[CML 011467] 田中利幸さん(広島市立大学平和研究所教授)の反核運動再構築、脱原発運動新構築のための問題提起

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2011年 8月 23日 (火) 20:06:10 JST


以下は、先月の7月24日に広島市立大学平和研究所教授の田中利幸さんが「せまられる日本の反核運
動再検討」というテーマで大分市で講演された際のレジュメです(主催:平和のための戦争展 in 大分)。

原子力の平和利用に対して夢想を抱くメディア、科学者を含む戦後日本全体を覆った共同体言説ともいう
べき大衆的・啓蒙的「原子力」言説(1946年〜50年代)状況については先日、加藤哲郎さん(政治学者)
の分析をご紹介しましたが、今回紹介させていただく田中利幸さんは1950年代に世界的な規模で推進さ
れた米国大統領アイゼンハワーが提唱した“Atoms for Peace”政策の広島への影響、とりわけ原爆被害
当事者としての被爆者団体、反核運動組織としての原水禁、原水協への負の影響に焦点を当てて当時の
言説状況を掘り起こしています。どちらも日本の反核運動の再検討課題、いまの脱原発運動の共同行動
のための検討課題に資する大切な問題提起、資料の提示となっているように思います。

以下、田中利幸さんの1950年代の言説状況の指摘です。

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原爆から原発へ:せまられる日本の反核運動再検討(レジュメ)
                           田中利幸(広島市立大学平和研究所教授)

A)はじめに 原爆開発と「原子力平和利用」の歴史的背景

1938年、ドイツの化学物理学者オットー・ハーンとマイトナーが、人類史上初めてウランの核分裂実験に
成功。そのわずか7年後の1945年7月16日午前5時半、米国アラモゴード史上初の核実験「トリニティ」。
その3週間後の8月6日午前8時15分、広島上空に投下されたウラン爆弾が炸裂し、7万人から8万人の
数にのぼる市民が無差別大量虐殺の犠牲となる。その3日後の午前11時2分、今度は長崎にプルトニウ
ム爆弾が投下され、4万人が即時に殺戮され、年末までに7万4千人近い人たちが亡くなっていった。

広島・長崎原爆投下からほぼ2年後の1947年7月26日、米連邦議会で「国家安全保障法」が成立し、
これをもって「冷戦」が正式に始まった。戦後の核技術の新しい応用の重要な一つが、潜水艦の「動力源」。
原子炉を使い、燃料交換なしで長時間、長距離を潜水航行でき、核弾頭を装備したミサイルを敵地近辺の
海域から発射することができる潜水艦の開発。

原子力潜水艦の開発の任務を与えられたのがハイマン・G・リッコーバーで、彼の指揮の下、アイダホ州の
軍研究所で秘密裏に開発製造された潜水艦用原子炉が沸騰水型の「マーク  原型」。この「マーク機弩
子炉を動力源とする潜水艦ノーチラス号は、1954年1月21日に完成。当初からリッコーバーは、原子力
を海軍用潜水艦ならびに艦船に応用するにとどまらず、大量の電力を発電する原子力発電所に活用する
ことを考えていた。しかしながら、リッコーバーの計画の実現化は、原子力技術の拡散を意味するものであ
り、それは同時に核兵器製造技術の拡散化をも意味するものであった。

こうした動きに反対し、核技術とその研究開発を厳しい規制の下におくべきであると考えていたのが、アル
バート・アインシュタインやロバート・オッペンハイマーであった。しかし米ソ冷戦状態が深まりつつあった19
53年の段階では、米国の核技術分野における支配力は、すでにアインシュタインやオッペンハイマーらの
手から離れ、リッコーバーを含む戦後の新しい科学者グループとその支配者たちの手に移っていた。

第2次大戦直後の数年間はアメリカが核軍事力を独占していたが、それも1949年8月29日にセミパラチ
ンスクで行われたソ連初の核実験の成功で終わりを告げた。さらにソ連は、1953年8月12日に水爆実験
と思われる核実験を行った。これに対抗して、アメリカ側は、1951年から53年にかけて、合計36回の爆
発実験を実施し、軍事力の誇示に努めた。こうした事態のために、近い将来に米ソ間で核戦争が引き起こ
されるのではないかという不安が高まってきた。

