[CML 007218] 『ヘブロン、占領40年』、シュハダー・ストリートを開放せよ!
Yasuaki Matsumoto
y_matsu29 at ybb.ne.jp
2011年 1月 13日 (木) 22:01:27 JST
みなさまへ (BCCにて失礼、転送転載歓迎) 松元@パレスチナ連帯・札幌
■現地ヘブロンのパレスチナ人と反アパルトヘイトの活動家によって昨年2月から始められた「シュハダー・ストリートを開放せよ!(Open Shuhada Street)」の運動は、土曜行動の抗議デモを中
心になされてきましたが、昨年8月、イスラエル軍によるパレスチナ人の店舗襲撃および4名の不当逮捕によって抗議行動は一時後退を余儀なくされましたが、ことしの2月25日に再開が予定されています。この日は、1994年の入植者ゴールドシュタインの虐殺事件から17年目となります。
ほぼ一年前になりますが、このOpen Shuhada Streetの運動を呼びかけた作家であり活動家であるユダヤ系米国人女性イリス・ケルツさんの体験談「ヘブロン、占領40年」をお届けします。
●イスラエル軍に襲撃されている昨年のOpen Shuhada Streetのビデオ。
http://www.youtube.com/watch?v=Eh9vhyxhPXw
■抑圧されたパレスチナの状況はアパルトヘイト時代の南アフリカと同じだと公然とイスラエルの占領政策を批判しているノーベル平和賞受賞者のデズモンド・ツツ大主教が、南アフリカ・ホロコースト財団のケープタウン・ホロコーストセンター守護者(Patron)の地位を解任されようとしています。理由は、イスラエル批判をする師は「反ユダヤ主義者」だというものです。師もそうした攻撃に反論しています。(英文ですが、以下に抗議署名もあり。)
http://openshuhadastreet.org/
■イリス・ケルツ『ヘブロン、占領40年』
Four decades of occupation in Hebron
2010年2月25日
Iris Keltz
私は3回ヘブロンに行っていますが、それぞれ違った街に行っているようでもありました。1967年の5月、ヘブロンを含む西岸全体は、ヨルダンの支配下にありました。エルサレムで暮らしているあるパレスチナ人家族が、彼らが育ててきたオリーブの樹々が広がる所有地のあるヘブロン南部の村に私を招いてくれました。アル・サーム村の世間への主な通路は、エルサレムの南23マイルのヘブロンへ一日2回走るバスだけでした。それは一時間足らずのゆったりとした旅でもありました。
ロバとラクダが、車とバスと道を分けあっているこの地は、エルサレムと違って、聖地や古い装身具をを探すわずかな旅行者がぶらついているくらいです。伝統と現代の調和は、大部分が社会に溶け合っていました。その家族の家長イブラヒームは、コットンパンツとシャツを着て頭には大方の男たちと同じように伝統的な日除けのカフィーヤを巻いていました。彼の妻は、足首まで長いアラブの衣装と彼女の白い髪を被うスカーフをしていました。
そこには私たちを守ったりあるいは脅したりするような兵士はひとりもいなかったのです。それにマクペラの洞窟に妻サラとともに埋葬されているユダヤ教徒とイスラム教徒双方の預言者アブラハムのモスクの周りを歩いてもまったく安全でした。ヘロデ王の時世に建てられてシナゴーグとして始まり紀元700年のイスラーム時代にモスクとなったこの要塞のような建物は、彼らの神聖な墓場として護られてきました。美しいこの夏の日、その家族は、室内で一日5回のお祈りをするイブラヒームの奥さんでさえモスクに入るよりもアル・サーム行きのバスに乗ることにはるかに興味を持っていたのです。
イブラヒームは、道路ぎわの店でみんなにラクダのケバブ・サンドを買ってくれました。とにかく、この上品でユニークな味は、エキゾチックな香辛料で味付けされていたのです。イブラヒームは私たちが食べているあいだ、私がほとんど何も知らないヘブロンの暴力の歴史をほのめかし始めました。「かつてイギリスがパレスチナを統治していたとき、ここにはユダヤ教徒の生活するコミュニティがあったのです。いまその人々は、怪しいよそ者になっています。」しかし私はとくに心配しなかったのです。だって私を長い間行方不明だった家族のように迎えてくれて、しかも私がユダヤ系のアメリカ人であることを彼らは知っていたからです。1967年、私たちの人生を永遠に変えた戦争が勃発するまでの2,3週間、私たちは何も考えずに過ごしたのでした。
