[CML 010959] 再論:小出先生の「大人が食べなければならない」、レスポンス

Yasuaki Matsumoto y_matsu29 at ybb.ne.jp
2011年 7月 26日 (火) 21:37:34 JST


みなさまへ   (BCCにて)松元

《再論:小出先生の「大人が食べなければならない」、レスポンス后

最近も小出先生は、「汚染食品の流通には反対しない」として「大人が食べるべきで、子どもに食べさせてはならない」「そのために食品汚染の測定値を政府、東電が計測し公表しなければならない」と持論を述べています。

5回目は、ライターで翻訳家の小椋優子さんからの私信を紹介します。

ウラン鉱山で知られる人形峠出身の小椋優子さんは、『チェルノブイリ――大惨事が人びとと環境におよぼした影響』を翻訳している、翻訳者グループ「チェルノブイリ被害実態レポート翻訳プロジェクト」に参加しています。http://chernobyl25.blogspot.com/

また下記の冊子を手作りして福島の人々に頒布したり東京で販売したりしています。この分かりやすい冊子はすばらしい出来具合だと思います。放射能に対する彼女の姿勢を現わしていますし、必読です!

●YA BASTA(もうたくさんだ)放射能―セルフディフェンスで生きのびよう!http://ya-basta-nukes.tumblr.com/
福島の方々に配布するのは大歓迎だそうです。(ご一報を小椋さんまで。yoyoyo at triton.ocn.ne.jp )


※配信者(松元)の意図については、6月21日の「レスポンス機廚鬚翰ください。

======以下全文転載======

小出先生は被害を最小限にするために、「大人は食べなければならない」とおっしゃっているようですね。これは、大人たちが子どもの暮らしと離れ、福島第一原発近くに大の大人みんなで集まって、血肉滴るステーキやら新鮮なミルク飲み放題の牛乳バー、もぎたてフレッシュフルーツとハーブティー、海の幸がキラキラと乗っかったお寿司などなど、放射能汚染が懸念される食べ物を楽しむのであれば、大いに意義あることと思います。こうすることにより、福島の旅館、ホテルなど観光業も繁盛し、被災地復興にもつながるかもしれません。

しかし残念ながらというべきか、今のところ、大人というのは、全国にまんべんなく、散らばっております。そして彼ら彼女らは、子どもと一緒に暮らしていることも少なくありません。

まず、汚染されたものを大人は食べるべきで、子どもは食べてはいけない、とされた場合の家族の食卓をちょっと想像してみてください。大人がジュウジュウと血肉滴るステーキやら炭火で焼いた香ばしい香り漂う秋刀魚をつっつく、すぐその横でうまそうに漂う匂いだけをかぎながら、あれは食べてはいけないのだといわれながら育つ子どもは、それが善意に基づく行為だとわかってくれるものでしょうか。いつか盗み食いをしてそれら汚染食物の実に美味なことを知り、大人に憎しみや不信感を抱くようになって、汚染食品の隠れ食いを始める気がするのですが。いや、大人のほうがまず隠れ食いをするべきかもしれないけれど、それこそ見つけた子どもは、自分の親の姿にショックを受ける気がします。

私は「大人は汚染されたものを食べるべき」とすることで、食卓の風景も家族のあり方も、すさんだものになってしまう気がします。大人になってから、といわれて目の前のおいしそうな食べものを我慢し続ける子どもはいつか、海外に行けばいいのだと気づき、日本脱出を考えるようになるかもしれない。(そのほうがいいという場合も大いにありえますが。)とはいえ核家族化が進み、個食だ、いや孤食だなどといわれる今、食卓の風景など小さなことでしかないのかもしれません。


では今の福島第一原子力発電所を考えてみます。事故の収束に向けて作業員たちが原発で駆けずり回っているのは、できるだけ被害を最小限に減らすことを目的にしてのことでしょう。放射性物質ができるだけ拡散しないように、可能な限り封じ込めるようにということで、収束の作業を進めているのだと思います。

さて、小出先生は「汚染された食べ物を、大人は食べるべき」と同時に、「汚染食品の流通はやむをえない」とおっしゃっている。全国に散らばった大人が食べるために汚染した食べものを流通させることは、確実に放射性物質を拡散させることになる。これは原子力発電所事故収束の目的と、まったく逆の効果を生むことになります。汚染も、それによる被害も、汚染食物の流通により拡大することになります。