このような緊張した状況を緩和する手段として、1953年12月8日、米大統領アイゼンハワーが、国連演
説で、“Atoms for Peace”、すなわち「原子力平和利用」なる政策を打ち出した。このアメリカの平和政策の
背後には、アメリカ軍事産業による西側同盟諸国資本の支配という野望が隠されていたが、これによって、
リッコーバーは、政府の全面的支持を得て「マーク機廚慮胸厠枠電への応用実現化に乗り出すことがで
き、最終的には、その技術特許がジェネラル・エレクトリック社の手に渡ったのである。

史上初の核兵器攻撃の被害国である日本も、アメリカのこの「原子力平和利用」売り込みのターゲットにさ
れ、アメリカ政府や関連企業が1954年の年頭から様々なアプローチを日本で展開し始めた。その結果、
日米安保体制の下で、兵器では「核の傘」、エネルギーでは「原発技術と核燃料の提供」、その両面にわた
って米国に従属する形をとるようになった。その結果、日本政府は、核兵器による威嚇を中心戦略とする
日米軍事同盟と、原発からの放射能漏れならびに放射性廃棄物の大量蓄積の両面で、これまで多くの市
民の生存権を長年脅かしてきただけでなく、そのような国家政策に対する根本的な批判を許さないという
体制を維持してきた。

スリーマイル島、チェルノブイリなどでの原発事故にもかかわらず、日本政府と電力資本、原子力産業界は
「安全神話」を唱え続け、これまで様々な事故を隠蔽してきた。したがって、今回の福島第1原発での破局
的事故は、大地震という天災によって引き起こされた「事故」などではなく、本来、起こるべきして起こった
「自己破壊」と呼ぶべき性格のものである。

広島・長崎の被爆者は、生涯にわたって爆風、火傷、放射能による様々な病気に苦しんできた。被爆者は、
いつ癌やその他の致命的な病に侵されるか分からないという恐怖に怯える生活を今も余儀なくされている。
このように、長年にわたり無数の市民を無差別に殺傷する核兵器の使用は、重大な「人道に対する罪」で
ある。今回の福島原発事故も、内部被曝の結果、これから数十年にわたって予想もつかないほどの多くの
市民をして、無差別に病気を誘発させることになるであろう。このことから、原発事故も「無差別大量殺傷行
為」となりうるものであり、したがって「非意図的に犯された人道に対する罪」と称すべき性質のものである。

B)被爆者による原発推進

被爆者問題に敏感であるべき日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が、福島原発事故による放射能汚
染問題で、周辺住民の健康管理などの対策を早急に実現するよう政府と東京電力に要請したのは、事故
から1ヶ月以上も経った4月21日であった(福島県知事への要請は5月27日)。被爆者たちの福島放射能
汚染に対する反応は、一般的に、極めて遅く且つ弱いのは、なぜか?

1999年9月30日午前11時頃、茨城県東海村の核燃料加工会社JCOの施設内で核燃料を加工中に、
ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。事故現場から半
径350m以内の住民約40世帯への非難要請が出され、500m以内の住民には非難勧告、10km以内
の10万世帯(約31万人)への屋内退避および換気装置停止の呼びかけが出された。

日本原子力産業会議(2006年に「日本原子力産業協会」に改名)副会長であった森一久(被爆者):

「原子力は原爆の怖さを知った上で使われている。【被爆者の、平和利用にだけその力を使って欲しいと
いう悲痛な叫び】に支えられ、今日まで続いてきた。その過程は風化させてはならない。」(強調:田中)しか
し、「臨界事故と広島・長崎の体験は、放射線被害という点で関係はあるが、同列に扱ってはならない。広
島のあの日は、そんな甘っちょろくはなかった。一方は軍事産業で瞬時に強烈な放射線を浴び、一方は事
故で作業員だけが大量に浴びた。一緒に論じるのは大げさではないだろうか」。

福島県の発表によると、福島第1原発事故前に、原発から20キロ以内の現在立ち入り禁止になっている
「警戒区域」で暮らしていた被爆者は4人(2人が広島で、あとの2人が長崎で被爆)。

*遠藤昌弘(85歳)は福島市出身であるが、病気療養中であった広島市西区で被爆。戦後、故郷に戻り、
小高町(現在の南相馬市)で就職。1980年代には、「原爆と原発は別物。核の平和利用がこれからの日
本には必要」と唱え、原発建設のための周辺道路整備のための用地買収交渉に積極に加わった。

