[CML 008851] チュニジア、エジプト革命の一考察(再送)

Yasuaki Matsumoto y_matsu29 at ybb.ne.jp
2011年 4月 7日 (木) 19:56:29 JST


きのう送ったものが字詰まり文字化けで失敗してしまいました。再送しますので読んでいただだければ幸いです。煩わせてごめんなさい。

みなさまへ (BCCにて、転送転載歓迎)松元@パレスチナ連帯・札幌

米英仏軍のリビア介入はアラブに広がりつつある反体制運動に大きな冷水を浴びせた格好ですが、まだまだこの燃え広がりは消えそうにもありません。一方、わが国ではこれほど未曾有の大災厄を起こしていながら、依然として巨悪はなかなか尻尾を出そうとしません。幾重ものオブラートでデータと正体が隠されているため、明治以来、権力を丸ごとつかむ認識装置を我がものにした経験を欠いているようです。しかしつぎつぎと隠蔽構造が暴露されているいま、日本の「旧体制」を変革する転換点にできるかどうかすべての日本人に問われています。アラブの若者の革命からも、私たちが学ぶものがあるかもしれません。放射能への不安と政府・東電への不満がうずまく中で恐縮ですが、コロンビア大学中東研究所のエドワード・サイードといわれているラーシド・ハリディの一ヶ月前の「革命分析」をお届けします。


RASHID KHALIDI: REFLECTIONS ON THE 
REVOLUTIONS IN TUNISIA AND
EGYPT
Posted: 02 Mar 2011 10:31 PM PST
http://www.intifada-palestine.com/
by: Rashid Khalidi

《チュニジア、エジプト革命の一考察》

2011年3月2日
ラーシド・ハリディ

これはまず何よりもアラブ世界および全中東における間違いなく新しい可能性をはらんだ瞬間である。われわれはこのような転換点(ターニングポイント)を本当に長いあいだ目撃することはなかった。かつては乗り越えられない障害が、思いもかけず乗り越えられるようになったようだ。完全に二世代にわたってアラブ世界を横断し強化されていた独裁体制が、突如弱点をさらけだした。それらのあいだでもほとんど手におえなかった二国―チュニスおよびカイロ―がたった数週間の出来事のうちにわれわれの目の前で崩壊した。もっとも野蛮で弾圧的なトリポリの国は、この瞬間にぐらついている。

こんなにも長いあいだこれらの国を支配してきた年寄りたちは、突然、支配者である自分自身および己の年齢と彼らの40年、50年、60年後に生まれてきた自国民の大多数との間の隔たりがこんなにも大きかったということに直面している。明らかに凍りついてしまった政治的社会的状況が、最初にチュニジアの都市や町々ついでエジプトに引き継がれ、民衆の激しい怒りの波のなかでほとんど一夜にして溶け落ちてしまった。さらに今なお他のアラブ諸国に広がっている。われわれは、かつては固定されているかに見えた正しさ(基本的価値)が消滅し新しい可能性と勢力が出現するまさに世界史の瞬間を体験する恩恵に与っている。   

ほとんどもっぱら髭を着けて怒った「われわれの自由を憎む」テロリスト狂信者を登場させては常習的にこの地域の映像を伝えてきた同じ西側主流メディアが、こんどは際立って道理ある自由、尊厳、社会正義、説明責任、法の支配、および民主主義を要求するふつうの人々の平和的なイメージを放映し始めた。その日が過ぎるとアラブの若者たちは、東ヨーロッパ、ラテン・アメリカ、および南アジア・東南アジア・東アジアの過渡期に民主主義を促進させた若者たちとなんら違わない希望と理想をもっていることを証明してみせた。

中東に注意が向けられるたびにイスラム原理主義とテロリズムに焦点をあわせたこのメディアの執拗な取り扱いに人々が欺かれたために、これらの若者の声は始めはたんに意外な新事実に過ぎなかった。したがってこれはアラブ世界のことだけではなく、他者によってアラブがいかに理解されているかにとってもまたこのうえなく重要な瞬間なのである。意図的系統的にかつ常習的に―おそらくここ10年では他のだれよりも―中傷されてきた人々が、新しくかつ大規模に積極的な輝きを示したのは初めてのことである。

