[CML 005680] 来年の検定・採択にむけての合宿に参加して

Okumura Etuo zxvt29 at dokidoki.ne.jp
2010年 9月 20日 (月) 16:04:33 JST


愛媛の奥村です。

9月18/19日の広島で
来年の検定・採択にむけての合宿を行いました。

以下、
これに参加した奥村の感想とその反省です。

採択・検定問題を
国家と教育という観点から捉える必要について
書いたものです。

以下、参加者の方に送りましたものを少し手直ししたものです。

読んでもらえれば、幸いです。

重複される方、すみません。
BCCでお送りします。

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広島のみなさん、
受け入れ、ご苦労さまでした。
そして、ありがとうございました。

当初、思っていた以上に、来年に向けた取り組みのための
意見交換ができたと思いました。

以下、その感想としての私の反省です。

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私が皆さんに伝えたかったこと、
「国家と教育」との関係、

国家と「国民」との関係における教育の役割について
そのことが、伝えられなかったと
反省しています。

「つくる会」教科書をはじめとする
教科書問題の核心は、

歴史の歪曲に象徴される
歴史認識だけではないということです。

このことにだけ捕らわれると、
つまり、
扶桑社版・自由社版の採択の有無にだけに捕らわれては、
国家と教育の関係をめぐる重要な問題が見えなくなるだろうと思うのです
が・・・・。


国家と教育の関係の問題点を、
国家と宗教との関係に置き換えて
書いてみます。
すると、少し、奥村が訴えたい
このことの問題が、見えてくると思うのですが・・・・。

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明治にはじまる近代国家日本は、
1945年の敗戦まで、
国家と宗教が、天皇教(国家神道)によって一体化されて
天皇の赤子としての天皇教というイデオロギーを
人びとは注入されました。

これを可能にしたのは、
国家が教育を完全に支配したことによってです。

そして、
「国民」の多くが、天皇制軍国主義・国家主義に染められ
軍国少年・少女となり、
あの忌まわしい侵略戦争を支えました。

ヨーロッパにおいても
キリスト教が、
人々を支配するイデオロギーとして宗教を利用し、
政治権力と宗教権力が一体化され、
人びとは支配されてきました。

これを克服するために、
どれほど多くの人びとの血がながされのでしょうか!

国家と宗教(イデオロギー)を分離させるという
政教分離という大原則が打ち立てられ、
支配者に〈法〉としてこれを遵守させる定めることを実現させました。

権力の濫用を〈法〉で縛り、人々の自由を保障するという
法の支配の一つの現れです。


人びとは、個々の思想・信条の自由をはじめとする
国家による宗教というイデオロギーによる統合・管理支配からの解放を
勝ち取ったのです。


日本国憲法では、
20条の信教の自由と
その制度的保障としての
89条の 宗教団体への公金支出の禁止でとして
それが明記されています。

これは、
憲法18条、19条、21条〜26条などの
個人の人権にかかわる自由権などをめぐる諸権利と相関関係にあります。
個人のこれらの人権条項・自由権は、
国家からの干渉が排除されなければ
保障されません。

学校における「日の丸」「君が代」問題を考えれば
個人の思想・信条の自由は、
国家などの行政権力からの干渉からの排除規定がなければ
つまり、これらの人権条項と政教分離に示された
国家からの干渉からの自由が
保障されなければ、
これらの人権条項の保障もないことを明確に示しています。


現在、つまり、「国民国家」においては、
宗教に変わり、
国家が、「教育」を支配し、あるいは、介入し、統制し、
国民を統合する装置として「公教育」を利用し、
「国家の支配たち」が発信すイデオロギーに賛同する
「日本人」「日本民族」という名の信者を生み出そうとしているのだと思います。

本来の教育とは、
人びとが、生まれもっている個々の特質を
豊かに開花させ、
自立したこの個々人が、
互いに尊重され、尊重する
個々人となるための
そして、かけがえのない一人の人格をもつひととして
この社会において、
生きるために必要な〈ちから〉としての
知識や豊かな感性を育むためのものとして本来の教育があると思います。