*現在、福島県原爆被害者協議会事務局長を務める福島大名誉教授の星埜惇(83歳)は、広島原爆投
下の翌朝、広島市内に入った「入市被爆者」。「原発は、大量破壊兵器の原爆とは別だと思っていました。
しかし制御不能に至った原発を目の当たりにすると、認識を変えざるを得ません。」

戦後歴代の広島市長の中で、浜井信三、渡辺忠雄、荒木武の3名が被爆者であるが、そのうちの誰も
「原子力平和利用」に反対した人はおらず、とくに渡辺氏は「原子力平和利用」の積極的賛同者であった。

原爆が無数の市民を無差別に殺傷したのと同じように、原発あるいは原子力関連施設で一旦大事故が
起きれば、大量の放射能が拡散され、その放射能汚染の結果、その後数十年にわたって予想もつかな
いほど多くの人たちをして、無差別に病気を誘発させ死亡させる危険性については、広島・長崎の被爆
者たちは自分たちの経験から十分すぎるほど理解しているはず。にもかかわらず、なぜゆえに原子力平
和利用の賛同者になったしまったのか?

この疑問に対する答えを見いだすには、1950年代に世界的な規模で推進された“Atoms for Peace”政
策の広島への影響を詳しく分析してみる必要がある。

「原子力平和利用」の発端は、周知のように、1953年末に米国大統領アイゼンハワーが国連演説で表
明した“Atoms for Peace”政策=米国政府が真に目指したものは、同年8月に水爆実験に成功したソ連
を牽制すると同時に、西側同盟諸国に核燃料と核エネルギー技術を提供することで各国を米国政府と資
本の支配下に深く取込むことにあった。

1954年3月、ビキニ環礁における米国の水爆実験で第5福竜丸が死の灰を浴びるという大事件によって
急激な高揚をみせた日本の反核運動と反核感情を押さえつけ、さらには態勢を逆転させるため、さまざま
な「原子力平和利用」宣伝工作を展開。

C)広島ターゲット作戦第1弾:「広島に原発建設を」

1954年9月21日:

米国原子力委員会のトーマス・マレーが、アトランティック市で開催された米国鉄鋼労組退会で、アメリカ援
助による原発の日本国内建設を提唱。「広島と長崎の記憶が鮮明である間に、日本のような国に原子力
発電所を建設することは、われわれのすべてを両都市に加えた殺傷の記憶から遠ざからせることのできる
劇的でかつキリスト教徒的精神に沿うものである。」

1955年1月27日:

米国下院の民主党議員シドニー・イエーツが広島市に日米合同の工業用発電炉を建設(建設費2億2,500
万ドル、出力6万キロワット、資源はアメリカから持参3年計画)する緊急決議案を下院本会議に提案し、2
月14日の本会議でも再度この決議案に関して演説。同年2月4日、イエーツは、上下両院合同原子力委
員会およびアイゼンハワー大統領に書簡を送り、同決議案の実現を要請したが、その書簡の中で次の3
点を明らかにしている。

1.広島を原子力平和利用のセンターとする。
2.私の考えでは広島の原子力発電所は3年以内に操業できる。
3.私は最初原爆に被災し、いまなお治療を要する6千名の広島市民のため病院建設を計画したが、原子
力発電所建設の方が有用だと考えるに至った。 

広島側の反応:

浜井市長:「医学的な問題が解決されたなら、広島は“死の原子力”を“生”のために利用することは大歓
迎」。

渡辺市長(5月に市長に就任):「原子炉導入については世界の科学的水準の高い国々ではすべて原子炉
の平和利用の試験が行われ、実用化の段階に入っているので、日本だけ、広島市だけいたずらに原子力
の平和利用に狭量であってはならない。適当な時期に受入れる気持である。」

長田新(広島大学名誉教授で、子供たちの原爆体験記『原爆の子』を編集):「米国のヒモつきでなく、民主
平和的な原子力研究が望ましい。」

森瀧市郎(当時、広島大学教授、原水爆禁止広島協議会の中心的人物):「アメリカ人に広島の犠牲のこ
とがそれほどにまっすぐに考えられることならば、何よりもまず現に原子病で苦しんでいる広島の原爆被
害者の治療と生活の両面にわたって一部の篤志家だけに任せないで、国として積極的な援助をしてもら
いたい」と拒否反応。のみならず、反対の理由として、原発が原爆製造用に転化される懸念、平和利用で
あってもアメリカの制約を受けること、さらに、戦争が起きた場合には広島が最初の目標になることを挙げ
ている。