もっとも困難な仕事はまだこれからである。チュニスであろうとカイロであろうと、さらに非常な困難を強いられているトリポリであろうと、現実認識が欠けている独裁者とその貪欲なファミリーを転覆させることは容易ではなかった。民主主義的なシステムを機能させ創出することは、非常に困難であろう。かりにそれが創設されるとしても、アラブ世界に満ちあふれている金権家や権力をもつ利害に身を固めている軍人たちに支配されない民主主義的なシステムを確実にすることはさらに困難であろう。最後に、大部分で必要とされているインフラストラクチャーおよび機会均等、質の高い教育、きちんとした家、いい仕事、それらを与えるために必要となる社会正義および迅速な経済成長を達することはどんなに新しい大衆的で民主的な体制にとっても非常に困難な課題となるであろう。

これらは旧体制が提供に失敗し、それらをお留守にしたことが現在この地域にすさまじい勢いで広がっている若者たちの革命を誘発した確かな事である。気力をくじくようなどんな困難な課題を前にしても、その障害は反動や鎮圧の軍隊によってしっぺ返しの復帰に至るかもしれない。それはまた、アメリカの侵略とイラクの占領およびそれに伴うイラク国家の崩壊からつくり出された混乱と無秩序の状況によって利益を得る過激で暴力的な少数派の動向を引き起こすかもしれない。そして、これが世界の大部分が欲しがり外国の利益が最大限浸透してしまった中東だということをけっしてわれわれは忘れてはならない。歴史を貫通してきたように、たやすく進路を転換し結果を捻じ曲げることができた外部の介入というものは、それほど危ういものなのである。

それにもかかわらず、チュニスとカイロで起こったことは、長いあいだ閉ざされていた地平を開いた。若い世代の志を侮蔑して扱い、多くの旧世代が主要な権力を自分の手に集中している体制に堰き止められていたアラブ世界で、若者世代の知性とダイナミズム、エネルギーが爆発した。見たところアラブ世界の若者たちは、かつて無敵で身震いしてだれもが尻込みするように見えた恐るべき警察国家体制から、どこからともなく自信、確信および勇気を得たようにみえる。

若いチュニジア人やエジプト人がアラブの衛星TV局で語っているのを見ることは、西側の多くの人々にとって意外な新事実であった。これらの若い人々は、賢くしかも堅い決意をもって考えをはっきり述べていた。アルジャジーラは、とりわけチュニジアで、そのうえエジプトで、いまリビアで 他でも、起こったことの重要性に気づいた他のメディアに先行したやり方で、成り行きにかんしてはアラブ世界をもっと越えて中継ニュースで大いに信用を得た。他のアラブTV局は、エジプト局も含めて主要な役割を演じていたにもかかわらず、かつての鎮圧の恐怖は退潮し革命の精神が広がった。

12日間の拘禁から解放された直後の番組、とりわけ一方に良識を他方に深い感情をともなっている彼の調和ある明晰さを伝えたワーエル・グネーム(Wael Ghonim)のドリームTVの 
インタビューにエジプトのすべての人々および世界の大部分の人々が釘付けにされた。そして彼が明らかにグーグルの幹部であったという事実は、とくに西洋人をじつに巧みに操っていたということになる。

エジプトの外の若干の人々は普段からもっと印象的なことを聞いていたのだが、他の若いエジプト人たちはブロガーのアスマー・マホフーズ(Asmaa Mahfouz)のように、あるいは 
ジャーナリストで活動家で運動のリーダーであるナワラ・ネゲム(Nawara Negm):(1960年代から 
1970年代にエジプトでもっとも流行した国民的詩人のひとりアハマド・フアード・ネゲム(Ahmed FouadNegm)と 
有名なフェミニストであるサフフィナーズ・カーゼム(SafinazKazim)との娘):のように、説得力があり力強いビデオ・ブログの新しい革命運動のリーダーたちが、1月25日の抵抗を刺激し推し進めてきた。

