[CML 007684] エジプト革命に想う

Yasuaki Matsumoto y_matsu29 at ybb.ne.jp
2011年 2月 18日 (金) 05:00:50 JST


みなさまへ (BCCにて失礼、転送転載はどうぞ)松元@パレスチナ連帯・札幌

『エジプト革命に想う』(2月17日)

若者からはじまったエジプト革命は、全世界に感動を与えた。三百数十名の犠牲者を出したもののエジプト全土数百万の民衆が街頭にくりだし平和裡にムバラクを追放し独裁政権を打倒した。 そこにはインターナショナルの歌は聞こえず、革命歌のかわりに、イスラームの祈りが、キリスト教徒の祈りが、食べ物を分け合い包帯を巻きあう姿が、子どもが、女が、年寄りが、大義とパッションがタハリール広場を埋めつくし世界の民衆を勇気づけた。

革命の山場となった2月2日には、ムバラク、スレイマンが放った革命つぶしの親衛隊が物言わぬラクダや馬やオートバイを使って多くの犠牲者をうみだした。しかし彼らはついに取り引きや妥協をしなかった。徹頭徹尾自分たちの初心を貫き通して目的を完遂した。歓喜に沸いたその翌日には「エジプトを掃除する」といわんばかりに闘いの広場を清掃する若者の姿がさらに感動を清清しいものにした。そして地続きのアラブ・イスラーム世界には、彼らの大義とパッションと品格ある行動の波紋がいまなお広がっている。

この革命の波動からさまざまな声がきかれる。イスラエル擁護のための中東管理体制の瓦解をもっとも恐れる米国大統領やEU首脳は、かの腐敗した独裁体制を人一倍援助し利用してきたことを頬被りしていち早く手の平を返したような民衆支持の声を発信した。日本政府は「秩序の安定」と「油」にしか関心がないかのような無意味な追随声明。

あるいは、この革命には「イスラム主義の宗教色がなかった」「イラン革命とは違う」といってイスラエル・欧米の反イラン政策を援護射撃してみせたり、エジプト・イスラム同胞団をハマースやアルカイダと結びつけて「反テロ戦争」のレッテル貼りを広げようとしたり、ともかくアラブ世界やイスラーム世界へのそして「宗教」への無知をさらけ出して恥じないメディアと三流「学者や評論家」たちもいた。

こういう人たちは、タハリール広場で幾度もアッラーに祈りを捧げる大群衆を何と表現するのだろう。イスラム教徒が祈りを捧げるときはキリスト教徒が、キリスト教徒が祈りを捧げる日曜日にはイスラム教徒が、それぞれ祈りの外陣で見守り政府側の暴徒から互いを守るというエジプト民衆をどう説明するのだろう。

はては単純にも、ほら見たことかやっぱり「国旗だ」「愛国心だ」といってトンチンカンな共感を寄せる日本のネット右翼たちもいる。

「秩序の安定」に浸かっている私たちは、その突発性に目を奪われて地下深くから噴出するエジプト民衆のエネルギーをもてあましているようだ。私は、「その地下で旺盛な物語が繰り返されて」きたであろうエジプト民衆をみて、むしろ私たち日本人のことを考えた。

私の友人に鎌倉で植木職人をやっている一風変わった男がいる。彼の軽トラのフロントには、英文で「私はパレスチナ人の人権侵害をやっているイスラエル政府を非難します。分離壁建設をただちに中止するよう要求します」と書かれている。無論商売には何の関係もない軽トラのこの英文商標を、ときどき鎌倉を散策する外国人が珍しがって写真を撮っていくそうだ。

とくに昨年のように猛暑が続いた夏を終えたこの冬には、「すべての樹木は瀕死の枯渇状態で、水をしっかりやっている庭木とさぼっている庭木とは、春の芽吹き、新緑の葉色などに劇的な差異となって人々の眼に映る」と彼はいう。

「冬枯れの時期、眠っているかに見える落葉樹もその地下では、根と毛根の静かで旺盛な物語が繰り返されている。…木の根の地下の物語によく耳を傾けてその沈黙のコトバを聴き逃すことがないように日々の仕事を構えるためには、蓄えられた深い洞察力とそれを支える詩的精神が必需ではあるまいか」などと、この植木屋さんは語る。