全般的には、多数の被爆者が「原子力平和利用」に対し、最初から「条件付き賛成」という態度を表明。

地元新聞の中国新聞:

「その偉大なエネルギーを平和の目的のため、さらに人類の幸福増進のため使用することについては、
だれしも反対はないことであろう。」
「広島市によって代表されている原子力に対する悪い印象をぬぐい去り、併せて広島市の復興を推進させ、
広島市民の幸福増進に寄与したいというような意味であろう。率直にいって、世間でいう罪ほろぼしという
ような気持も考えられないことはない。」

D)広島ターゲット作戦第2弾:「原子力平和博覧会」

「ホプキンス原子力使節団」訪日(1955年5月9日から1週間):

読売新聞社主・正力松太郎が、原子力援助百年計画の提唱者であるゼネラル・ダイナミック社長のジョン
・ホプキンスを代表とする「ホプキンス原子力使節団」を東京に招待。滞在中に、鳩山首相と懇談させたり、
随行員として連れてきたノーベル物理学賞受賞者、ローレンス・ハウスタッドに「平和利用」に関する講演
会を日比谷公会堂で開き、テレビ中継を行ったりした。

「原子力平和博覧会」(東京:読売新聞主催、1955年11月1日〜12月12日):

この博覧会は、アメリカが当時、“Atoms for Peace”政策の心理(=洗脳)作戦の一部として、CIAが深く
関与する形で、世界各地で開いていたものであった。

広島での開催(1956年5月27日〜6月17日の3週間):

東京の後、名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台と巡回。広島の場合には、広島県、市、広島大
学、アメリカ文化センター(ACC)および中国新聞社の共同主催で、予算は728万円を計上。会場=平和
公園内に前年8月に完成した広島平和祈念資料館と平和記念館(現在の広島祈念資料館東館)。

展示物の中に広島にとって「適当」とみなされるものを、アメリカ側が広島平和祈念資料館に寄贈=アメリ
カ側は、最初から「原子力平和利用」宣伝が、広島で、しかも原爆被害の実情を伝える目的で建設された
平和祈念資料館内で、繰り返し行われることを狙っていた。

展示内容:

(1)原子力の進歩に貢献した(湯川秀樹を含む)科学者の紹介(2)エネルギー源の変遷(3)原子核反応
の教育映画(4)原子力の手引(5)黒鉛原子炉(6)原子核連鎖反応の模型(7)放射能防御衣(8)ラジオ
アイソトープの実験室(9)原子力の工業、農業、医学面における利用模型(10)田無サイクロトロン模型
(11)マジックハンド(12動力用原子炉模型)(13)CP5型原子炉模型(14)水泳プール型原子炉模型
(15)原子力機関車(16)移動用原子力炉、実験用原子炉模型(17)PGD社原子力発電所模型(18)原
子物理学関係図書館

配布パンフレット『原子力平和利用の栞』:

「原子医学が無数の人々の命を救ったことは周知のことである。原子力によって農場では食料が増産さ
れた。商業面では、洗濯機・たばこ・自動車・塗装・プラスチック・化粧品など、家庭用品の改良のために。
アトム(原子)は一生懸命はたらいてきた。

豊富な電力冬にはビルをあたため、夏にはビルを冷房してくれる。だが、原子力はそれ以上の意味が
あるのだ。医者は本世紀の終わりまでには、ある種の危険な病気は完全になくなるだろうと予言する。も
し、われわれが賢明であれば、原子力はすべての人に食を与え、夢想にも及ばぬ進歩をもたらすことに
なろう。」

「病院では、ラジオアイソトープは奇跡をあらわす名医である。その放射線は腫瘍やガンの組織を破壊す
る。それは赤血球の異常増加を抑止し、アザをとり除き、甲状腺の機能状態を明らかにして、その機能
昂進を抑制する。血液の中に注射されると、その放射能は人間が生きるためには何リットルの血液が必
要か、また血球の補充力が低下しているかどうかを医者に告げる。」