現在、国が発表している食べものの測定値は、野菜であれば洗浄したもの、魚であれば内臓やら頭やら骨の部分などの廃棄する部分を除いた可食部のみの値だということです。流通する食べ物には野菜であれば土がついているでしょうし、魚であれば内臓やら頭やら骨やらもそのままです。ということは、流通される汚染した食べものは測定値として発表されるのより、ずっと高い値の放射性物質が含まれている可能性が高い。西ドイツではかつて、市民の所有するガイガーカウンターによって、チェルノブイリ事故により汚染した大量の粉ミルクを運ぶ貨物列車が発見されたことがありましたが、汚染された食べものは、程度によっては汚染物質とみなしていいでしょう。


誰かが「汚染されたものを食べる」ことを認めてしまえば、食べる人だけでなく、汚染された食べ物にかかわる人たちすべてにリスクを与えることになります。汚染した土地で作物を育てる人、収穫する人、加工する人、運搬する人、調理する人、一緒に食事をする人、残飯を処理する人、排泄物を処理する人、下水道業者、すべてです。こうした作業にかかわる人は、若かろうが年取っていようが、放射性物質にさらされることになる。汚染されたものを食べた人が死んで、火葬場でその体を焼けば、弔いの列に訪れた孫やひ孫にまで、放射性セシウムだのストロンチウムだのを含んだ空気を、スゥと吸い込ませることにもなる。

特に危険が高まるのは、汚染した作物を育てている地帯の人たちです。チェルノブイリのときに作付け制限が行われた理由のひとつは、どうせ汚染したものしか収穫できないから、というだけではなかった。ガッ、ガッと鍬を入れるにせよ、あるいはドドーッと耕運機を乗り回すにせよ、放射性物質だらけの土地を耕すことで土ぼこりは縦横無尽に舞い上がる。この汚れた大気を吸引するリスクを減らすというのも作付けを制限する大きな理由のひとつだったそうです。舞い上がった放射性物質を吸い込むのはまず、作業をする農民であり、その田畑のそばに住む人々も、即、放射性物質をたくさん含んだ大気を吸い込むことになるわけですから。

福島で土地を耕す人、福島に住む人のリスクを高めたままにしておいて、「福島の野菜を食べて支援しよう」などというのは、「命より金」を優先させているとしか思えない。まさにそれは原発を推進してきた価値観と同じものではないでしょうか。もちろん、金銭面の支援はすべきです。しかし本当に支援したかったら、流通業者や小売店に多額のマージンを与えた上でちょっぴり残るぶんを農民たちに、しかもリスクにさらしたうえで、という支援でなく、直接農家にお金が渡るようなやり方でのほうが、ずっといいと思います。


「汚染されたものを食べる」ことは、汚染地域の農民一家の移住決定を遅らせることにもなる。消費者に購入されないかもしれない、まともな値がつかないかもしれない、とうすうすは思っていても、作らなければ賠償金をもらえないからと、汚染レベルのずいぶん高い土地で耕作を続けている農民たちは多いようです。しかし「消費者たちは汚染されたもの、もしくは汚染の疑いのあるものは食べない」とはっきりすれば、安全な土地に移り住む決断をする人も出てくるでしょう。いくらリスクがあっても出荷できなくても住み続けたい、社会から離れて自給自足の暮らしをするのだという人たちは別として、新しい場所での生活を始めるための十分な保障と支援の体制を整えた上で、汚染地帯からはキッパリと移住してもらい、安心できる食べ物を作ってもらうほうが、生産者も消費者も危険は減らせると思うのです。それはとても農業従事者には大きく、残酷な選択ではありますが、新しい土地で思いもよらぬ幸せな暮らしが待っていないとも限らない。西日本には大規模な過疎地も少なくありませんし、汚染の値によっては、村単位での集団移転を考えてもいいと思います。


そして哀しいことに、小出先生の言葉に影響を受けるのは、まじめに原発に反対してきた人のほうだと思うのです。先生の発言を聞いて、原発をなくそうとしてきた人たちばかりが、汚れたものを率先して食べるということになりそうな気がしています。小出先生のいう「大人」という言葉を字面どおりに捉え「俺はもう大人」などとませた若者が汚染したものを食べて病む、あるいは将来の健康不安におびえる。そうでなくても汚染した食べ物を避けることに良心の呵責を抱いて「自分はなんて薄情な人間なのだ」と自己嫌悪に苦しむ。