ネゲムのTVインタビュー・ドリームは、抵抗するリーダーたちの明快で戦略的なくっきりとした判断力を伝えた―彼女はリーダーではなかったと異議をとなえているのだが、次のように言っている。「私たちはリーダーを必要としません。私たちはzaims(強い男)を必要としません。そうした舞台は、私たちの歴史ではもう過去のものです。」もし軍がその約束を守らなかった場合、抵抗運動はどうするのかという問いに応えて、彼女は、じつにきっぱりともっともらしく応えた。「私たちは〔タハリール〕広場にもどる道を知っています。」これらの若い女性たち、彼女たちと同様の何百という男や女たちが、30年ものあいだ権力の中枢にいたファラオを倒した運動をたった18日間でつくりだしやり遂げたのである。

過去数十年にわたって、アラブ諸国は世界の他の地域を席巻した権威主義から解放された潮流の例外であることが、かつては漠然と続いているかのように見えたものである。しかしアラブの若い世代は、とつぜん他の者たちと少しも違わないということを証明した。彼らは、自分の地域の外部の事例を注意深く観察し、別のところで結果を引き継いできたことを示した。米国とヨーロッパが与えた最上の機関で大規模な訓練をしてトップブランドの装備で際限のない手段をもっている警察国家よりも、彼らのテクノロジーの能力ははるかに勝っており、彼らは先輩たちの過ちからたっぷりと学んできたのだ。

この最後の点が厄介な問いとして浮上する。占領された西岸のビリーンのような村々で抗議運動をしているパレスチナ人と若干のイスラエル人および外国人活動家たちに対して、彼らが長年組織的に使ってきたようにチュニスやカイロでも平和的なプロテスターに向かってなぜアメリカの催涙弾が大量に使われたのか? 米国やフランスおよび他のヨーロッパ諸国の情報部門とこんなに親しい間柄なのに、なぜベン・アリとムバラクが手引きしたのがならずものと暗殺団(暴漢)だったのか?実際にはアラブ世界最大の味方である米国およびヨーロッパ連合の主要な政策が(実のところ民衆の要求を阻止する鎮圧と腐敗および民主主義破壊の支援を意味したのであるが)、なぜ、たしかに唯一「安定」のための支援だったのか?

これらはワシントン、パリ、ロンドン、およびボンの政策立案者たちが答えたくない問いであろう。しかしそれらは、アラブ世界のいたるところで西側および他の国際メディアの後を追って世界の方々で起きていることを意識している賢い若者たちが考えていることであって、こんなに長いあいだ彼らを抑えつけてきた人々以上に彼らはさらにもっと目覚めていると考えるべきだ。

パーマストン卿とウッドロウ・ウィルソンの時代に戻ろうとする非西欧世界の人々のように、このアラブの若い世代もまた、偉大な西洋民主主義で宣言された理想と彼らの利己的でご都合主義的な政策の間の積年のギャップに目覚めるようになったのである。この自覚があるゆえに、アメリカやヨーロッパの当局者たちがすでに革命的な変化に突き当たって処理してしまったチュニジアやエジプトの人々に、あるいは同じことを試みているアラブ世界の他の人々に向かって何かを説教するなどということを差し控えるならその変化の兆しは歓迎されることだろう。

明らかにこれらの若い革命家たちは、二週間前までは文字通り独裁者の隠れた親友であった人々、チュニスやカイロで残存しているアラブの専制君主といまなお親密につながっている人々よりも民主主義と社会正義を達成するために必要なことをよく分かっているのだ。

チュニジア人とエジプト人の革命は、多くの問いを提起している。急進的なポピュリズムの実験で失敗した西洋植民地主義からの解放のあと、1950年代と60年代のアラブ・ナショナリズムおよび国家主導の経済開発は、不況と独裁政権による弾圧および専制的な君主政体に身を委ねてきた。1960年代からおよそ10年間、レバノンとクェートという部分的な例外はあるが、硬化症の権威主義体制があらゆるアラブ国家を支配した。これは、1970年代あるいはその後に生まれた大部分のアラブ人が長くさかのぼって思い出すことが出来る終わりのない夜が戻ってきたということである。

非常に若い三分の二の住民の大部分は、軍外部の老齢化した当局者たち、あるいは独裁的な世襲の支配者たち、あるいは彼らの選んだ後継者たちのいずれかによっても、彼らが統治されたことがないしその時代を何も知らない30歳未満なのである。

