[CML 010312] Re: 追伸: 村上春樹の「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」というスピーチについて(少し遅い感想)

hagitani ryo liangroo at yahoo.co.jp
2011年 6月 20日 (月) 21:42:28 JST


東本さん、外野の萩谷です。

村上のことばが安っぽい不純なものだという批判には全面的に同意します。
しかし、あえて言わなければならないと思うから言いますが、辺見庸の文章が優
れているとは思いません。
これは、日本主義は狭いからカトリックや仏教になりましょうという類と同じで
はないでしょうか。
辺見氏はきわめて当然に、自然の威力になぎ倒された人間達が全体主義に走る可
能性を指摘しています。
しかし、自然のうちに神の声を聞くことこそ、全体主義の根源なのです。
なぜなら、それはおそらく、自然には善悪はないという単純で根本的な事実を看
過しているからでしょう。これは、宗教について、また倫理について、 偽りな
く考えようとすれば、必然的にわかる事実です。
私は自分などの言うことが東本さんその他のひとを説得できると思い上がるつも
りはありませんから、これ以上くだくだしくは言いません。
参考までに、ギュイヨーの「義務も制裁もなき道徳」を推薦します。

(11/06/20 1:35), higashimoto takashi wrote:
> ■3月16日北日本新聞 辺見庸「震災緊急特別寄稿」
> http://blog.goo.ne.jp/sizukani/e/0ddcbff19adac5a8f6851b2372d1f6cd
>
>  風景が波とうにもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめい
> て消えた。わたしの生まれ
> そだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあが
> り、うずまき、揺さぶり、たわみ、
> 地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いか
> かってきた。
>
>  その音はたしかに眼前の光景が発しているものなのに、はるか太古からの遠
> 音でもあり、耳の底の幻
> 聴のようでもあった。水煙と土煙がいっしょにまいあがった。
>
>  それらにすぐ紅蓮の火柱がいく本もまじって、ごうごうという音がいっそう
> たけり、ますます化け物じみた。
> 家も自動車も電車も橋も堤防も、人工物のすべてはたちまちにして威厳をうし
> ない、プラスチックの玩具
> のように手もなく水に押しながされた。
>
>  ひとの叫びとすすりなきが怒とうのむこうにいかにもか細くたよりなげに、
> きれぎれに聞こえた。わたし
> はなんどもまばたいた。ひたすら祈った。夢であれ。どうか夢であってくれ。
> だが、夢ではなかった。夢よ
> りもひどいうつつだった。
>
>  それらの光景と音に、わたしは恐怖をさらにこえる「畏れ」を感じた。非情
> 無比にして荘厳なもの、人智
> ではとうてい制しえない力が、なぜか満腔の怒気をおびてたちあがっていた。
> 水と火。地鳴りと海鳴り。
> それらは交響してわたしたちになにかを命じているようにおもわれた。たとえ
> ば「ひとよ、われに恐懼せよ」
> と。あるいは「ひとよ、おもいあがるな」と。
>
>  わたしは畏れかしこまり、テレビ画面のなかに母や妹、友だちのすがたをさ
> がそうと必死になった。これ
> は、ついに封印をとかれた禁断の宗教画ではないか。黙示録的光景はそれじし
> ん津波にのまれた一幅
> の絵のようによれ、ゆがんだ。あふれでる涙ごしに光景を見たからだ。生まれ
> 故郷が無残にいためつけ
> られた。
>
>  知人たちの住む浜辺の集落がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街
> がいとも簡単にえぐりとら
> れた。若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所などどこ
> にもない。磯のかおり。け
> だるい波の音。やわらかな光・・・。一変していた。なぜなのだ。わたしは問
> うた。怒れる風景は怒りのわけ
> をおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。
>
>  津波にさらわれたのは、無数のひとと住み処だけではないのだ。人間は最
> 強、征服できぬ自然なし、人
> 智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰にも、すなわち、さしも長き
> にわたった「近代の倨傲」に
> も、大きな地割れがはしった。とすれば、資本の力にささえられて徒な繁栄を
> 謳歌してきたわたしたちの日
> 常は、ここでいったん崩壊せざるをえない。わたしたちは新しい命や価値をも
> とめてしばらく荒れ野をさま
> ようだろう。
>
>  時は、しかし、この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」
> とを、じょじょにつくりだすことだろ
> う。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようにことなるのか、いまは
> しかと見えない。ただはっき
> りとわかっていることがいくつかある。
>
>  われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろ
> う。逆にいえば、非倫理的な
> 実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇
> 気といった、いまあるべき徳
> 目の真価が問われている。
>
>  愛や誠実、やさしさはこれまで、安寧のなかの余裕としてそれなりに演じら
> れてきたかもしれない。けれ
> ども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の
> 「個」が、愛や誠実ややさしさを
> ほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかでなく、非常事態下、絶対
> 的困窮下で、愛や誠実の
> 実現がはたして可能なのか。
>  家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者た
> ちに、みずからのものをわ
> けあたえ、ともに生きることができるのか、すべての職業人がやるべき仕事を
> 誠実に追求できるのか。日
> 常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこに
> かかわることだろう。
>
>  カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも制する
> ことができない、この世に生き
> ることの不条理はどうあっても避けられない、というかんがえだった。カミュ
> はそれでもなお主人公のベル
> ナール・リウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさを
> かたらせている。
>
>  混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなく、他にたいしいつもよ
> りやさしく誠実であること。
> 悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実で
> あれという、あきれるばか
> りに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深
> 玄である。
>
>  いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよ
> う。あんなにもたくさんの死を
> のんだ海はまるでうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろ
> う。そうしたら、わたしはもう
> いちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。いったい、わたし
> たちになにがおきたのか。こ
> の凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。
>  わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげな
> ものを。あぶない集団的
> エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめな
> い狭隘な団結。歴史がそれ
> らをおしえている非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異
> 議をとなえるのも、倫理
> の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれ
> ば平らかになるだろう。安
> らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばな
> らない。かんがえなくては
> ならない。
>
> (2011年3月16日水曜 北日本新聞朝刊より転載)
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