その間、原発を推進してきた人たちは「大人が食べるべき」という言葉など意に介さず、輸入食品をあっちこっちから取り寄せて、舌鼓でも打っているかもしれません。事故後、推進派の人のほうが、福島からさっさと逃げたという話も小耳に挟んでいます。(それについては考え方の問題というよりは、そういう人たちのほうがお金を持っていたということかもしれませんが。)私はどうもこれが納得いかない。原発を推進してきた人や、こっそり見て見ぬふりをしてきた人が危険を免れ、原発をだめだだめだといい続けてきた人が食べなければとなってしまう、これでは腑に落ちない。核に反対する何世代にも小出先生の影響力が及び、大人ならば放射能に汚染されたものを食べるべきだという動きが続いてごらんなさい、思想は遺伝しないといっても、核に異議を唱える人のほうから全滅してゆくことでしょう。放射能による健康被害は大人にだって、がんに限らずいろいろと出てくるものらしいということも、小出先生ならご存知のはずです。


食べものをもっと徹底して測定すべきだという小出先生の意見には大賛成です。汚染をよその国に押し付けるべきではないということについても、無論そうだと思います。しかし汚染したものを食べるべきかどうかについては、流通その他の問題をおいておくとすれば、年齢で決めるのではなく、原発を推進してきた人のほう、放射能は安全だという人のほう、原発で発電された電気をたくさん使う人のほうから本来であれば食べなくてはならないと私は思うのです。これを実現させるため、食べ物に測定値をつけるように、人間のほうに年齢以外の数値をつけてゆくのがいいでしょう。この人は原発推進度80/放射能安全発言30/原発電気使用度50、あの人は原発推進度マイナス30/放射能安全発言0/原発電気使用度0.1…というように。そして原発推進度が高く、放射能は安全だという発言が多く、原発で発電された電気を多く使う人ほど、汚染の値の高いものを食べるべきだとする。そうすれば責任を負うべき人が負うことになり、道理にかなっている気がするのです。


しかしこのように、一人ひとりを判定して数値をつけていくのは手間がかかります。原発を推進してきたけれど今回の事故をきっかけに誰よりも熱心な反対派に鞍替えしました、どうかお目こぼしを、というような、判定しづらい人だっているでしょう。実際には不可能だろうと思います。

この煩雑な手法に比べれば、年齢で食べる食べないを決めることはずいぶん簡単です。この世の中を作ってきたのは大人だと思いますから、引き受けるなら子どもよりは大人だというのも、いくらか理解できる気はします。一番食べるべきは放射能の影響からして、やはり老人ということになりましょう。

しかし老人といえば痴呆の人や思うように体の動かない人など、自分で食事をできない人が多いのもまた事実。いろいろのことを自分でできなくなった人たちに対して汚染食品を押し付けるようなことになりかねなくて、それはまた違う意味で恐ろしいことのような気がするのです。


では、誰が食べるべきか。その話をする前に、まずは事故などなくともこの国が廃棄し続けてきた大量の食料をどうにかすべきだと思います。日本の食料自給率は低い低いといわれますが、家庭から出る残飯の総額は、日本全体で年間11兆円であり、これは日本の農水産業の生産額とほぼ同額で、さらにその処理費用で、2兆円が使われているという。しかも日本人は必要なカロリーより20%も多く摂取しているらしい。それなら無理して汚染されたものを食べる前にまず、捨てる量はもちろんのこと、食べる量も減らすことを考えるべきではないか。仮に汚染されたものを原発推進派に食べてもらうにしても、反対派はのうのうときれいな野菜を食べ続けるのでなく、時々くらいはハンストをするのも悪くないと思います。


そしてせっかくのこの機会、世界の食料配分を見直しましょう。世界の食糧供給事情は「過剰」の一言につきる。今日の世界では小麦や米などの穀類だけで全人口に毎日3,500カロリーを提供できる量が生産されている。(※)食糧が足りないのではなくて、金のある国が食べ過ぎ、飢えた国は奪われすぎているのです。日本は今、久々に、飢える国の人たちの気持ちを実感できるようになったのですから、この不公平について考え、真摯に取り組むチャンスです。そして飢えた人たちから奪うことなく、汚染の度合いの比較的低いものを選べる方法を編み出してゆければ、前向きな一歩になると思います。

今は非常事態です。特別なときなのだから、特別なやり方で対処していい。怪我や病気をした人が休養するように、食品の測定体制が整うまでは、汚染地域に住む農業従事者たちは生活の保証を得たうえで、様子見にお休みするというのもありだと思います。安心できるものばかりだとはっきりわからなければ、原発からの距離が近いものから、売れなくなるでしょう。汚染の値が高いものを食べなければどうしても食べものが足りないということなら、ほかの国に頭を下げて、これだけあれば日本人は生きていけるというぶんを、期間限定でお願いしていいと思います。