かくして、原子力利用は、発電のみならず、医療、農業、工業など様々な分野で、今後飛躍的な一大進歩
を遂げることが期待されており、「全人類の福祉のために、その前途は無限に輝いている」というメッセー
ジになっていた。

広島原爆被害者同盟事務局長 藤居平一

「この博覧会を見ると原子力の平和利用というものが相当進んでいるという印象を濃くする。こういう風に
原子力が平和的に利用されることによって人類の平和と幸福が近い将来、必ず約束されるであろうとい
う感じを持った。あらゆる分野で原子力が人類の福祉増進のために利用されている状況がよく分かるの
だが、われわれの立場からいうと、原子力が最初に人類の前に姿を現した原爆という悪魔のツメによっ
ていまなお病床に呻吟している多くの人たちが現にいる限り、あらゆる平和利用に先立って原爆症に対
する治療法とか予防法などの研究に第1目標に置いて欲しい。そうであってこそ現在原爆症の為に絶望
的な思いでおられる被害者たちに“生きていてよかった”という明るい希望を与え得るのだと思う。つまり、
原子力の平和利用は一切の原水爆兵器の禁止と原爆症の根治方法の研究というこの二つの前提でな
ければならぬと思う。これは世界の国際道義の問題である。なお、付言すれば、この平和利用博を見た
人はあとで必ず中央公民館にある原爆資料も併せて見られんことを希望する。」

原水爆禁止広島協議会事務局長 森瀧市郎

「原子力利用のうえで広島はとくに放射能に敏感になっている。原子炉で燃えカスをどう処理するのか、
原子炉はあってもそれがどこにも示されていない。こうすればよいというところがみせてないのが残念だ。
利用のよい面は分るが死の灰の危険をなくするのにどうするのか、その疑問にこたえるものがみせてほ
しい。これは消極面についてで【積極面ではその応用の大きいこと、それが分りよく見せてあることで興
味を持った】。」(強調:田中)

同年8月初旬、長崎で開催された第2回原水禁世界大会中に結成された日本被団協結成大会で、森瀧
が読み上げた大会宣言文:

「私たちは今日ここに声を合わせてたからかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたと
ふたたび繰り返してはなりません。【破壊】と【死滅】の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の
【幸福】と【繁栄】の方向に向かわせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」と
述べ、「原子力平和利用」を積極的に支持するまでになる。かくして、この時点で森瀧は、【「核兵器=死
滅/原子力/声明」という二律背反論】に完全に埋没。

長崎から見学に訪れた被爆者グループ:

「私たちは原爆ときいただけで心からの憤りを感じますが、会場を一巡してみて原子力がいかに人類に
役立っているかが分りました。原子力が戦争にだけ使われるのでなく、真に平和のために使われるのを
強く望みます。10年後の今日も私たちの前途には大きな問題が残されていますが、こうした問題が山積
しているとき、原爆地広島でこの博覧会が開かれたことは意義あることと思います。」

広島で開催された「原子力平和利用博覧会」への入場者数は記録的な数となり、中国新聞報道によると、
「広島会場の総入場者数は10万9,500名。広島の男女知識層を中心に遠くは長野県、茨城県、北九
州からの見学者、全国校長会議出席者、中国5県からの団体見学者など各地のあらゆる階層の老若入
場者を集めた。」この博覧会で上映された原子力利用に関する11種類の映画は、広島アメリカ文化セン
ターの管理下に置かれ、学校や文化団体に貸し出すという制度も設置された。

博覧会閉会後、原爆関係の展示物がもとに戻された資料館では、悲惨な原爆展示物を見終わった見学
者が、見学の最後には、突然に、「原子力平和利用」に関する展示が置かれた。輝くような明るい部屋に
誘導され、そこを通過して退館するような見学コースに変更。

E)「広島復興大博覧会」

広島復興大博覧会:(1958年4月1日から50日間の会期)

平和公園、平和大通り、新しく復元された広島城の三カ所に、テレビ電波館、交通科学館、子供の国と
いった合計31の展示館を設置。中でも最も人気を集めたのが、史上初のソ連の人工衛星を展示した宇
宙探検館と原子力科学館。原子力科学館には、アメリカが期待していたように、「原子力平和利用博覧
会」の際に寄贈された展示物が再び展示され、その展示館として広島平和祈念資料館が再度当てられ
た。

