[CML 011078] 【毎日新聞:「経済成長、誰のため?」】 集団ヒステリー状態に陥っているのは「脱原発」志向の世論ではない。経済成長に妄執する指導者層である。

uchitomi makoto muchitomi at hotmail.com
2011年 8月 1日 (月) 10:06:49 JST


7月28日に京都にフランスの脱成長論者セルジュ・ラトゥーシュ氏の日本での紹介者である中野佳裕さん(国際基督教大学助手・研究員)をお呼びして、ATTAC京都・中野佳裕さん講演会「ラディカル・デモクラシーとしての脱原発~ポスト3/11の日本の未来をより広く、より深く議論するために~」を行いました。
 
「ラディカル・デモクラシーとしての脱原発~ポスト3/11の日本の未来をより広く、より深く議論するために~」
http://d.hatena.ne.jp/Jubilee_Kansai/20110718/1311000118
 
「現代民主主義の課題は生命のあり方を考えること」「『生命世界を守る』ことこそが今日の民主主義(ボリビアのモラレス大統領の「母なる地球の権利」「国連における自然の権利宣言採択提案」を想起しました)」「サブシステンス(生存基盤)の観点から生存権・生命権を再定義する」「『未完の革命としての平和憲法』の観点から未来世代の平和的生存権の保障としての脱原発の必要性」など、中野さんから極めてラディカルな議論が展開され、有意義な集いとなりました(インドの環境活動家ヴァンダナ・シヴァさんの「生命系民主主義」「アースデモクラシー(地球民主主義)」などを想起しました)。
 
「地球に対する戦争を終えるとき」 ヴァンダナ・シヴァ女史、「シドニー平和賞」受賞スピーチ
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/256b3091be9696c16d98dca692335154
 
 東京から参加された方もおられ、参加者の感想も「とても興味深く現実的でした。原発、持続可能性、構造的暴力に関するレクチャーがよかったです」(ニューヨーク市立大学学生)、「エクセレント!大変有益なお話でした」(同志社大学教員)、「脱原発について、社会政治から根本的に問い直せたらと思います。脱成長、脱原発は容易なことではなく、企業を巻き込んでやると課題も多いと思います…しかし、生命系、これからの世代への責任としてこの意識が広がっていくことが大切で、そのために努力していかなければならないと思います」(立命館大学学生)、「大変興味深く、非常に賛同します。憲法についても新たにとらえ直して、読み解いていきたいと思いました」など大好評でした。
 
 今日、求められている「脱原発」(ポスト3・11における社会のあり方)とは、原発を自然エネルギーに置き換えることだけではなく、現在の経済システムや生き方そのものを変える、すなわち社会のあり方やその背後にある価値観そのものを変革することであり(「成長神話」からの脱却)、そのためには市民が主体となって声をあらのだげ社会のあり方を根本的に問い直す「ラディカル・デモクラシー」(エルネスト・ラクラウ)こそが問われていることが明らかになった講演会でした。

「ポスト3・11の日本における課題が『すべての生命の住処であるこの世界を守ること』であるならば、生命系に立脚した政治哲学とその実践の構想がこれからの現代思想の中心テーマの一つとなるはずである」(中野佳裕「脱成長 生命世界を守る社会の展望」『現代思想』7月臨時創刊「震災以後を生きるための50冊」所収)
 
 実は、緑の党が大躍進し「脱原発」を決断したドイツにおいては、すでに長年にわたってこうした「経済成長の是非」をめぐる議論が行われてきたことや、そうした議論がドイツの今日的な政治状況を生み出していることを先日の講演会で大阪大学の木戸衛一先生からお聞きしました。
 
【翻訳紹介/ATTACドイツ】 「公正な脱成長の経済」をめざして 脱成長 – 成長を超えた公正な経済のための12本の「逃走線」
http://d.hatena.ne.jp/Jubilee_Kansai/20110719/1311056769
 
 
(以下、本日の「毎日新聞」の記事です)
 
風知草:経済成長、誰のため?=山田孝男
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20110801ddm002070085000c.html
 
 「脱原発もいいが、経済成長をどうしてくれる」という声を聞くたびに、思い浮かぶ顔がある。「経済成長の条件がないのに成長を求めるな」と説いたエコノミスト・下村治(89年、78歳で死去)である。
 
 その生涯は、沢木耕太郎「危機の宰相」(08年文春文庫)や水木楊(よう)「思い邪(よこしま)なし」(92年講談社)にくわしい。
 
 下村は戦後を代表するエコノミストだ。60年代には自民党の高度成長政策を支える最大の理論家だった。石油ショック(73年)以降は「ゼロ成長」論の旗手。変化を読み、新時代への適応を果敢に論じた。
 
 原発が次々に止まる現状は石油輸出国機構(OPEC)の生産調整で原油の輸入が止まった70年代に似ている。
 
 あの時、下村は、成長からゼロ成長へ、アッという間に変身した。「変節」を問われた下村は、「考え方が変わったわけではない。経済に与えられた条件が変化したのだ」と答えた(下村「ゼロ成長/脱出の条件」76年東洋経済新報社)。
 
 いまはどうか。政官財の指導的な立場の人々も、主流のエコノミストも、引き続き経済成長を求めてやまない。原発の危険は思い知ったものの、成長を妨げる根本的な環境変化とまでは考えない。原発リスクと成長をはかりにかけ、針路を自在に選べると思っている。
 
 そこがおかしい。私自身、3月11日まで気づかなかったけれども、天変地異が続く今日、原発は急迫の脅威だ。成長が大事だから危険を低めに見ようというわけにいかない。低レベル放射性物質の影響は軽微と強調する向きがあるが、使用済み燃料を含む肝心の高レベル核廃棄物処理は展望ゼロだ。
 
 もし下村が元気だったら、原発リスクを根本的な条件の変化と受け止め、原発依存の成長論者をたしなめたのではないかと思うゆえんである。
 
 下村は晩年、「日本は悪くない/悪いのはアメリカだ」(87年ネスコ刊、09年文春文庫)を著し、アメリカの強欲資本主義と、日本の卑屈な追随を徹底批判した。日米協調優先の論壇主流からは黙殺されたが、時間の経過とともに再評価され、文庫版が読まれている。
 
 「物事が発展し、複雑になると、いつの間にか基本的なことを忘れてしまいがちである」と下村は切り出す。経済活動は何のためにあるか。国民が生きていくためだ。ところが、現実には、国民経済・国民生活よりもグローバル企業の経営効率が優先されがちだ。
 
 「現実の人間を見ず、人間のいない経済を想定して、いったい、どういう意味があるのだろうか」。下村の憂憤は、24年を経てますます新鮮だ。
 
 マネーゲームが幅を利かせる強欲資本主義は今日、全地球を席巻している。原発は経済成長の強力な基盤だ。中国は2020年までに100万キロワット換算で70基の原発をつくるという。猛スピードで突き進む経済発展のほころびの一つが中国高速鉄道の事故に違いない。
 
 原発停止は江戸時代に戻ることを意味しない。5年前、10年前の電力消費水準に戻ったとしても、日本はつぶれまい。立ち止まって原発依存を見直し、安全な社会、健全な経済を再建するという意志さえ明確であれば、「脱原発」でも「減原発」でも同じことだろう。
 
 集団ヒステリー状態に陥っているのは「脱原発」志向の世論ではない。経済成長に妄執する指導者層である。(敬称略)
 
(毎週月曜日掲載)
 
毎日新聞 2011年8月1日 東京朝刊

  		 	   		  


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