(ただしここで安直に、輸入を促進するTPPのような条約を結んでしまうと、東北どころか日本の農業すべてが壊滅しかねません。他国に食糧をお願いするにしてもたとえば今年いっぱい、と期日は決めておくべきです。安心できるものがわからない状態が続けば、日本人は国内産のものに手を出さなくなり、条約など結ばなくても実質的に輸入ものばかりが出回ることになってしまいます。)

海外から支援を乞うにしても、できるだけ日本にいる自分たちの力で、比較的汚染の値の低いものを選べる努力し続けるのが理想だと思います。実害のみならず心労、徒労に疲れた東日本への金銭的な支援は続ける必要がありますが、むしろ汚染の少ない西日本の農家をもっと応援したい。西日本の人たちに、福島をはじめとする汚染の危ぶまれる地域に西日本産の食べ物がいきわたるほどに、これまでよりたくさん食べ物を作り育ててもらいたい。農業の担い手が足りず以前から困っている過疎地などは、被災した人たちを定住させるための体制を整え、そのことを宣伝するとよい。東日本のものについては、一刻も早く汚染の測定を徹底させるとともに、今の甘すぎる「暫定」基準値でなく、世界基準に照らしてみても納得・安心できる基準値を定めなければ、いつまでたっても売れないままだと思います。

人が住めるか住めないかというぎりぎりの汚染地域は、文字通りホットスポットとして汚染されたものを食べるための特別区にするのはどうでしょう。汚染拡大となる流通は許さないで、覚悟の決まった人しか住まわせない地域を作るのです。今すでにある施設や旅館、ホテルなどの看板を取り替え、年老いた人たち、死を目前にした人たちの桃源郷にしましょう。ホスピスと老人ホームのスペシャル豪華版といえばわかりやすいのかもしれませんが、もっと自由な、東京で言えば巣鴨のような地域をイメージしていただければと思います。

病んでも死んでもいいから、福島のおいしいものを食べたいという美食家たちも集めましょう。老人でなくても、原発を推進してきた、あるいは黙認してきた私も責任とって汚染したものを食べますという人がいるなら迎え入れましょう。ほかの場所では安心して食べられない豪華で新鮮なおいしい料理を、お年寄りと余命いくばくもないと宣告された人たち、食通たちや原発事故に自責の念を感じる人たちで満喫しつつ、花を愛で鳥と戯れ、宴の日々をすごしましょう。

この特別区が、お年寄り憧れの聖地となるよう、年輩好みのものを揃えましょう。幸い福島にはラドン温泉、桜の公園に紅葉の名所、美しい海があり山がある。いまや世界的にも歴史的にもその名を轟かせる福島第一原発がある。冥土の土産にぜひ一度とうたえば、日本のみならず世界中からお年寄りが集まるかもしれない。いまどきのお年寄りは元気な方も多いから、お店も旅館も病院もお年寄りたちで運営すればよいのです。

お年寄りが歌も踊りも楽しめる場所にもいたしましょう。映画「フラガール」に見るとおり、かつて福島は石炭から石油というエネルギーシフトによって炭鉱労働者たちが職を失い、その苦境にへこたれず、フラダンスを華やかに踊る人たちがいました。今回また新たなエネルギーシフトが福島から始まろうとしている、その契機づけに、今度はお年寄りたちがあっちこっちで踊りだすような場にしたいもの。「フラ爺ル」なんて名前をつけてもいいかもしれない、いやそれでは婆さまからすれば男女差別といわれてしまうかもしれませんけど。お年を召した歌手や音楽家を招いて、音楽会を開いたりするのもいい。ジャンルは何でもいいと思います。慰問コンサート慣れした演歌歌手もいいでしょうし、チャリティー好きのお年を召したロックンローラーも海外にたくさんいらっしゃいます。

年老いた学者や医師が集う、世界に類のない放射能研究機関や医療機関、実験場も設置しようではありませんか。チェルノブイリ事故で実態とはかけ離れた報告をし被害者たちを激怒させたIAEAなどに調査を任せるのでなく、そこに住む人たち同士で健康調査をして記録をつけ、信頼できるデータを特別区の住民たちの手で作りましょう。誰一人お目にかかったことのないような動物や植物が出現したら、お年寄り仲間で手にとって、冥土の土産の大発見を大いに楽しむこともできましょう。野口英世を生んだ福島、やがては長寿のノーベル賞受賞者が、実験環境に恵まれたこのユートピアから出現するかも知れません。

