し得ずに残るはずです。
 人間が人間であるかぎりは、それは変わらないでしょう。
 それは人間性の極限ですから。それがインドで言われるブッダであり、精神分
析で言われる超自我ですから。
 私は人類のうちに超人類が出現しつつあると考えることもできるのではないか
と思っていますが、超人類であっても、こういう内なる神はなくならな いで
しょう。むしろますます確固としてくるかと思います。私は超人類ではないか
ら、そんなことをどうとも言えないのでしょうけれども。

 さて、そういうことならば、辺見さんがそういう「神」からのメッセージを聞
いても、おかしくはありません。私もそういうことを非難しているので はあり
ません。
 私が指摘したいのは、東本さんのことばを借りるならば、辺見さんが「おのれ
ならぬおのれ」と思っているのは、ほんとうに「おのれならぬおのれ」 なのか
どうかということ、そしてそれと無関係ではないのだろうが、そのメッセージの
内容がよくないということです。
 岩手県や宮城県、あるいは福島県に住むことが、思い上がりと呼ばれ、処罰の
対象とすらなっているのは、不当ではないでしょうか?
 極度の重大な体験のなかで、おのれを規定してくる文化に対して冷静さを失わ
ずにいられたら、素晴らしいのではないでしょうか。
 人間は受信機みたいなものです。でも、どんな電波が飛び込んでくるか、わか
らないではありませんか。さる筋からの悪質なプログラムが入ってくる こと
だってあると思います。そういうのに限って、私たちにはなじみ深いものです。

 辺見氏は、おのれならぬものと思いなすものに仮託して、あらかじめあった自
分の思想を語っているだけかもしれません。そんなことを「隠喩」など と呼ぶ
修辞学の本があっ たら、ご教示ください。

 これはまた別のことですが、宗教をもつ人と話をしていて感じることですが、
おのれの内から現れる神と、宇宙を作った神、あるいは自己の属する集 団の守
り手としての神はあま りに往々にして混同されています。そして、外部の自然
に神を見て取ったりします。
 それは危険なことでしょう。
 そういう混同こそ、人に往々起こることだと思います。

 辺見庸という人も、東本さん引用の文章のなかで、そういう危険に近づいてい
ると私は思うのですが、東本さんはどうも護教論的な立場のように見受 けます。
 
 東本さんが辺見庸を引用したのは、村上春樹に比べて優れているという理由か
らでした。村上春樹には倫理の根源を問う資格などないが、辺見にはあ ると
おっしゃりたいのだと思います。 
 私は、最初に言ったとおり、村上批判においては東本さんに異論はなく、ま
た、辺見のほうが村上より真摯におのれの思うことを述べている と言う点にも
同意しますが、辺見庸の文章にも不当さが感じられ、村上春樹を否定す る根拠
として自信をもって肯定できるものとは思えません。
 これまで私の述べてきたことに非があるとすれば、彼を否定するに急だったこ
とかもしれません。東本さんのコメントを素直に読むかぎりでは、私は 多少の
留保をつけるのが妥当かもしれません。

 ただし、改めて、名文美文には「気をつけたい」ものだと思います。



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