[CML 005566] 続・五十嵐仁さんの検察審査会という「民意」批判の論について

higashimoto takashi taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2010年 9月 9日 (木) 18:35:33 JST


前回の「五十嵐仁さんの検察審査会という『民意』批判の論について」というメール記事について、Hさんから
下記のようなご指摘をいただきました。

「東本さん、この件につき、私は五十嵐仁さんを支持します。/『決着がついた問題』であるかどうかは解釈
の問題で、二度とも起訴しなかったということは事実上不起訴で決着がついているということです。/また、
検察審査会というものについて、そこでの意見が「民意」であるとはとても思えません。あくまで検察審査会の
「何人かの意見」です。検察審査会がどのようにして誰に選ばれたかも知りませんが、それが日本の検察・
司法制度を補完するものであるとしても、多くの冤罪事件をはじめ、「理不尽」な司法判断に対して今まで何
かして成果を上げたという話は記憶にありません。もし、検察審査会なるものが正しく、また正しく機能してい
るなら、戦前戦後このかたの多くの司法判断に対してもっともっと積極的な関与があってしかるべきですが、
今回「初めて」マスコミに登場したようなものである検察審査会が、よりによって小沢問題に限ってフューチャ
ーされている感が否めません。/『どう責任を取るか』についてもマスコミと結託した検察審査会とそこでの
情報のリークが政治を動かすようなことがあってはならないというのが五十嵐さんの本意でしょう。/そもそ
も検察審査会=民意、という図式を私は認めません。」

以下は、そのHさんの論への私の返信(反論)です。本MLにも発信させていただこうと思います。

Hさん、ご意見拝聴しました。

この問題を考えようとするときふたつの立場がありえます。

ひとつは現行の検察審査会制度を認める立場(現行の同制度が十分なものであるかどうか、という論点
はまた別問題です)と、もうひとつは現行の検察審査会制度は認めない、という立場のふたつです。

ひとつ目の現行の検察審査会制度を認める、という立場をとるならば、五十嵐さんが言うように「(この問
題は)法的には、すでに明確な決着がついている」という考え方は論理的にとりえないと思います。すでに
述べているように検察審査会は同審査会法において「検察官の公訴を提起しない処分の当否」について
「審査を行うことができる」(第2条)と規定されている歴とした法律上の権限を有する機関であり、その法
律上の機関である検察審査会によって現に小沢氏の政治とカネの問題が審査中である以上、それを
「法的には、すでに明確な決着がついている」などということはできないはずだからです。これは法構成の
論理的な解釈問題であって、「『事実上』不起訴で決着がついている」という判断とは別問題です。

ふたつ目の現行の検察審査会制度は認めない、という立場をとるならば、「(この問題は)法的には、すで
に明確な決着がついている」という考え方はとりうるでしょう。

しかし、検察審査会制度は、これも前述したように検察の裁量という名の恣意的判断によって起訴、不起
訴が決定される検察の起訴独占主義の乱用(ことに政治家、権力者に対する不当な不起訴処分)を抑制
・チェックし、かつ司法への市民参加を実現するために設けられた司法の民主化に関わる制度です。同
制度には検察の必要以上の同審査会への介入の余地を残している点、また審査会委員の人数及び期
間の妥当性、法律専門家の助言の問題など不十分な問題をさまざま指摘することはできますが、基本的
には刑訴法の付審判請求とともに検察の起訴独占主義に市民として唯一不服申し立てをすることができ
ることを規定した制度として司法の民主化のためには必要不可欠な制度というべきだろうと私は思います。
その市民としてできる検察司法への数少ない不服申し立ての制度のひとつである検察審査会制度を認め
ない、という立場には私はまったく賛成しかねます。

また、検察審査会の審査委員の意見が「民意」といえるかどうか、あくまで検察審査会の「何人かの意見」
にすぎないのではないか、という問題については、同審査委員はたとえ少人数であれ(同審査会法第4条
には「衆議院議員の選挙権を有する者の中からくじで選定した11人の検察審査員を以てこれを組織する」
とあります。また同第39条の5には「起訴相当」とする議決は「検察審査員8人以上の多数によらなければ
ならない」とあります)市民の中から公正に選定されている以上、その多数決の意見は、その他の市民とし
ての私たちがその結論に賛成であれ反対であれ「民意」と呼ばれなければならないものだろうと私は考え
ます。その検察審査会の「民意」が仮に多くの「民意」(世論と呼ばれるもの)とかけ離れたものであったと
しても、です。それが民主主義(という制度)を守る、ということではないでしょうか。多数の意見が必ずしも
ひとりの意見に優れているわけではないことはそれこそ歴史が証明していることです。それでも多数決原
理は民主主義の大鉄則といわなければならないものです。民主主義という制度は煩瑣であり、またときに
劣悪な結論を導きだすこともありえますが、それでも民主主義というべきでしょうか。ウィンストン・チャーチ
ルの有名な「民主主義は最悪の政治形態と言うことができる。これまでに試みられてきた民主主義以外の
あらゆる政治形態を除けば」(英国下院演説、1947年11月11日)という言葉もそのような意味だろう、と私
は思っています。

なお、検察審査会が「『理不尽』な司法判断に対して今まで何かし」た例としてウィキペディア『検察審査会』
は次のような例を挙げています。

【「不起訴不当」または「起訴相当」議決が3回以上なされた例】 
・岡山市短大生交通死亡事故(3回「不起訴不当」)

【起訴議決がなされた例】
・明石花火大会歩道橋事故(3回「起訴相当」議決の後「起訴議決」) 
・JR福知山線脱線事故

【ある刑事事件が冤罪であると暗に指摘した検察審査会の議決の例】
・徳島ラジオ商殺人事件(証人による偽証罪の審査)
・丸正事件(被害者親族による殺人罪の審査)
・高知白バイ衝突死事故(警察による証拠隠滅罪の審査)

なおまた、検察審査会の問題については次の点も指摘しておく必要があるように思います。市民から選
出される検察審査会であってもその審査が不当な場合もありえるということです。10年ほど前に地裁、
高裁、最高裁、差し戻し第一審、第二審という25年間5回もの裁判を経てやっと無罪判決が確定した
甲山事件と呼ばれる冤罪事件をご存知だと思いますが、この冤罪事件の端緒をつくったのは、検察が
証拠不十分で不起訴処分にした同事件の「容疑者」を「不起訴不当」の決議をした市民から選出された
はずの検察審査会でした。同検察審査会は結果として25年もの苦難をこの無罪判決を勝ち取った当
時の「容疑者」に強いてしまったのです。このことも忘れてはならないことだろうと思っています。

それでももう一度繰り返しておきます。この件につき、私は五十嵐さん、またHさんの見解を支持できま
せん。


東本高志@大分
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi



CML メーリングリストの案内