1998年に戻ったとき、刃のついたワイヤ・ウォールとコンクリート・バリケードが支配地域のヘブロンを細切れにしていました。聖なる神殿は、街とおなじように分割されていました。イブラヒーミ・モスクおよびアブラハム・アヴィヌ・シナゴーグの両サイドは、入り口が切り離されセキュリティチェックが布かれていました。私たちは、両方の入り口に入る前にイスラエル兵からボディチェックと所持品検査を受けました。1967年の西岸の軍事的征服ののち、イスラエル人がヘブロンに移動し始めたのです。それ以前初めの19年間は、聖なる神殿でイスラム教徒とユダヤ教徒が一緒に祈っていたものです。1994年のラマダーン月の2月25日、ユダヤ人入植者がイブラヒーミ・モスクに侵入して29人のイスラム教徒を虐殺してから、このすべてが変わってしまいました。この悲劇の直後、イスラエル政府は外出禁止令とシュハダー・ストリート(ヘブロンの商業と文化の主要な大通りですが)の封鎖をパレスチナ人に押し付けたのです。おまけにパレスチナ人の社会に敵意と新たな怒りを生むだけの愚かで不公正な決定によって―入植者たちは自由に通行することが許されていたのです。虐殺への報復として二度の自爆攻撃があり、暴力の連鎖という口実を与えてしまったこともありました。それにしても、ヘブロンのユダヤ教徒とイスラム教徒はそれ以来一緒に祈ることはしなくなったのです。
私たちの現地ガイドは、虐殺のあとヘブロン市長に招かれたインターナショナル・グループのクリスチャン・ピースメーカー・チームズ(CPT)の役割でした。現地のパレスチナ人が屋上に設置された軍の前哨基地に不満をこぼしている荒廃したこの付近一帯を歩いたときでも、パレスチナ人が武装解除されていたという事実にもかかわらず、彼ら(彼女)らの存在感は私たちに多くの安心を感じさせたものでした。兵士たちは、瓦礫が落ちてくることから自らを守るために―でもおしっこから守るべき何物もなかったけれど―無理やり中庭を横切って紐や網で覆った軍事ネットの上から下の住民を神のように監視しているのです。
それにもかかわらず、ヘブロンの生きる鼓動は鳴りやまなかったのです。私は、建築職人、皮革職人そして馬具屋を通り過ぎて歩き、建築用の装飾や台所用具のために炎の燃え上がる炉の窓付きグリルの中で鉄の棒をたたきながら一生懸命働いている鍛冶屋の前でしばし立ち止まって見ていたものでした。さらに通りを下っていくと、鳥たちが駆けっこしニワトリがコッコッコと鳴いて店のあることを告げ報せている露店では、まだなま温かい卵が売られていました。カフィーヤ、ショール、靴、宝石箱、手吹きのガラス食器、オリーブの木彫品などといっしょにスカーフが積み重ねられ、洋服架けにはアメリカ風のロゴのついたTシャツがベドゥインの衣装と並んでかかっていました。カフェの店先では年老いた男たちがトルコ・コーヒーやチャイをすすり水タバコを吸いながらバックギャモンに興じ、買物客は完全武装した兵士たちのあいだを縫うように歩いていました。
がっかりしたことに、アル・サーム行きには間に合いませんでした。チェックポイントやロードブロックの武装した兵士たちは、単純だけれど嫌な体験を私たちに強いていました。ちょうど今その村には、車がいっぱいで渋滞してひどい状態になって行けなくなっていると私はパレスチナ人家族のそばで聞かされました。でも私はこの変化をこの目で確かめたかったのです。
ほぼ10年後、2007年に訪ねたヘブロンのすべての場所はその大部分が変化していました。CPTはまだそこにありました。占領がさらに悪化させたので一時的な計画が永続するようになったとき何が始められたでしょう。ひとりの現地CPTガイドが、入植者や兵士やインターナショナルズには通行が許されていますがパレスチナ人にはいまだに禁じられているシュハダー・ストリートに沿って同行してくれました。近郊の村々の中心でありかつて繁栄していた商業上のメイン・ストリートは、不気味なほど静かでした。ヘブロン中心部につくられたユダヤ人入植地が、この街をゴーストタウンに変えてしまったのです。600人のユダヤ人入植者が、16万人のパレスチナ人の移動の自由を奪う500人のイスラエル兵に守られているのです。すべての店が鉄扉で封鎖されていました。パレスチナ人の玄関扉には―イスラエル政府によって錠がかけられ溶接されていますが―恐ろしい落書きが塗られていました。「アラブ人をガス室へ!」、「アラブ人を移送せよ!」などもっとそれ以上のことが。陽射しの中でトルコ・コーヒーを飲みバックギャモンに興じてカフェの店先を囲んでいた老人たちはもう帰っていました。
イスラエル人入植者によってつい最近占領された一軒のパレスチナ人の家を通り過ぎるときは、張りつめた瞬間でした。「もし止められたら私が兵士たちに話そうと思う」とオランダの女性CPTガイドが私たちに警告してくれました。「軍はシュハダー・ストリートを入植地とシナゴーグの間を行き交うユダヤ人のために確保しようとしています。イスラエル政府は入植者に撤退するよう命じましたが、彼らは頑固に居残り続けて住居を固定してしまっているのです。」これは、イスラエルの法と法の執行のあいだの深刻な破れです。政府から補助金を交付されているヘブロンの入植者たちは、神によって定められた行いをしていると確信しているイデオロギー的な過激派なのです。
