[CML 007377] 上野千鶴子さんの朝日新聞連載「孤族の国 第1部 男たち」への論評を読む
higashimoto takashi
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
2011年 1月 28日 (金) 19:38:49 JST
上野千鶴子さん(東大大学院教授。ジェンダー学/女性学)が朝日新聞の「耕論(オピニオン)」(2011年1月20日
付)に昨年末から今年の1月6日にかけて同紙に連載された「孤族の国 第1部 男たち」という記事について論
評しています。同連載はその「孤族」という絶妙のネーミングの思いがけなさと地域、また家族の崩壊、格差、貧
困、孤独、孤立・・・といういまという時代の重たい「現実」を反映した重量感のある記事に支えられて静かな評判
となっていました。同紙編集グループがつけたキャプションだと思いますが、同論評の標題は「男よ率直に弱さを
認めよう」。しかし、私は、上野さんのこの論評を読んで「率直に(男の)弱さを認め」る気にはなれません。
まず第一に上野さんの同論評には男とか女とかという問題を超えて、いま現に「孤族」という現実そのものに苦
しみもがいている「人間」への共感の視点が乏しいのです。その「人間」としての、「人間」であるがゆえの「孤族」
と「孤独」の問題を「男」の問題でしかないように矮小化して上野さんは次のようにご託宣します。「連載『孤族の
国』に『老後の世話をしてくれて、みとってもらえる相手が欲しいだけなのに』と嘆く独身の中高年男性が登場し
ました。/こんな虫の良い期待をするから結婚できないんだ、とツッコミたくなりました。女性では考えられませ
ん」。
しかし、上野さんが「ツッコミたくな」るとして挙げるこの「虫の良い期待をする」独身中高年男性は、同記事の中
では「孤独死と隣り合わせの時代。寂しい最期を迎えたくないと、婚活に励む男性たち」の一例として取り上げ
られている一逸話でしかありません(この上野氏のあげる「老後の世話をしてくれて」云々の記事は「『孤族の
国』 男たち」の連載2回目の「還暦、上海で婚活したが」(2010年12月26日付)という記事のようです)。それも
「伴侶を求めて国の外へ目を向ける男たち(略)年間3万人前後」の中の一例。さらに「中高年限定の婚活パー
ティー」に参加する人数不詳の男たち、人口6千人余の岩手県の山村の町がはじめた婚活事業に登録をした
町民十数人、の話を含めた中の一例。そうしたたくさんの「婚活に励む男性たち」の中の一例のみをピックアッ
プして、さも世の男たちのすべてがこのような「虫の良い期待をする」やからであるかのように論を進めていく態
度は決してフェアな態度とはいえないように思います。また、〈事実〉という客観素を最大限重視するのが研究
者の態度であるとするならば、上野さんの態度はそうした真摯であるべき本来の研究者の態度とも相容れない
もののようにも思います。彼女の言論のありようはデマゴギッシュなそれとどれほどの相違があるでしょう?
http://www.asahi.com/special/kozoku/TKY201012260302.html
もちろん、ジェンダー平等の思想がまだまだ深く根づいているとはとてもいないわが国のような社会においては
「老後の世話をしてくれて、みとってもらえる相手が欲しいだけ」などという「虫の良い期待」を持つ中高年男性
は決して少なくないでしょう。もしかしたら多数派かもしれません。そういう意味では上野さんの指摘はあながち
間違いだとはいえません。しかし、それをいうのなら女性も「虫の良い期待をする」独身の中高年男性の低レベ
ルな〈思想〉に相応しい同程度の〈思想〉を持つ同類相憐れむのたぐいの一方の当事者張本人だといわなけれ
ばならないでしょう。平成21年10月の内閣府大臣官房政府広報室の「男女共同参画社会に関する世論調査」
によれば「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきであるか」という問いに対して「賛成」と答えた女性はまだまだ3
7.3%、約40%に及びます(ちなみに「賛成」と答えた男性は45.9%)。女性の〈思想〉も低レベルな男性の
〈思想〉にほぼ相応しているのです。
http://www8.cao.go.jp/survey/h21/h21-danjo/2-2.html
この結果を長年の男性社会によって形成された(させられてきた)女性の負の遺産と見ることはもちろんでき
