[CML 010298] 追伸: 村上春樹の「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」というスピーチについて(少し遅い感想)

higashimoto takashi higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2011年 6月 20日 (月) 01:35:47 JST


村上春樹の薄っぺらな文章に対比する形で良質な文章の例として引用しようと思っていた文章に東日本
大震災後の3月16日付けで北日本新聞に掲載された辺見庸の文章があります(添付をしようと思ってい
て亡失していました)。辺見もやはり大震災後の人間の倫理の問題について語っているのですが、その
現実を見る「眼の探索」の深さはこれこそ本来の作家のものというべきものです。私は辺見の眼の確か
さに改めて頭を深く垂れます。そして、辺見と同時代人であることを心強く思います。

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■3月16日北日本新聞 辺見庸「震災緊急特別寄稿」
http://blog.goo.ne.jp/sizukani/e/0ddcbff19adac5a8f6851b2372d1f6cd

 風景が波とうにもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれ
そだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、
地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。

 その音はたしかに眼前の光景が発しているものなのに、はるか太古からの遠音でもあり、耳の底の幻
聴のようでもあった。水煙と土煙がいっしょにまいあがった。

 それらにすぐ紅蓮の火柱がいく本もまじって、ごうごうという音がいっそうたけり、ますます化け物じみた。
家も自動車も電車も橋も堤防も、人工物のすべてはたちまちにして威厳をうしない、プラスチックの玩具
のように手もなく水に押しながされた。

 ひとの叫びとすすりなきが怒とうのむこうにいかにもか細くたよりなげに、きれぎれに聞こえた。わたし
はなんどもまばたいた。ひたすら祈った。夢であれ。どうか夢であってくれ。だが、夢ではなかった。夢よ
りもひどいうつつだった。

 それらの光景と音に、わたしは恐怖をさらにこえる「畏れ」を感じた。非情無比にして荘厳なもの、人智
ではとうてい制しえない力が、なぜか満腔の怒気をおびてたちあがっていた。水と火。地鳴りと海鳴り。
それらは交響してわたしたちになにかを命じているようにおもわれた。たとえば「ひとよ、われに恐懼せよ」
と。あるいは「ひとよ、おもいあがるな」と。

 わたしは畏れかしこまり、テレビ画面のなかに母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。これ
は、ついに封印をとかれた禁断の宗教画ではないか。黙示録的光景はそれじしん津波にのまれた一幅
の絵のようによれ、ゆがんだ。あふれでる涙ごしに光景を見たからだ。生まれ故郷が無残にいためつけ
られた。

 知人たちの住む浜辺の集落がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街がいとも簡単にえぐりとら
れた。若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所などどこにもない。磯のかおり。け
だるい波の音。やわらかな光・・・。一変していた。なぜなのだ。わたしは問うた。怒れる風景は怒りのわけ
をおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。

 津波にさらわれたのは、無数のひとと住み処だけではないのだ。人間は最強、征服できぬ自然なし、人
智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰にも、すなわち、さしも長きにわたった「近代の倨傲」に
も、大きな地割れがはしった。とすれば、資本の力にささえられて徒な繁栄を謳歌してきたわたしたちの日
常は、ここでいったん崩壊せざるをえない。わたしたちは新しい命や価値をもとめてしばらく荒れ野をさま
ようだろう。

 時は、しかし、この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」とを、じょじょにつくりだすことだろ
う。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようにことなるのか、いまはしかと見えない。ただはっき
りとわかっていることがいくつかある。

 われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な
実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳
目の真価が問われている。

 愛や誠実、やさしさはこれまで、安寧のなかの余裕としてそれなりに演じられてきたかもしれない。けれ
ども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさを
ほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかでなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の
実現がはたして可能なのか。 

 家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわ
けあたえ、ともに生きることができるのか、すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日
常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。

 カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも制することができない、この世に生き
ることの不条理はどうあっても避けられない、というかんがえだった。カミュはそれでもなお主人公のベル
ナール・リウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさをかたらせている。

 混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなく、他にたいしいつもよりやさしく誠実であること。
悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばか
りに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である。

 いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよう。あんなにもたくさんの死を
のんだ海はまるでうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろう。そうしたら、わたしはもう
いちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。いったい、わたしたちになにがおきたのか。こ
の凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。 

 わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的
エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれ
らをおしえている非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理
の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば平らかになるだろう。安
らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくては
ならない。

(2011年3月16日水曜 北日本新聞朝刊より転載)
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東本高志@大分
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