[CML 004008] Re: 「沖縄県民は鳩山打倒に動かなければ嘘だ」〜「日本人の植民地主義について」(3)

maeda akira maeda at zokei.ac.jp
2010年 5月 7日 (金) 15:27:28 JST


前田 朗です。

5月7日

金野さん

野村氏の強烈な批判は、残念ながら、私の見るところ、日本人の側に十分に受け
止められていません。例外は後述します。おそらく、瑣末の揚げ足取りをして野
村氏の基本的な問いかけを封じ込めたり、軽んじたりしているのではないかと思
います。

沖縄の中でも批判があります。例えば私の尊敬する安里英子さんは、野村氏の議
論が対話の回路を閉ざしてしまうのではないかという危惧を表明されていたと思
います。

しかし、野村氏の議論は日本人に向けて放たれているのです。個別の意義異論は
あるものの、私は野村氏の基本的な問いかけがまっとうなものであると考え、日
本人の一人として向き合う必要性を感じ、その判断の下に発言し、行動してきた
つもりです。不十分かもしれませんが。「植民者」と糾弾される立場で、この5
年間に沖縄に招かれて10回以上講演してきました。つねに野村氏の問いかけを
意識しながら(心理的には結構つらいものです)。

私の位置づけとしては、新川明『反国家の兇区――沖縄・自立への視点』(社会評
論社、1996年)[現代評論社、1971年]に連なる著作です。繰り返し立ち
戻らなくてはならない著作と言うべきでしょう。

上に「例外」と書きましたが、野村氏の問いかけに誠実に応答した日本人の一人
に池田緑さんがいます。池田緑「沖縄への欲望――“他者”の“領有”と日本人の言説
政治」(野村編『植民者へ』72〜149頁)。これも重要な論考です。その冒
頭の数節だけご紹介します。

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 われわれ日本人は、過去にも、あるいは現在でも、さまざまな“他者”を設定す
ることによって利益を得てきた。われわれの植民地主義は、利益を収奪する対象
を“他者”として創造・設定し、その利益の収奪を通じて、さらに対象を他者化し
続けるという過程をたどっている。その利益は、植民地における経済的収奪か
ら、日本人同士の権力闘争における“他者”の資源化まで、さまざまな次元で存在
している。

 日本社会および日本人が“沖縄”という他者の設定により得ている利益の筆頭
は、在日米軍基地の七五%を沖縄に集中させることによって、沖縄人の犠牲の上
に平和と安全を享受していることであり、軍事基地の存在によるさまざまな社会
的不利益やコストを沖縄人に負担させることによって、経済的繁栄を享受してい
ることである。その意味で、この利益の受益者は――私も含め――沖縄社会に対する
個人的な思想信条をこえて、あくまでも“われわれ日本人”と表記される必要があ
る。これは、戦前からの沖縄人労働力の搾取、沖縄戦における“捨て石”としての
位置づけ、戦後二七年間の米軍統治期における日本の軍事負担の免除と続く、沖
縄を日本という国民国家に編入して以来の、一連の差別の連続の上に位置する利
益である。

 そのような差別の実践を、われわれは“沖縄問題”と名づけ、その構造を“地政
学”という概念を用いて不可視化してきた。“沖縄問題”という呼称は、沖縄の基
地問題を日本社会から切り分けて不可視化する効果をもつ。それは日本人の認識
上に一種のゲットー化をもたらし、責任の所在を曖昧にしてきた。さらに、“太
平洋の要石”という言葉に象徴される“地政学”という発想。すなわち沖縄に米軍
基地が集中するのは、陸地と海洋の配置の結果であり、緊張が続く極東の国際情
勢に照らして不可避であるとの“地政学”上の認識が、日本人に共有されてきた。
この認識が、沖縄への極端な基地の偏在は、地理的必然性の帰結であり、それ以
上の思考を重ねる必要のない自明の現実として、日本人の思考停止を正当化して
きた。この“地政学”は、沖縄に基地が集中してきた歴史的経緯を無視したもので
ある。さらに言えば、沖縄への基地集中の必要性を否定する議論は米政府内部に
も存在したが、それらの議論には耳を塞いだものでもあった。結局のところ、基
地問題を “沖縄問題”として自らの社会とは別の問題として認識し、さらに“地政
学”によって考える余地のない仕方のないこととして、多くの日本人は思考を停
止してきた。国際政治と“地政の暴虐”にさらされた遠くにある気の毒な島、沖
縄。日本人はその状況を自らは手も足も出せない事柄として遠くから眺め、とき
には心を痛めながらも無関心であり続け、安全と経済的繁栄だけは享受し続けて
きたのである。

 “地政の暴虐”とみえるものは、実際には“日本人による無関心”という“心の暴
虐”である。しかし、多くの日本人にとっては、この現実は受け入れ難い。自ら
を暴虐の実行者として堂々と定義することへの心理的負担は大きく、それは一般
に耐え難いことである。同時に安全のためのコストの免除と経済的繁栄も手放し
たくはない。したがって、心の暴虐を正当化するレトリックが準備されなければ
ならない。いうまでもなく、“沖縄問題”という呼称と“地政学”は、そのレトリッ
クの一部として有効に作用してきた。これらのレトリックを経ることによって、
日本人は基地の存在に苦しむ沖縄人を直視しないという態度を身に付けてきた。
直視すれば良心の呵責もうまれるし、責任も生ずるからである。

 そして癒しの島、沖縄。

そこでは多様な沖縄が語られる。陽気で爽やかな人々が暮らす沖縄。文化と伝統
の豊穣の地、沖縄。しかしそこで語られる“多様な沖縄”にはひとつの共通項があ
る。それは基地の存在の抹消であり、基地の影の欠落である。日本人が語る“多
様な沖縄”とは“基地が存在しないかのような沖縄”の別名であり、“多様な沖縄”
が日本人によって語られれば語られるほど、“基地に苦しむ沖縄”は“多様な沖縄”
の一つの側面として言説の海に埋没してゆく。

 そして“多様な沖縄”という他者のカテゴリーを創作し、操作する過程で、さら
に新たな利益が日本人にもたらされる。多様な沖縄社会と沖縄人を描くことは、
特権化された一部の日本人を、複数の日本人の在りようとして(あくまでも言説
上において)逆照射する。それは沖縄について心を痛める良心的日本人と無頓着
で鈍感な日本人といった対比に典型的にみられる日本人内部でのカテゴリー化で
ある。沖縄も多様なら、日本も多様であるはずだ、というわけだ。この多様さを
めぐる言説の政治において、“沖縄”は再度資源化される。それは日本人の間にお
ける言説上の権力闘争に用いる個人的な資源としてである。日本人は、沖縄社会
と沖縄人を何度も再定義し、他者化し続け、その“他者性”を言説において操作す
ること、換言すれば“沖縄”をめぐる概念操作の政治によって、さまざまな利益を
享受することが可能なのだ。

 このような“他者” を資源化する言説の政治は、二つの意味で考察に値する。
一つ目は、沖縄に新たな側面を“発見”し、他者化し続けることが基地の存続を容
易にしてきた点。二つ目は、日本人の間で“沖縄”を言説上において政治資源化す
ることが、さらなる他者化を促進する点である。この二つは相互に補完しあう形
で反復されてきた。本章では、この二点を中心に、日本人の言説実践における、
沖縄社会と沖縄人の政治資源化について考えたい。

<以上同書72〜76頁>

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余計なことを付け加えるまでもないと思いますが、「良心的日本人」とはいった
い何なのかも問われていることにご注意ください。

ではまた。




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