国際法は、入植者の子どもたちに石を投げつけられたうえ頻繁につばを吐きかけられ常にCPTガイドに付き添われているパレスチナの子どもたちを含むすべての子どもたちに学校に通う権利を与えています。兵士たちは、見てはいても何もしません。イスラエル議会の議員たちがヘブロンを訪れましたが、何も変わらなかったのです。このためパレスチナの子どもたちは、学校の近くの家―「はしご女の家」と彼らは呼んでいますが―を通り抜け屋根づたいにあるいは通りの反対側から学校に入いりこんで行くのです。私たちのガイドは、子どもたちのお気に入りのゲームは兵隊ごっこだと話していました。彼(彼女)らは、だれでもが大きな銃をもち暴力をもっていると納得しているのでした。
ムスリムの休日、金曜の午後、CPTメンバーは人々が昼の祈りに行き交うのを見ていました。イスラエル兵たちが、モスクの入り口をかためていました。とくに若いアラブ人男性が標的にされていて、ときには何時間も拘束されていました。私がユダヤ人であり命令に従っているということをわが信頼するパレスチナ人ガイドがなぜ兵士に話しているか私はさいしょ理解できなかったのですが、兵士たちは私にモスクに入ることを禁じました。私は人生で初めて、宗教にもとづく建物に入ることを拒否されたのです。彼らの命令を受け入れることを強要された私は、パレスチナ人側のモスクへ通じる道を遮断したコンクリート障害物の近くの建物の日陰で待っていました。私に連帯して何人かの友人が一緒に立ってくれました。
私たちのグループが再び一緒になったとき、パレスチナ自治政府が管轄するヘブロン(H1)に通じるチェックポイントに向かっていました。私たちは一列になって、刃先のあるワイヤーで囲まれた檻の中の回転式ゲートを通過して歩きました。アメリカのパスポートは私たちにチェックポイントを簡単に通過させましたが、わがパレスチナ人の運転手とガイドは通過を許されませんでした。けれども彼らは何度かやったこともあって、バリケードの周りから抜け出すことを心得ていたものです。私は、なぜパレスチナ人がパレスチナ人の支配地域に入ることが禁じられているのか理解することができませんでした。すこし食べて元気を回復した後で、私は、ガイドが屈辱と気ままな専制を提供している占領の本質について私たちに個人的なレッスンをしてくれたのだとやっと理解できたのでした。
チェックポイントのこちら側では、移動すること、買い物、青空市場など自由な別の生活がありました。パレスチナ人の兵士と人々は何か買えと私たちにせがんでくるのです。「どうぞ生き残るために助けてください。私たちは商売人です。どうぞ何か買ってください。」と。足の不自由なレジスタンス・カフェのオーナーは、暗黙のうちに認められた指導者の気品をもって私たちを迎えてくれたものです。彼は、ファラフェルと冷たい水を給仕するためあたりを足を引きずって歩いていました。彼は仕事が一段落してからテーブルのひとつに腰を下ろし、私たちに自分のことを語り始めました。「このカフェは、ヘブロンのパレスチナ人の生活を護るための闘争のシンボルなのです。パレスチナ人の大部分は、どれほど長くなってもここで持ちこたえるために責任を負っています。私たちは、1948年多くの人々が死んだように遠くへ歩くよりもむしろ我が家で死ぬでしょう。私にとって最も偉大な抵抗の姿は、このカフェを開き続けることなのです。」その責任は高い代価を伴っている。彼はイスラエルの刑務所で拷問にかけられ持ちこたえてきた。このすべてを知って、私はファラフェルを食べながら抵抗の姿を考えさせられてしまった。
今日はイブラヒーミ・モスクの虐殺があってから16年目を迎えます。シュハダー・ストリートは、西岸および全般的な占領におけるイスラエル入植地のシンボルとなっています。活動家たちが、パレスチナ人の商売と生活のためもう一度この通りを自由にするため各分野でその努力を支援することは重要です。またグローバルな連帯が www.openshuhadastreet.orgで組織されて
います。占領は米国からの300億ドルの財政援助で可能となっています。米国の活動家たちは、私たちのお金を費やすよりも議会の議員たちに知らせなければなりません。(松元訳)
原文は以下:拙訳なので不適切な訳文があれば教えてください。
http://electronicintifada.net/v2/article11096.shtml
http://www.countercurrents.org/keltz250210.htm
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