死を目前にした人たち、お年寄りたち、命知らずの者たちの、自然にかこまれた美しく楽しげで知性にあふれた暮らしを時々報じることで、やがて世界中の人々が「私もいつか年をとったら福島のあのあたりに住みたい」などと考えるような、憧れの地になるかもしれません。あまりに素敵な暮らしぶりに、「あら原発事故って、ちょっといいかもしれないわ」などと思う人が出てこない程度であればと思いますが。


などと、先のことについて考えるとどこまでも妄想はふくらみますが、今まず考えるべきことがあります。

まずは線量の高い地域に住む子どもたちを避難させなければなりません。戦時中にできた疎開政策が、なぜ今の日本ではできないのか、いや、やらないのか。何か特別な意図でもあるのでは、と勘ぐってしまいます。できれば若い人や女性も避難させるのが望ましいように思います。それがすぐにできないというのであれば、せめて汚染の度合いの高い地域にこそ、汚染の少ない食べものを流通させるべきだと思います。日夜危険にさらされ続けている原発作業員の方々についても、いいものを食べさせてあげられたらと思います。かつて会津の農民たちが成功させたヤーヤー一揆の精神を持って、福島に住む人々を先頭に、要求達成まで日本人は、声を上げ続けるべきだと思います。

さて、私はかつてウラン鉱山であった人形峠のある三朝町で育ちました。ウラン残土の堆積する東郷町に住んでいたこともあります。小出先生があの辺鄙な過疎地に何度も放射線量の測定に訪れてくださったことについてはもちろんですが、三朝町民に対して「ラジウム、ラドンが健康にいいとしてそれを売り物にする行為は犯罪とでも言うべきもので、無知ゆえの愚かな行為」、ウラン残土でできたレンガで歓迎塔を作り、2万個のレンガで公園を作ったことを「あまりに愚かだ」とはっきりおっしゃってくださったこと、三朝町の出身者として、本当にありがたく感じています。このような人がいてくれたことを神に感謝したい。(今回の原発事故で、そう思ったのは私だけではないでしょう。)


危ないとわかっていながら沈黙を決め込んでいた人たちについては、殴り殺してやりたいと思ったこともありますが、大勢の日本人が同じように見てみぬふりしながら平気で過ごしている今となっては、怒りより幻滅を感じています。しかし私自身、ここのところ、真実を口にするのが恐ろしいと思ってしまう場面たびたびです。同時に、10年後20年後、「どうして教えてくれなかったんだ」「どうして助けてくれなかったんだ」と叫ぶ人々の姿が目に浮かぶようで、いても立ってもいられない気持ちになります。そのはやる気持ちを鎮めるために、汚染された食べ物を食べることは、気休めになる気はしますが、実のところその行為を長い目で見れば、何か前向きな作用を果たすわけではないと思います。福島に出向いて、そこに住む人たちと一緒に畑を耕し種を撒き収穫を手伝い、なおかつそれが福島産だという理由で売れないという、そのリスクある現場を体験しつつであれば、それは意義あることにも思えるのですが。


三朝町や福島だけでなく、インド・ジャドゥゴダの先住民や米国のホピ族、ラップランドのサーミ族、コルシカ島やセミパラチンスクの先住民たち、世界のあちこちに、無知だと軽視され危険を知らされぬまま、騙されほうっておかれている人たちがいます。そして、彼らはどうせ引越すこともできないのだから、事実を知らせないままにしておいたほうがよいのだという人もたくさんいます。そういう考えが多数派であるうちは、原発や核をなくすことは難しいでしょう。

そんななか、原発は危ないのだ、放射能は危ないのだ、大丈夫だとか安全だとか思い込んでいるのは愚かなのだと、無知な私たちに手痛い真実を伝え続けてくださった小出先生です。細かいところで多少意見が異なったところで、いくら尊敬しても感謝しても足りないという想いは変わりません。どうか汚染されたものなど食べないで、といったところで今さら聞き入れてくれるとは思えませんが、長生きして、お元気でいてくださいますように。

私は何より、小出裕章さん、あなたのような人に汚染されたものを食べてほしくないのです。 しかしあなたが食べたいというならそれは
止めようがない。言論、宗教、思想の自由とともに、食べものの自由は認められるべきです。ただしこれには放射能だけでなく金銭的な面その他についても、ほかの人のリスクを高めないよう十分に配慮しながらという前提が必要だとは思います。その前提さえ守れば、希望者は食べてよいし、食べたくない人は罪悪感など抱かず、避けてよいと私は思います。


※食糧第一:世界飢餓にまつわる12の神話
http://journeytoforever.org/jp/foodfirst/report/hunger/12myths.html


小椋優子


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