ます。しかし、現実に男性の低レベルな「虫の良い期待」に相呼応する女性も事実として決して少なくないので
す。上記の「『孤族の国』 男たち」の連載2回目に出てくる「中高年限定の婚活パーティー」歴20年以上の原
泰浩さん(76)は、近年、中高年婚活希望者が急増している理由について「ブームといっても意識には男女差
がある(略)。女性は生活の支えを求める人が多いが、男性は寂しさが理由では」というご自身の経験に基づ
く中高年女性観を述べています。「生活の支えを求め」て婚活する〈思想〉と「老後の世話をしてくれて、みとっ
てもらえる相手が欲しいだけ」という〈思想〉はお互いともにある意味打算的で、かつ「虫の良い期待」という点
では五十歩百歩の〈思想〉と見るべきものだろうと私は思うのですが、上野さんの論にはなぜか婚活希望中高
年〈男性〉に対する批判はあっても同じ婚活希望中高年〈女性〉に対する批判はありません。どういう思想のな
せるわざでしょうか。上野さんの論にははじめから婚活希望中高年〈女性〉は「善なるもの」として措定されてい
るのです。そう見なければ上記の「男女差別」の説明はつきません。私が上野さんの論にまったく説得力を感
じないのは当然なことといわなければならないでしょう。
次に上野さんは「おひとりさまの老後」の問題と「家族」問題について論を進めていくのですが、ここでも上野さ
んは不必要に〈男性なるもの〉を批判しています。上野さんは次のように言います。「男性は弱音が吐けない
上に、新自由主義的な『自己責任論』によって、さらに追い込まれている。それでも自分の窮状を認められず、
わかろうともしない。現実逃避の天才」。「実は家族は、コミュニケーション能力を育てる空間ではありません。
例えば父親は『メシ・フロ・ネル』の3語で足りるような役割が決まっていて、その通りに振る舞えば関係が維
持できていた」。「(男性は)パワーゲームの企業社会のノウハウしか身につけてこなかったから『困っている』
と言い出せない」(同上)。
なんとモノクロームで、古めかしい男性観でしょう。いまどきこのような男性がどれほどいるというのでしょう?
「男性は弱音が吐けない」? 統計的なことはさておいて、私も60歳代に突入しましたが、私の見るところ私
のまわりでも弱音を吐くいわゆる団塊世代の男性はゴロゴロいます。上野さんはおそらく居酒屋(安酒場)の
常連客ではないでしょうからその辺のところはわからないでしょうが、私は安酒場の人一倍の常連客です。日
中はカミシモをつけてなにやらいかめしそうなオッサンたちもここでは弱音と不安を連発します。もちろん、カ
ッコウをつけていることが多く、完全にカミシモを脱いでいるわけではないので弱音は中途半端なものが多い
のですが、中途半端な分メソメソと延々と語る男たちも少なくありません。私は安酒場で日常的にこのメソメソ
話を目撃しています。
最近、若者たちのある種の〈在り方〉を指して〈草食系男子〉という言葉が流行っていますが、この〈草食系男
子〉という言葉も類型として「弱音を吐く」タイプの若者男性の謂いではないでしょうか。〈草食系男子〉の定義
はいろいろあるようですが、「草食系男子とは、心が優しく、男らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、
傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」(森岡正博『最後の恋は草食系男子が持ってくる』)とい
うのがほぼ一般的な定義のようです。「パートナーエージェントが30代未婚男女400人を対象におこなった
調査によると、『どちらかといえば草食男子』(61%)、『完全に草食男子』(13%)と、『自分は草食男子』と
思う男性は75%にのぼった」(ウィキペディア『草食系男子』)ということです。「男性は弱音が吐けない」とい
う上野さんの認識はステレオタイプ(固定観念)以上のものではないでしょう。
上野さんはさらに「(男性は)新自由主義的な『自己責任論』によって、さらに追い込まれている」とも、「父親
は『メシ・フロ・ネル』の3語で足りるような役割が決まってい」たとも言挙げを重ねるのですが、これらの言挙
げも古めかしくかつ幼稚なステレオタイプを超えるものではありません。
いったい父親が「メシ・フロ・ネル」の3語の会話で足りていた時代とはいつの時代のことを言っているのでし