この汎アラブ・パッチワークの権威主義体制の最悪のものは、支配者たちが彼らの人民に示した軽蔑であった。これらの点からみれば、人民が解決するには、彼ら自身の代表を選ぶには、あるいは社会的余剰や外国の援助を割り当てるには、未熟すぎたということである。これらのことや他の大部分のことは、彼らのまだましな人物あるいは彼らの支配者たちが代わりになっていた。権力をもつ人々が引いた限界に挑戦した誰もが、街頭で支配者あるいは警官による際限ない暴力行為のもとで危険に晒された。

これは彼が警官の不正をビデオに録画してリポートした(フェイスブック「われわれはみんなハーレド・サイード(Khaled 
Said)だ」は、皮肉にもエジプト革命の多くの引き金のひとつとなった)不正警官によって白昼堂々と死ぬまで打ちのめされた若いアレキサンドリアのブロガー、ハーレド・サイード(Khalid Said)の運 
命という教訓であった。

ほとんどすべてのアラブ市民の共通の尊厳に対するこれらの絶え間ない侵害、および彼らが役立たずで無価値であるという不断の主張が、結局は内面化され、自己嫌悪が広まり社会不安の病根を生み出した。これは、他の事柄の中にも自らを現わした。宗派間の緊張、女性に頻繁に起きるセクシャル・ハラスメント、犯罪、ドラッグ、はびこる無作法と公共精神の欠如、である。

