[CML 007221] 『ヘブロン、占領40年』、シュハダー・ストリートを開放せよ!(再送)
TERAO Terumi
teraoter at mint.ocn.ne.jp
2011年 1月 14日 (金) 00:54:30 JST
松元さん、寺尾です。
いつも貴重なメールをどうも有難うございます。
私が受信したメールも一部文字化けしていました。
文字化けする原因としてよく言われるのは、改行せずに書くこと、がありま
す。たとえば、松元さんのメールに返信すると以下のように、一行がとてつ
もなく長くなります。
(2011/01/14 0:03), Yasuaki Matsumoto-san wrote:
> baraさま、文字化けを教えていただきありがとうございます。他のMLではそういうことはなく、CMLだけでした。原因はわかりませんが再送してみます。まつもと
それを防ぐには、お使いのメールソフトで適当な長さで自動改行するように
設定するか、あるいは、適当な長さで自分で強制改行するのが良いと思いま
す。私は全角35文字(半角で70文字)で自動改行するように設定しているほ
か、場合によっては、全角35文字以下でも自分で強制改行しています。例えば、
みなさまへ (BCCにて失礼、転送転載歓迎)
松元@パレスチナ連帯・札幌
■現地ヘブロンのパレスチナ人と反アパルトヘイトの活動家によって
昨年2月から始められた「シュハダー・ストリートを開放せよ!
(Open Shuhada Street)」の運動は、土曜行動の抗議デモを中心に
なされてきましたが、昨年8月、イスラエル軍によるパレスチナ人の
のように。
なお、私が受けたメールで文字化けしていたのは、
> 1998年に戻ったとき、刃のついたワイヤ・ウォールとコンクリート・バリケードが支配地域のヘブロンを細切れにしていました。聖なる神殿は、街とおなじように分割されていました。イブラヒーミ・モスクおよびアブラハム・アヴィヌ・シナゴーグの両サイドは、入り口が切り離されセキュリティチェックが布かれていました。私たちは、両方の入り口に入る前にイスラエル兵からボディチェックと所持品検査を受けました。1967年の西岸の軍事的征服ののち、イスラエル人がヘブロンに移動し始めたのです。それ以前初めの19年間は、聖なる神殿でイスラム教徒とユダヤ教徒が一緒に祈っていたものです。1994年のラマダーン月の2月25日、ユダヤ人入植者がイブラヒーミ・モスクに侵入して29人のイスラム教徒
を虐殺してから、このすべてが変わってしまいました。この悲劇の直後、イスラエル政府は外出禁止令とシュハダー・ストリート(ヘブロンの商業と文化の主要な大通りですが)の封鎖をパレスチナ人に押し付けたのです。おまけにパレスチナ人の社会に敵意と新たな怒りを生むだけの愚かで不公正な決定によって―入植者たちは自由に通行することが許され�
> $F$$$?$N$G$9!#5T;&$X$NJsI|$H$7$FFsEY$N<+Gz967b$,$"$j!"K=NO$NO":?$H$$$&8}<B$rM?$($F$7$^$C$?$3$H$b$"$j$^$7$?!#$=$l$K$7$F$b!"%X%V%m%s$N%f%@%d65EL$H%$%9%i%`65EL$O$=$l0JMh0l=o$K5'$k$3$H$O$7$J$/$J$C$?$N$G$9!#�
> ほぼ10年後、2007年に訪ねたヘブロンのすべての場所はその大部分が変化していました。CPTはまだそこにありました。占領がさらに悪化させたので一時的な計画が永続するようになったとき何が始められたでしょう。ひとりの現地CPTガイドが、入植者や兵士やインターナショナルズには通行が許されていますがパレスチナ人にはいまだに禁じられているシュハダー・ストリートに沿って同行してくれました。近郊の村々の中心でありかつて繁栄していた商業上のメイン・ストリートは、不気味なほど静かでした。ヘブロン中心部につくられたユダヤ人入植地が、この街をゴーストタウンに変えてしまったのです。600人のユダヤ人入植者が、16万人のパレスチナ人の移動の自由を奪う500人のイスラエル兵に守られているのです
。すべての店が鉄扉で封鎖されていました。パレスチナ人の玄関扉には―イスラエル政府によって錠がかけられ溶接されていますが―恐ろしい落書きが塗られていました。「アラブ人をガス室へ!」、「アラブ人を移送せよ!」などもっとそれ以上のことが。陽射しの中でトルコ・コーヒーを飲みバックギャモンに興じてカフェの店先�
> r0O$s$G$$$?O7?M$?$A$O$b$&5"$C$F$$$^$7$?!#!!!!�
> チェックポイントのこちら側では、移動すること、買い物、青空市場など自由な別の生活がありました。パレスチナ人の兵士と人々は何か買えと私たちにせがんでくるのです。「どうぞ生き残るために助けてください。私たちは商売人です。どうぞ何か買ってください。」と。足の不自由なレジスタンス・カフェのオーナーは、暗黙のうちに認められた指導者の気品をもって私たちを迎えてくれたものです。彼は、ファラフェルと冷たい水を給仕するためあたりを足を引きずって歩いていました。彼は仕事が一段落してからテーブルのひとつに腰を下ろし、私たちに自分のことを語り始めました。「このカフェは、ヘブロンのパレスチナ人の生活を護るための闘争のシンボルなのです。パレスチナ人の大部分は、どれほど長くなって
もここで持ちこたえるために責任を負っています。私たちは、1948年多くの人々が死んだように遠くへ歩くよりもむしろ我が家で死ぬでしょう。私にとって最も偉大な抵抗の姿は、このカフェを開き続けることなのです。」その責任は高い代価を伴っている。彼はイスラエルの刑務所で拷問にかけられ持ちこたえてきた。このすべてを知って、私はファラフェル�
> r?)$Y$J$,$iDq93$N;Q$r9M$($5$;$i$l$F$7$^$C$?!#�
の3カ所でした。
御手数をお掛けしますが、どうぞ宜しくお願い致します。
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