ょう? 先ほども述べたように私はいわゆる団塊の世代の末端の人間ですが、私が知る限りの友人の顔を
総動員しても「メシ・フロ・ネル」の3語だけでこと足りるような夫婦生活をしていた友人の顔はとんと思い浮か
べることはできません。よほど大金持ちのぼんぼんでもなければそんな大層なことは口が裂けても言えない、
というのが世の男性の悲哀?(もちろん、冗談です)。いや、実情というものではなかったでしょうか。下記の
「専業主婦世帯と共稼ぎ世帯の推移」というデータを見ても1992年には共稼ぎ世帯がサラリーマンと専業
主婦の世帯は逆転し、共稼ぎ世帯の方がサラリーマンと専業主婦の世帯を上回っています。夫婦共働きの
家庭ではいくらなんでも「メシ・フロ・ネル」の3語だけではすまされないでしょう。そういう3語だけの会話では
即、離婚の原因になるはずです。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1480.html
また、上野さんは「(男性は)新自由主義的な『自己責任論』によって、さらに追い込まれている」と言うのです
が、新自由主義的な「自己責任」論が男性に特有な思潮のように言うのも事実に反します。「自己責任」論は
小泉政権時代のイラク人質事件に際して興った保守反動の思潮のひとつですが、その「自己責任」論をもっ
とも囃し立てたひとりがほかならないときの小泉純一郎首相その人でした(『週刊朝日』2004/4/30号「『自己
責任』言いたてる 小泉政権の矛盾」)。そして、その小泉政権のとき、いわゆる小泉旋風なるポピュリズムの
嵐が吹き荒れ、そのポピュリズムの嵐の中心的な立役者はワイドショー好きの中高年以上の女性層でした。
このことは当時の各種世論調査に明瞭に記録されています。上野さんはなにゆえにここでも「自己責任」の
思潮を〈男性的なもの〉の責に帰そうとするのでしょう? 理解に苦しみます。
さらに上野さんは次のようにも言います。「孤独死や行旅死亡人が注目され、『家族がいるのになぜ?』とい
う驚きの声が聞かれますが、家族は昔からそれほど頼りになるものだったのでしょうか。いまや家族は資源
であると同時に、リスクにもなる時代。1人でいれば1人で死ぬだけですが、極端な話、家族といれば殺され
るかもしれないのです」(同上)。
しかし、「家族は資源であると同時に、リスクにもなる時代」は、決して「いま」という時代にだけ特有の現象と
いうことはできないでしょう。姨捨伝説や棄老の話は柳田國男の『遠野物語』(1910年)や深沢七郎の『楢山
節考』(1956年)にもあり、その痕跡が物語や小説の形で遺されています。深沢の『楢山節考』は小説ですが、
まったく根も葉もない創作ではありません。信州の寒村の貧困と昔から伝わる説話に材を得たもので、かつ
て日本の各地で起きていたであろう風俗の掘り起こしになっています。柳田の『遠野物語』に出てくる棄老の
話は文字どおりそう遠くない時期の遠野の風習の紹介です。「家族がリスク」であった時代は昔からあった
のです。家族が殺される話もそうです。横溝正史の『八つ墓村』や松本清張『ミステリーの系譜』の小説のモ
デルとなったことでも有名な戦前(1938年)の〈津山三十人殺し〉も犯人の祖母(家族)と近隣の住人30人が
被害者となった家族殺人を含む大量殺人事件でした。家族をリスクとして殺すこうしたたぐいの事件も昔か
ら相当数ありました。
上野さんはこうして「家族がリスク」となった時代がいまという時代である、と恣意的に想定して、いまという
時代は「おひとりさまの老後」の時代だと言います。実は上野さんはこのことが言いたかったのでしょう。上
野さんの「『孤族の国』 男たち」批判は、このことが言いたいためのさしみのツマのようなものでしかなかっ
たのかもしれません。
それはそれとして、上野さんは同論評でご自身の「おひとりさまの老後」の論を展開するにあたって「そもそ
も1人でいることの何がそんなに悪いのでしょうか?」などと反問します。しかし、誰が「1人でいることは悪
い」ことだなどと言っているのでしょう? たしかに一部の右翼論者は「一人暮らし」悪論を展開しています。
しかし、この「一人暮らし」悪論は右翼論者が左翼とフェミニズムを攻撃したいがために展開している為に
する論にすぎず、取るに足らないものです。右翼以外のまっとうな論者で「一人暮らし」を罪悪視する論者
を私は寡聞にして知りません。