今回は、原爆関係の展示物を別会場に移すことなく、「原子力平和利用」展示物と並列させるというスタ
イルがとられている。展示物を並列させることで、「核兵器=死滅/原子力=生命」という二律背反論的
幻想を強烈に高めた。

『広島復興大博覧会誌』:「近い将来実現可能な原子力飛行機、原子力船、原子力列車などの想像模型
が並べられている。人類の多年の夢が、今や現実のものとなってくるかと思えば本当に嬉しい限りだ。原
子力の平和利用は、世界各国が競うて開発しているところであるが、ここには各国最新の情勢が写真で
もって一堂に集められている。今や日進月歩の発展を遂げつつある世界の原子力科学の水準に一足で
も遅れないようにわが国も努力をつづける必要があると痛感させられる。」

この復興大博覧会を訪れた見学者は、「原子力平和利用博覧会」の見学者のほぼ9倍にあたる91万7
千人。

まさに地獄のような原爆体験をさせられ、放射能による様々な病気を現実に抱え、あるいはいつ発病す
るか分らないという恐怖のもとで毎日をおくっている被爆者たち、しかも被爆者の中の知的エリートたちま
でもが、なぜゆえに、かくも簡単にこの二律背反論的幻想の魔力にとり憑かれてしまったのであろうか?

かくも苦しい体験を強いられ、愛する親族や友人を失い、自分も傷つけられた被爆者だからこそ、「貴方
たちの命を奪ったものが、実は、癌を治療するのに役立つのみならず、強大な生命力を与えるエネルギ
ー源でもある」というスローガンは、彼らにとっては、ある種の「救い」のメッセージであったと考えられる。

アメリカにとって、とりわけ原子力推進にかかわっていた政治家や企業家にとっては、「毒を盛って毒を制
す」ごとく、原爆被害者から「原子力平和利用」支持のこのような「お墨付き」をもらうことほど有利なことは
ない。それゆえにこそ、広島が、とくに被爆者が、「原子力平和利用」宣伝のターゲットとされ、繰り返し「核
の平和利用」の幻影が彼らに当てられ、被爆者たちはその幻影の放つ輝かしい光に幻惑されてしまった
のである。その意味では、被爆者たちは「核の二重の被害者」とも言える存在である。

F)「原水爆禁止世界大会」での「原子力平和利用」支持

被爆者を支える意図を含めて立ち上げられた「原水爆禁止世界大会」が、「原子力平和利用」幻想を打ち
砕くのではなく、逆にその発足当初から支持してしまい、被爆者の眩惑をさらに強めてしまったのみならず、
反核運動にひじょうな熱意をもって全国から参加した多くの市民をも同じ幻想におとしめてしまった。

1955年8月6日に広島市公会堂で開かれた第1回原水爆禁止世界大会:

オルムステッド女史(国際婦人自由平和連盟代表、米国人)の挨拶:
「私の国の政府が、【人類の生活の向上に使わねばならない原子力】を、破壊のために使ったことを深く
おわび申し上げます。 …… 【原子力は人間のエネルギーと同じく、あらゆる国であらゆる人に幸福をも
たらさなければなりません】」(強調:田中)。

「広島アピール」に含まれた文章:
「原子戦争を企てる力を打ちくだき、その原子力を人類の幸福と繁栄のために用いなければならないとの
決意を新たにしました」。

安井郁(原水爆禁止日本協議会事務総長)

この第1回原水爆禁止世界大会の9ヶ月後に同じ広島で開催された「原子力平和利用博覧会」について、
次のような談話を中国新聞で発表。

「原子力の平和利用は将来の文明が進むべき大道であるから、それについて博覧会が開かれるいうこと
はまことに喜ぶべきことである。ただ原・水爆禁止運動に従事する私として気がかりなのは、この恐るべき
大量殺害兵器が禁止されるまえに、平和利用のみはなばなしく叫ばれて、原・水爆禁止の声がそのかげ
にかくされてしまうことである。われわれは原子力の平和利用を進めるのと平行して原・水爆禁止を一日も
早く実現するよう努力しなければならない。原爆都市広島において原子力平和利用博覧会が開かれるに
当り、私は以上のことをはっきりと指摘しておきたいと思う。」

