[CML 004725] 林田力「格差社会における『千と千尋の神隠し』の不条理」
Hayariki
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2010年 6月 28日 (月) 07:57:42 JST
『千と千尋の神隠し』(宮崎駿監督)はスタジオジブリのアニメ映画で、2001年7月20日に公開され、大ヒットした作品である。2009年6月5日に日本テレビ系列の金曜ロードショーでも放映された。
公開当時はキャッチコピー「「生きる力」を呼び醒ませ!」に象徴される本作品のテーマが豊かな社会で生きる力を失った子ども達への教育的メッセージとして日本社会に受け入れられた。しかし、格差が拡大し、希望が見出せない現代に本作品を見直すと不条理さが感じられてならない。
本作品はグズで甘ったれ、泣き虫な少女が「生きる力」を身につける物語と解説されることが多い。確かに千尋には身勝手な大人が子どもに押し付けたがっている「生きる力」なるものは欠けている。しかし彼女は大人以上に本物の生きる力を持っている。成長物語と捉えるのは大人の傲慢であり、彼女が元々有していた能力を見落としている。
http://www.janjanblog.com/archives/7232
冒頭の引越の車中で千尋は、ふて腐れている。これは成長する前の彼女をネガティブに描いたものと解釈できる。しかし引越は子どもにとっては、親の都合で行われるものであり、自分が育ってきて住み慣れた街、仲の良かった友達と別れなければならない辛いものである。楽しい気分になれないことは当然である。
見ず知らずの新しい町での新生活がこれまで同様である保証はなく、前向きに捉えるだけでは単なる楽天家、楽しいことしか考えられない愚かな夢想家になってしまう。引越しについて何も感じない方が感受性に問題がある。前の町での友達との想い出に浸っている点も、過去を真剣に受け止めず、同じ過ちを繰り返す日本人の悪癖を考えれば、過去を大切にしている点で肯定的に評価できる。
その千尋の優れた能力は、湯屋の世界に行こうとする両親に「行きたくない」と言っている点にある。その後も要所で「帰りたい」と発言している。そのような千尋を父親は臆病と笑い飛ばしたが、正しかったのは千尋である。千尋の危険を直感的に察知し、危険を避けようとする能力こそ、まさに生きる力である。危機管理と言うと日本社会では危機に陥ってからの対処能力に目がいく近視眼的な発想が幅を利かせているが、危機に陥らないようにするための能力の方が重要である。その方が結果的にローコストで済む。
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「行きたくない」と主張した千尋が、彼女の発言を無視した両親を助けなければならない状況は不条理である。馬鹿な親のせいで苦労しなければならない子どもは可哀想である。『もののけ姫』のアシタカも村を守るために戦った結果、呪いをかけられ村を出て行かなくなったという点で不条理である。しかしアシタカが村を守るという価値を達成するためであったのに対し、千尋には湯屋の世界が自分の住む世界とは違うことを最初から本能的に感じており、そこへ行くことに価値はない。それを成長するための試練という意味を持たせるならば、「しつけ」の名目で子どもを虐待する大人の論理に接近する。
現代の格差社会も根本は世代間の格差である。就職氷河期で新規採用が抑制された世代が非正規労働者となることを余儀なくされた。それを試練と位置付けて、「生きる力を獲得して乗り越えろ」と主張するならば不条理極まりない。一方的に不条理を押し付けておきながら、それを乗り越えられないのは当人に生きる力がないからという類の愚かしい主張はしないようにしたい。
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