しかし、「一人暮らし」悪論を展開する論者は少なくとも、家族間の愛情の大切さを説いてやまない論者は
少なくありません。上野さんはこうした「家族愛」論者に反発して「そもそも1人でいることの何がそんなに
悪いのでしょうか?」と反問しているのでしょう。フェミニズムには「家族は、家父長制と女性に対する抑圧
を存続させる主要な制度である」(『フェミニズム事典』明石書店)とする定義があるようです。そうだとすれ
ば「家族」という制度を解体しないことには真の女性解放もありえないことになるわけですから、いきおい
フェミニズム論者は「家族」批判に向かわざるを得ないでしょう。そして、それが「1人でいることの何がそ
んなに悪いの?」という反問にもなるのでしょう。
しかし、「家族」という〈制度〉を批判することと「家族愛」という〈概念〉を批判することとは違います。〈制度〉
としての「家族」は〈保守思想〉としての「家父長制」と融和的な関係性を持ち、それゆえに「女性に対する
抑圧」制度として機能する側面を強く持っていると私も思います。そればかりでなく「家族」から自立しよう
とする男性、またトランスジェンダーの人々にも強い「抑圧」制度として機能しているとも思います。したが
って家族単位ではなく、「『おひとりさま』を前提に生活や社会を設計し直す必要がある」という上野さんの
意見には賛成です。
しかし一方で「家族愛」論者が家族間の愛情の重要性を説くのは、家族は「夫婦関係を基礎にして、そこ
から親子関係や兄弟姉妹の関係を派生させる人間社会の基本的単位であり、また、人間形成の基礎的
条件を提供する基礎的社会集団」(社会学小辞典、有斐閣)だからです。その家族間のスピリチュアルな
愛情の問題までを「家族」という〈制度〉の問題群のひとつのように回収してしまう考え方には私は賛成で
きません。上野さんと同じように「シングル単位」の家族論、人間関係性を提唱しているジェンダー研究者
の伊田広行さんもそれが〈制度〉としてではなく、スピリチュアルな関係性として機能するのであれば、「家
族」という基礎的社会集団かつ基礎的愛情集団の重要性を必ずしも否定していないように見えます。
ところが上野さんの「家族は昔からそれほど頼りになるものだったのでしょうか」。また「いまや家族は資
源であると同時に、リスクにもなる時代。1人でいれば1人で死ぬだけですが、極端な話、家族といれば殺
されるかもしれないのです」という家族観、あるいは家族批判に私は家族を構成するそのひとりひとりに
対する本来あってしかるべき〈優しいまなざし〉を見出すことはできません。それどころか家族を「資源」や
「リスク」という社会学用語に回収してしまう上野さんのスタンスに私は強い違和感を持つのです。これは
上野フェミニズムの重大な欠点というべきものではないでしょうか。
「孤族の国 第1部 男たち」にはさまざまな男たちの「孤族」が描かれています。妻をないがしろにして
自分勝手に生きてきた男の「孤族」。その身勝手な男は年老いて次のように述懐をします。「半身不随
になり、年老いた今になって切実に思う。妻がいたら、子どもがいたら、と。/『指輪を外されへんのは、
近くに妻がおったらなと思うからかな。結局、自分のことしか考えてない。勝手放題にしてきた僕への罰
ですわ』」(「第1部 男たち11」)。別の老人の述懐。「何より心残りなのは、感謝の言葉を伝えられなか
ったことだ。『優しい言葉、いえないんだよね、俺たちの世代は。だめだね』」(同左)。同記事の中に次の
ような一説も出てきます。「みな、同じような喪失感を味わっている。千葉県柏市の公平(こうへい)敏昭
さん(70)は4年前に、東京都日野市の堀野博資さん(69)は10年前に妻を亡くした。深くて冷たい海
の底にいるよう」。
このそれぞれの男たちの深い「孤族」の言葉。「深くて冷たい海の底にいるよう」な悲しくてどうしようもな
い深いしじまの底からの男たちの嘆息が上野さんには聞こえているでしょうか。聞こえていてなおかつ
「こんな虫の良い期待をするから結婚できないんだ」、とまだまだ思われるでしょうか。もちろん、上野さ
んのツッコミは間違いではありません。いくらでもツッコミを入れてもいいと思うのです。しかし、「虫の良
い期待をする」男は同時に「深くて冷たい海の底にいるよう」な悲しみのぬしでもあるのです。その男た
ちの「孤族」は考えるに値しないでしょうか?
東本高志@大分
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