長崎での第2回原水爆禁止世界大会では、「原子力平和利用」に関する独自の分科会がもたれた。

しかし、ここでも「平和利用」そのものを全面的に支持しながらも、原子力が巨大資本に独占されていること
に対する批判に議論が集中。したがって、秘密主義、独占主義を排除し、「民主・公開・自主」という日本学
術会議が打ち出した平和利用三原則を支持するという結論で終わっている。

かくして原水爆禁止世界大会では、「原子力の民主的な平和利用」こそが、様々な経済社会問題を解決す
る魔法のカギでもあるかのようなメッセージが、1963年に分裂するまで毎年、反復されたのである。(原水
爆禁止世界大会は63年、原水爆禁止国民会議〔原水禁〕と原水爆禁止日本協議会〔原水協〕に分裂。19
69年に原水禁が初めて公式に「原子力平和利用」反対の方針を打ち出した。しかし、実質的に原水禁が
反原発で行動をとるのは、スリーマイル・アイランド原発事故後の1979年以降である。)

G)結論 ― 反核・反原発を統合的に推進するために

かくして、日本の反核運動の主流ならびにその重要な一部を担ってきた被爆者たちもまた、「原子力平和
利用」についてはほとんど本質的な検討をしないまま、核兵器反対運動にそのエネルギーを集中させてい
った。このような歴史的背景から、日本の反核運動は、スリーマイル・アイランドやチェルノブイリのような
大事故が起きた時にのみ、反核運動にかかわっていないが、身の危険を感じた一般の主婦、母親、環境
保護運動家たちが立ち上がるという現象を見せてきた。反核運動組織や被爆者からの支援をほとんど受
けないそのような市民運動は、電力会社、原子力産業と政府が打ち出す「安全神話」の反撃によって弱体
化され、おおきなうねりを全国的規模で持続させるということができなかったのである。

現在、福島第1原発事故による大惨事という経験を強いられている我々市民、とりわけこれまで反核運動
に取り組んできた組織に身をおいてきた者たちは、このような歴史的背景を持つ自己の弱点を徹底的、
批判的に検討する必要がある。

原爆が無数の市民を無差別に殺戮したのと同じように、核実験ならびに核兵器関連施設や原発での事故
も、放射能汚染の結果、予想もつかないほどの多くの人たちをして、無差別に病気を誘発させ死亡させる
ことになる恐れがある。

核兵器は明らかに「人道に対する罪」である。「人道に対する罪」とは、「一般住民に対しておこなわれる殺
人、殲滅、奴隷化、強制移送、拷問、強姦、政治的・宗教的理由による迫害」などの好意をさすものであり、
核攻撃は、そのうちの「一般住民に対しておこなわれる殺人、殲滅」に当たる。核実験ならびに核兵器関連
施設や原発での事故は、核兵器攻撃と同じく、放射能による「無差別大量殺傷行為」となりうるものであり、
したがって「非意図的に犯された人道に対する罪」と称すべきもの。「人道に対する罪」が、戦争や武力紛争
の際にのみ行われる犯罪行為である既存の認識は、ウラルの核惨事、チェルノブイリや福島での原発事故
が人間を含むあらゆる生物と自然環境に及ぼす破滅的影響を考えるなら、徹底的に改められなければなら
ない。

残念ながら、これまでの日本の、とりわけ広島の反核運動は、ほとんど反【核兵器】運動にのみ焦点が当て
られ、「ノーモア・ヒバクシャ」というスローガンにもかかわらず、原爆と一部の核実験の被害者を除き、無数
のヒバクシャに対してはほとんど無関心の状態であった。私たちは、このような反核運動の弱点を徹底的、
批判的に検討する必要がある。そのような真摯な反省の上に立って、今後、反核兵器運動と反核エネルギ
ー運動の統合・強化をいかに推進し、人間相互の関係ならびに人間と自然との関係が平和的で調和的な
社会をいかに構築すべきかについて、広く議論をすすめていくことが今こそ求められている。


参考文献:

有馬哲夫著『原発・正力・CIA』(新潮新書 2008年)
田中利幸「『原子力平和利用』と広島―宣伝工作のターゲットにされた被爆者たち」(『世界』2011年8月号
掲載)
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東本高志@大分
higashimoto.takashi at khaki.plala.or.jp
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