これらの現象すべては、彼らの主体的なちからの中で抱かれたおぼろげな視界をはっきりさせるためにその姿を現わしたのである。それは、チュニジアのシーディ・ブーゼド(Sidi Bouzid)の街 
の若い売り子モハッマド・ブーアゼーゼィ(Mohamed 
 Bouazizi)の自己犠牲(焼身自殺)の衝撃的な輝きの後にきたものである。最初にチュニジアの人々の連鎖反応が始められ、次いでエジプトで強権体制に立ち向かう彼ら自身の能力が悟られ準備され、弾圧の何十年間でつくられたこれらの深いトラウマに打ち克つことが可能となった。複合的な情報は、つぎのようなことを知らせていた。たとえばカイロの抵抗においては、人々がタハリール広場でたがいに食べ物を分け合っていた、セクシャル・ハラスメントが著しく減退した、ムスリムが彼らの祈りの間キリスト教徒を公然と保護しそしてその逆もあった、若いエジプト人ボランティアが通りを掃きごみを拾い集めていた、と。無論、千年王国は来なかった。それは、宮殿や高価な別荘から彼らを支配した高慢ちきな主人に従うみじめな奴隷のように要するに単に哀れだったのではなく、尊厳を持ち彼ら自身の運命の主人となった感覚をもって、チュニスやカイロの街頭あるいは他のたくさんの都市や町々で人々に授けられた尊厳と権利を拒否した者たちに向かって立ち上がっているという単純なことだった。解放のこの精神が耐えられるかどうか、進行中の他のアラブの革命が存続しそれを支援できるかどうか語ることはできない。たとえこの精神が、エジプトのような非常に困難な国家の構造的な問題を克服するために十分持ちこたえられたとしても、これらの大変動が文字通りの体制変革に等しいものであるかどうか、チュニジア人とエジプト人が新しい政治システムの土台を築くことに成功するかどうか、ことによるとムバラクなしのムバラキズムとベン・アリの化石で終わるかどうか、われわれは知ることができない。コネの多いエジプトの軍人あるいは双方の国で身分を強化している上層階級であろうと、たとえ双方の国のエリートがベン・アリやムバラクや彼らの親密な協力者の何人かをいけにえにすることを望んでいたとしても、彼らの権力をそう簡単には譲らないだろう。(チュニジアの暫定首相モハッマド・ガンヌーシ(MohammadGhannouchi)はベン・アリ政府の大臣であった。戦闘司令官ホセーン・タンターワィ(FieldMarshal Hussein Tantawi)はエジプト軍事政権のトップであるが、ムバラクの国防大臣であり取り巻きであった。彼らはけっしてすべてを犠牲にはしなかった。)にもかかわらず、チュニジアとエジプトの人民においては二世代にわたって初めて、よりよい人生を、より大きな尊厳を、自分たちの生活をもっといいように意欲的に求めるというこれまでにない希望をもつことができるようになった。これらの国々の若者は、大衆の不満をいかに利用するか、それを現体制に対抗する勢力にいかに転換するかを見つけ出した。必要なことを託された者たちが、もしぐずぐずと決定を引き延ばすようなことがあれば、彼らは街頭に戻る道を知っている。もし独裁が維持されるなら、その根本にはびこる絶望と落胆に抗って戦うために他の多くのアラブ諸国の人々をこんどはこの精神が明らかに鼓舞するだろう。別の大きな問いは、チュニジアとエジプトで起こったことそしてリビアで起こっているように見えることが、真のアラブの革命の波の開始を告げているのかどうかである。イエメン、ヨルダン、アルジェリア、バハレーン、モロッコ、およびイラクにおける反体制運動は、今のところ腐敗した現体制による至るところにある不満にたいする影響力ある表現以上のものではない。それらがメディアによって誇張されていたチュニジアやエジプトの出来事の強力な共鳴であるにせよ、これらの国々の権力に属している人々を引きずりおろす可能性をもっている兆候はそれらのうちには―リビアという例外はあるが―まだない。それらの国々相互の体制にある類似のすべてに関しては、チュニジアやエジプトと他の体制とは著しく異なっている。それらのうちのかなりの住民は、明白にヨルダン、アルジェリア、バハレーンおよびイラクは、支配者たちが常に分割統治を利用できるかなりの少数民族、地域的あるいは宗派的な溝があるため、エジプトやチュニジアよりも人口統計学的な相同性はより少ない。そして同様の事例で、いちじるしくアルジェリア、イラクおよびヨルダンは、最近、いやそれほど最近ではないが、これらの社会は引き裂かれた血まみれの闘争の記憶があるため、抵抗することをためらう人々を作り出してきたようだ。それにもかかわらず、チュニジアやエジプトに始まった新たに出現した精神は、民主主義的要求と抵抗の精神という伝染効果を疑いなくもってそれがアラブ世界に広がっているように見える。ちょうどアラブの衛星TVを観て抗議の証言をラジオで聴いているのだが、はじめにチュニジア人の革命家たちが、ついでエジプトの兄弟姉妹たちが掲げたそのスローガンが、モロッコからバハレーンまでどこでも遍在して話されているアラビア語であることに思い当たり驚いたものである。:「Al-sha’b yuridisqat al-nizam(国民は政権を倒したい)」結果が何であれ、アラブの若者の全世代の自由と尊厳にとってそして社会全体の大志にとってだけでなく、アラブが共有する公共圏の存在にとっても、これらの出来事は目を見張る堅信礼(幼児洗礼を受けたものが成人になって自覚的に信仰告白をする儀式。いわば日本の成人式=訳注)となった。たとえ衛星TVを含む多くの現代的メディアのお陰をこうむっているとしても、テクノロジーの特質について過度に注目することは誤りである。このような共通公共圏は、ラジオあるいは新聞・雑誌の印刷物であるかどうかは別にしてテクノロジーの初期の形態に頼っていることは過去にも存在したのだ。