しかし、現実の教育は、
ここから遠く離れています。

というか、「国民国家」における「公教育」の形成の歴史は、
支配者たちの都合に沿った
「国民」を生み出すための「公的施設」として
教育が始まったという歴史があります。

このようなこと
戦前の教育内容及び教育制度の反省として、
戦後教育が、基本的にはじまったはずですが・・・

しかし、
教育内容も、「君が代」「日の丸」に代表される
「国民国家」における「日本人」イデオロギーを

「日本人としての誇り」
「日本の伝統と文化」
という「つくる会」らが主張するイデオロギー
を盛り込んだ教育を子どもたちの注入し、
また、それを教員らに、保護者に求められています。

このような国家の教育目的を
人びとに注入させることを防ぐものとして、

つまり、
国家の教育支配を、介入・統制を禁止するものとして
教基法10条が明記されたという経過があります。


文部省教育法令研究会『教育基本法の解説』126~127頁より

「教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂に時代の
政治力に屈して、極端な国家主義的又は国家主義的イデオロギーによる教育・思想・学
問の統制さえ容易に行なわれるに至らしめた制度であった。更に、地方教育制度は、一
般内務行政の一部として、教育に関して十分な経験と理解のない内務系統の官吏に
よって指導させられてきたのである。このような教育行政が行なわれるところには、は
つらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生まれることはきわめて困難であった。」

教育の地方分権として
各自治体に、その自治体からも独立した
行政委員会としての教育委員会が設置され、
制度的に国家権力をはじめとする
行政権力(教育委員会)の支配を薄める、防止する制度を採用したのです。

そして、文部省は、解体されるはずでした。

教科書も
国定教科書から、
検定教科書とし、採択という制度があるのです。

しかし、
検定は、国家の教育統制を受けるものとして存在し
この国家統制が強化されてきました。

一方で、
検定済みという制限がありますが、
教員を中心とした住民側に、子どもたちの学習権(本来の教育)の観点から
どの教科書がふさわしいのかを選び権利としての選択権として、
採択があります。

この採択権、選択権とは、
国家イデオロギーを、
住民が可能なだけ排除された教科書を選びとる権利、
子どもの本来の学習権により近い教科書を
権利として選ぶ採択権であると・・・・
採択手続であると奥村は、理解しています。

これが、教育委員会の権限ということになれば、
教育への国家支配がより一層強化されることになります。

ですから、
どの教科書が選ばれたのか、
つまり、国家イデオロギーが反映している扶桑社版・自由社版教科書が採択されたと
いう
採択結果のみ関心が注がれると

この問題の核心が見えなくなると
奥村は、皆さんに伝えたかったのです。

この間、道徳教育が、全面に出てきています。
歴史認識の視点からのみ、教育や教科書問題を考えると、
この問題には、十分に対抗でききれないだろうと思います。

つまり、
国家と教育の関係という観点から

教育を宗教との関係と同じく
国家と教育を考えること、
国家イデオロギー装置として
教育や教科書の問題を捉える必要があると思うのですが・・・・。

そして、
検定・採択問題もその視点から考え、
国家の教育イデオロギーの注入を防ぐものとしての制度として、
制度的保障としての採択制度(手続)であるとの理解が
必要ではないだろうかと思います。

採択権限が、
住民側にあるのか、教育委員会などの行政権力側にあるのか

つまり、具体的には、
どのような採択手続であったのかを
考えると必要を訴えたいのです。

すると、
すでに、採択権限が住民側にはない
採択権限が行政権力側にあるという現実があり、
それは、この現実は全国共通の現実であり、
扶桑社版・自由社版の採択の有無に関係なく、
全ての採択地区の課題となるのではないでしょうか?

扶桑社版が、愛媛で採択されていますので
この問題に合わせて、
愛媛では、歴史認識の課題も合わせて
考える必要があることは、いうまでもありません。

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Okumura Etuo
zxvt29 at dokidoki.ne.jp
えひめ教科書裁判資料
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/zxvt29/sub2-sabannsiryou.htm
小説『坂の上の雲』及びNHK放映をめぐる資料
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/zxvt29/sub4/4/sakakumo.html
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