例えば革命のきっかけとなった、ネットカフェから引きずり出され警察当局に拷問・殺害されたアレキサンドリアの28歳の青年ハレド・サイード(Khaled Saeed)の犠牲を、自分たちの生 
の尊厳の痛みとして受け止めることのできる日本人はどれほどいるだろうか?
http://longtailworld.blogspot.com/2011/01/egyptian-uprising-and-khaled-saeed.html

エジプトの政治はたしかに腐敗していたにちがいない。しかしあのような若者たちを生み出した。かたや「体制」の犠牲者であるにちがいない自殺者がすでに毎年3万人を超え、大部分の若者が将来に希望を見出せない日本の社会は、抵抗の根も当てもなくすでに腐臭を発していると言えないだろうか。

岡真理さんが示唆するようにエジプトの若者たちが、三代にわたる革命の挫折の記憶を胸にタハリール広場に集まったとすれば、私たちには自らを立ち上がらせるどんな「記憶」があるのだろうか?日本の民衆を一つに結びつけるどんな「集合的記憶」が、歴史的知性があるのだろうか?

歴史的な反省を隠蔽し捏造することを仕事としてる政治家ばかりか、飼い馴らされた民衆までもが歴史を我が事とする知性を脱ぎ捨てて久しい。歴史に真摯に向き合うことの貴重な運動を続けている人たちは少数者に追いやられ困難な活動を強いられている。巷にとって歴史とは好事家の道楽のようだ。アラブの民衆は、だれもが壮大な歴史叙事詩を知の基底部として生きている。タクシーの運ちゃんであろうとカフェのおっさんであろうと誰もがイスラエルのやっていることアメリカの中東支配の実態を手に取るように把握している。タハリール広場ではムバラクの顔にダビデの星が描かれていた。外国勢力の指示には従わないと最初から宣言されていた。

たかだか百数十年の歴史にしがみつき、無意味に維新、維新と叫んでアメリカの犬となっている我が政治家が恥ずかしい。そしてそれに同調する歴史に無知な民衆が恥ずかしい。

多大な犠牲を強いてきた隣人をいまも差別排外し続け沖縄の民衆を騙し続けて希求を踏みにじり、底辺層のライフラインが極度に貧困であっても「民主主義」の幻想に縛り付けられている日本。だれが分断し枝を伐り倒してしまったのか、巨悪を見出しえないフラストレーションで、小さなことで足を引っ張り合ったり、互いに「犬」となって敵をつくったり、ともかく民衆に根を張った太い幹が育ちそうにないこの日本。アメリカの、欧米の、政府の、官僚の、メディアの、司法や警察の、企業や会社の、組合の、教育委員会の、おしなべて組織権力の、みんな「犬」になってしまった日本人は、どこに向かっていくのだろう?

王制を倒し外国勢力の支配を根絶しようとするエジプト民衆のように、戸籍・元号から君が代にいたるまでがんじがらめに染み付いた天皇制という非民主の根を棄却し、「日米同盟」と「民主主義」の虚構を打ち破ってみなければ、アイヌの略奪からはじまった根深い植民地主義の現在形を断ち切ることはできないのであろうか?いつになったら私たちは犬ではなく、互いに「人間であること」ができるのであろうか?

歴史に根ざした共通の言葉を綯い交ぜることの出来ない、自分たちの「記憶」をもてない私たち「日本人」とは何だろう?大義を見出しえず大樹を育てることのできない私たちは?

さきの植木屋さんに聞いてみた。すると「もう根が腐ってるんだよ」といって電話を切った。

タハリール広場の大群衆が整然と祈りをしている場面が何度も映し出された。アラブのそしてイスラームの世界には、一国主義の枠にはめられた西洋型民主主義を突き抜けるアッラーの前にひと・ものすべて平等というイスラームの壮大な民主主義が眠っているのではあるまいか。じつは、その歴史に未知数の潜勢力に恐れおののいているのが、米欧およびイスラエルではないのか?

私たちの大義とパッションとその地下水脈はどうなっているのだろう?岡真理さんの「エジプトと私とタハリール」を読んでそんなことを考えた。

TUP速報888号 エジプト、タハリール広場と三代の独裁者
岡真理「エジプトと私とタハリール」の全文はこちら。
http://www.tup-bulletin.org/modules/contents/index.php?content_id=920

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