とくにアル・ジャジーラの自信過剰は誤解を招いた。衛星テレビジョンの初期においては、なるほど視聴者を失わないために多くのニュースをカバーしてサウジが所有しているアル・アラビーヤや他の局にさえ強いた競争を導入することで、国家の放送システムを独占して報じることが必須のことであった。チュニジアで反政府暴動が起きているあいだ、遅れてエジプト人の注目すべき大事件のあいだ、アル・ジャジーラはアラブ人の移住離散者(出稼ぎ)およびアラブ世界中の視聴者をひきつけた。しかし抗議そのものについても視聴率のためのかなりの割り当て時間についても、権謀術数に長けたイスラム主義者好みの報道はけして思慮深いものではなかった。パレスチナ人の状況を報道するさいに常にハマースを支持する姿勢においても、チュニジアとエジプトの革命の最中で、チュニジア人イスラム主義者ラーシド・アルガンヌシ(Rashed al-Ghannouchi)がチュニジアに戻るときの集中的な報道、あるいはムバラク体制陥落直後にエジプト人のイスラム主義者に目立って光を当てたこと、こうした偏向が著しく見て取れる。同様に、アルジェリア人イスラム主義者で指導的立場にいるアリー・ベルハージュ(AliBelhadj)が2月13日にアルジェリアで行なわれたデモンストレーションに参加したことをアル・ジャジーラは強調して報道していたが、これらの群衆が彼を暗殺者呼ばわりしたことには触れなかった。指摘しておきたいのは、アル・ジャジーラはしばしば大胆な特集番組を配信してアラブの視聴者をしっかりつかんで支持されてはいるものの、彼らは必ずしも幹部の後押しによる政治的な路線にまで倣っているわけではない。これまでにアラブ諸国の反政府運動については多くの報道がなされてきたが、それらに参加している大部分の人々はイスラム主義とはとくに関係がなく、はっきり言って彼らが要求する尊厳、自由、民主主義および社会正義にはイスラム主義はすこしも見出せないのだ。これらのアラブ革命が提起した最後の問いは、われわれの目前で崩れ落ちているように見える腐敗したアラブ国家体制を支えてきたパートナー、米国とヨーロッパの支配についてである。民主化への支援とその関与、あるいは独裁者に求められたことは何でもするという体制擁護、それらの原則のあいだで中東の外交政策において米国はいつも引き裂かれている。公共的な監視の目が少ないために、中東における米国の政策はほとんどいつも後者の衝動が優位を占めている。今日、完璧な英語を駆使しながら民主主義を要求し憎まれた独裁者を倒しているカリスマ的なアラブの若者層についてアメリカのメディアが特集記事を組み、それを一般の人々が目にしている一方で、ワシントンは生ぬるくも民主主義への移行を支持し、他のアラブの取り巻き諸国に対しては彼らの国民を弾圧しないよう呼びかけたものである。アメリカ国民の注意がアラブ世界から逸れるとき、必ずと言っていいほど何かが起こるのはただ驚くばかりだ。中東で起こったこの新たな時代には、どんなケースにおいてもワシントンがやってきた従来のアプローチはさらに困難なものになるであろう。たとえ独裁者と専制君主が権力に留まっていても、以前は政策を作るさいこれらの民意を無視してきたことが、もはや彼らの国民を無視することはできないと気付かされている。これが、ワシントンが誘導するイランに対する引き続く冷戦に服従することを意味したとしても、あるいはイスラエルがパレスチナ人の領土を植民地化しその占領行為を強化したとしても、どんな圧力からもイスラエルを擁護するという大部分のアラブ諸政府にとって非常に不評な政策をこれ以上長く維持できるはずがない。多くの内容がアラブ世界で決定されることとなり、外交政策の形成の中に世論の本当の情報が反映されるのはまだこれからのことである。しかし、サダトやキング・フセインが自国やアラブ大衆の世論を無視したり、あるいはパレスチナ人を残酷に扱っているのにイスラエルとの和平をするという、そういう時代はたぶん過去のものになるだろう。たとえ全アラブ世界が真の民主主義に移行したとしても、エジプトやヨルダンとのイスラエルの和平協定はほとんど十中八九生き残るだろう。しかし、地域のいたるところの街頭で異議申し立てされているいま、沈滞したアラブ側の特色であったイスラエルや米国に対する服従や好意を当てにする者はもうワシントンに誰一人としていないだろう。それに代わるものを誰も予想することはできない。インターネット・カフェだけでなく、労働組合のホールで、新聞社の編集室や女性の集まり、あるいは自宅にいる何百万というアラブの若者たちによって、政府が従来見せてきた自国民に対する侮蔑と軽蔑にもうこれ以上我慢できないという声を外に向けて最大限発信してきたように、これからもたぶんこれらの街頭で決定されるのであろう。彼らはそのスローガン「人々は体制の崩壊を望んでいる」によって、われわれ全員に警告を発した。彼らはただ単に腐敗した自国政府だけではなく、大西洋からペルシャ湾にいたる全アラブ世界で何十年もはびこってきた旧体制をも意味しているのだから。(松元訳)原文以下:拙訳で恐縮です。不適切な訳文があれば教えてください。http://www.intifada-palestine.com/------------------------------------パレスチナ連帯・札幌 代表 松元保昭〒004-0841  札幌市清田区清田1-3-3-19TEL/FAX : 011−882−0705E-Mail : y_matsu29 at ybb.ne.jp振込み口座:郵便振替 02700-8-75538 ------------------------------------


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