[CML 010759] ヘルマン・へッセを憎む

hagitani ryo liangroo at yahoo.co.jp
2011年 7月 17日 (日) 06:56:34 JST


萩谷です。宗教の中では釈迦の教えが一番優れていると思いますが、悟りを開く 
という気持がないので、仏教徒になりません。

待つことは、大事だと思います。ヘッセも、ただ待っているだけででいいと言っ 
たわけではないと思います。彼自身も、彼なりの仕方で戦争に反対する 文 化人 
の一人として活動したわけで、決して安閑として待っていたわけではないでしょう。

ヘッセのシッダルタは、関口さんの言うのと別の意味でひどい作品です。
言われていることは、実在の釈迦の教えとは無縁です。
あくまでフィクション、それも、多分に味噌も糞も一緒にした、西洋人のイメー 
ジのなかのシッダルタでしかないのです。い ま、西洋人はそれをはるか に超え 
た認識をもっています。

林田さんのおっしゃっていることも、まとはずれです。

釈迦自身は、社会の制度と対立しようとか、差別をなくそうという積極的な考え 
はなかったのではないかと思います。
ただ、彼の到達した視点からは、差別の無意味さはかなり見えたことでしょう。
なにしろ、無我(我は存在しない)、無常(一定不変の存在はない)、すべては 
因縁によって生ずる(関係の結果である)と教えた人ですから。

やや脱線しますけれども、たとえばアマさんというのがいますが、これは釈迦の 
語った日常会話語であるパーリ語でお母さんといういみです。ほんらい は比丘 
尼といっていた女性の僧侶を、ひとびとが親しみをこめてアマと呼んだのが始ま 
りです。マザー・テレサなんていうようなものです。アレクサン ダー大王につ 
いてインドにやって来たギリ シャ人も「インドは高度な文化をもっていて、女 
でも深遠な哲理を論じている」と言ったくらいです(古代ギリシャの哲学者は、 
女には魂があるか ないかを議論したそうですから)。では、男女差別の厳しい 
インドでなぜ、尼さんというものが出現したのか。そこに確かに釈迦の偉大さが 
見られると 思います(瀬戸内寂聴というアマさんは「お釈迦様は女ぎらいで、 
女はさわりがあるから悟りを開けないと言っている」などと、平気で言っていま 
す が、それはいわゆる大乗仏教の経典しか知らない人間のたわごとです。いや 
それ以前に、そもそもなんで尼がというものがいるのか考えてない!!!  そ 
れというのも、悟りというものを神秘化して崇拝の対象にしてしまったからで 
しょう。根本的に堕落しきった宗教です)。

私は手塚治虫の漫画なんかヘッセ以下のレベルで、評価の対象にならないだろう 
と思いますけれども、それは措きます。ヘッセに話を戻すと、彼がシッ ダルタ 
の最後に書いた一種の見性体験は、あまりにも彼個人の経験ばかりを言い過ぎて 
います。彼は同じことを、「内面への道」という小説集のなかの 「クラインと 
ワグナー」にも書いていて、クラインという偉大でもなんでもない人物が自殺す 
るときに、一種の悟りを開くのですが、その ほうが、素直に読めます。シッダ 
ルタはあくまでヘッセのヨーガ体験を東洋趣味で飾り立てた作り物の世界でしょう。

長くなり、恐縮です。ことほどさように、仏教や釈迦の教え(仏教と釈迦の教え 
は別)をめぐっては、百鬼夜行なのです。私自身、 たまたまある新興宗教団体 
の依頼で、フランスの仏教に通じたインテリの間ではよく知られたスリランカ人 
学僧の著書を訳したことがあり、非常にすぐ れた内容だったので、大いに人に 
勧めています。お読みになりたい方は、DMくだされば、個人的にお送りはできます。

 

(11/07/16 21:18), Hayariki.net wrote:
> 興味深い御指摘と思います。
> カースト制度という当時の社会矛盾を何とかしようという問題意識があり、現 
> 実に王子としての生活を捨てました。「決して待っては居なかった」 との御 
> 指摘に賛成します。
> http://www.hayariki.net/pj5.html
> 『手塚治虫のブッダ』カースト制度の苛烈な現実を描く人間ドラマ
> http://npn.co.jp/article/detail/96500462/
>




CML メーリングリストの案内