[CML 005549] 五十嵐仁さんの検察審査会という「民意」批判の論について
higashimoto takashi
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2010年 9月 7日 (火) 20:11:46 JST
民主党代表選はすでに折り返し地点を過ぎ終盤戦に入りましたが、その代表選に立候補している小沢
一郎同党前幹事長が3日のNHKやテレビ朝日などの報道番組で現在東京第5検察審査会で審査され
ている自らの政治資金問題に触れ、同検察審査会が2度目の起訴相当議決をした場合は同意する旨
の考えを示すとともに、一方で「検察審査会といういわば一般の素人の人が(検察官というプロが判断
したことに)それをよいとか悪いとかといういまの検察審査会の仕組みが果たしてよいのかどうか」(テレ
ビ朝日 2010年9月3日11:54)と同審査会のあり方を暗に批判した発言が波紋を呼んでいます。むろん、
小沢前幹事長の同発言は、ときとして起こりうる検察、すなわち国家の起訴独占主義の乱用をチェック
し、かつ司法への市民参加を実現するために設けられた現行の検察審査会制度を衆愚視する危険な
民主主義否定の論とみなされなければならないものだからです。
しかし、この小沢発言について、日頃は的確、適正な評言をして定評のある法政大学の五十嵐仁さん
が少し以上に首を傾げたくなる論を展開しています(「強制起訴によって小沢さんを有罪にできなかっ
たらどう責任を取るつもりなのか」五十嵐仁の転成仁語 2010年9月4日)。
http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2010-09-04
いわく。
「(この問題は)法的には、すでに明確な決着がついているということです。/この点では、小沢さんが
『何もやましいことはない』と言っている通りです。この小沢さんの言葉は、検察の対応によって裏書
きされています。/小沢さんの資金管理団体『陸山会』の政治資金規正法違反事件でも、政治資金
報告書の虚偽記載についても、検察は小沢さんを起訴しませんでした。裁判になっても有罪にできる
だけの材料がないと判断したからです。」(同上)
「もし、無罪になれば、検察の責任は問われなくとも、検察審査会のあり方が問題になるでしょう。/
起訴しなかった検察の判断をくつがえして現職の総理大臣を起訴し、それでも有罪に問えなかった
場合、検察審査会は責任をとることができるのでしょうか。起訴された段階で内閣不信任案が提出
され、それが成立して倒閣となったにもかかわらず小沢さんが有罪にならなかった場合、誰がどの
ような責任を取れるのでしょうか。」(同上)
「検察審査会が起訴を議決した場合、いわばプロの判断をアマがくつがえすことになりますが、公
判で対決するのはプロ同士です。やはり、新しい材料が出てこない限り、有罪に持ち込むのは難し
いでしょう。/検察審査会の判断は、あくまでも一般国民としての『心証』によるものです。(略)/
検察審査会は、このようなリスクを負ってまで「起訴相当」と議決するでしょうか。マスコミを賑わせ
ている強制起訴を前提にした議論は、ただの妄想にすぎないのではないでしょうか。」(同上)
五十嵐さんとしてはわが国のマス・メディアの「極めて意図的」な「反小沢の世論誘導」「報道姿勢」
(五十嵐仁の転成仁語 2010年9月6日)に業を煮やすあまり上記の小沢擁護の論を展開している、
ということなのでしょうが、しかし、その論は、日頃の五十嵐さんらしくない冷静な判断力に欠けた謬
論の積み重ねの論でしかありません。五十嵐さんの陥っている陥穽を指摘しておく必要を感じます。
その第一。五十嵐さんの小沢氏の政治とカネの問題は「法的には、すでに明確な決着がついてい
る」という認識がまず誤っています。
いうまでもなく小沢氏の政治とカネの問題(政治資金規正法違反容疑事件)は東京第5検察審査会
で現在進行形で審査中の事案です。その検察審査会は同審査会法において「検察官の公訴を提
起しない処分の当否」について「審査を行うことができる」(第2条)と規定されている歴とした法律上
の権限を有する機関です。さらに同法第41条の9及び同条の10では同審査会が再度の「起訴相
当」議決をした場合は裁判所は必ず公訴提起(強制起訴)をしなければならないことを法律上義務
づけてもいます。そうした法律上の機関である検察審査会で小沢氏の政治とカネの問題は現在審
査中なのです。それを「法的には、すでに明確な決着がついている」などということはできないでしょ
う。五十嵐さんの論は、検察の裁量(恣意的判断)によって起訴、不起訴が決定される検察司法主
義の論理を一歩も超えることができていない市民不在(検察審査会制度否定)の法律論といわなけ
ればならないのです。
その第二。五十嵐さんは言います。「もし、無罪になれば、(略)検察審査会のあり方が問題になる
でしょう。(略)起訴された段階で内閣不信任案が提出され、それが成立して倒閣となったにもかか
わらず小沢さんが有罪にならなかった場合、誰がどのような責任を取れるのでしょうか」、と。立法
府の場での内閣不信任案提出と司法的手続きの一環としての検察審査会の「起訴相当」議決はま
ったく性質を異にするものです。その次元の異なる問題を持ち出し、「小沢さんが有罪にならなかっ
た場合、誰がどのような責任を取れるのでしょうか」と難詰する。この五十嵐さんの論はまったく筋
が通らないというばかりではなく、検察審査会もそのいかめしい名称に関わらずひとつの「民意」の
形には違いありません。五十嵐さんが左記のように言うとき、ご本人にはその自覚はないのかもし
れませんが、五十嵐さんの発言はそうしたひとつの「民意」の形に対する大上段からの激しい恫喝
になりおおせているのです。五十嵐さんには自己の論が結果としてどのような負の役割を果たして
いるのか。厳しく再検討していただきたいものだと思います。
その第三。五十嵐さんはさらに言います。「検察審査会は、このようなリスクを負ってまで『起訴相
当』と議決するでしょうか。マスコミを賑わせている強制起訴を前提にした議論は、ただの妄想に
すぎないのではないでしょうか」、と。ここで用いられている「妄想」という言葉は直接にはマスコミ
に向けられた言葉だということはわかります。しかし、長々と綴られた検察審査会批判とも受け取
れる五十嵐さんの論旨からはこの「妄想」というあられもない言葉は検察審査会というひとつの
「民意」に向けられた言葉でもあるように受けとられかねません。実際、もしかしたらそういう意味
でも用いているのかもしれない、と私すら思えるところがあるのです。これも今回の五十嵐さんの
論の不徳のゆえということになるでしょうか。
以上、今回の五十嵐さんの論には私は承服できない、ということを申し上げました。
東本高志@大分
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi
CML メーリングリストの案内